第4話 影山雄蔵ではない男
早朝のホウジュ区は、夜の名残を捨てきれないまま仕事の顔を作っていた。
帝都エデンの商業区として知られるホウジュ区は、昼になれば人の波で埋まる。空中回廊を通勤者が流れ、地上の大通りには魔導バスと自動運転車が列を作り、ビルの壁面広告には女帝政府公認企業の宣伝が光る。高層階のカフェでは出勤前の会社員が苦い珈琲を飲み、下層の路地では夜勤明けの労働者が安い麺を啜る。
だが、まだ朝は浅い。
ビルの窓は半分だけ目を覚まし、清掃用ドローンが歩道を滑り、警備機械人形が正面玄関の硝子扉を拭いている。新聞配達用の小型機械人形が交差点を小走りに抜け、広告端末には眠たげな女帝ヌルの義体が映し出され、今日の帝都経済指数を告げていた。
光はある。
だが、その光はまだ冷たい。
影山グループ本社ビルは、そんなホウジュ区の朝の中心にあった。
黒い硝子と白い石材を組み合わせた高層建築。帝都エデン成立期から続く老舗企業らしく、外観は派手すぎず、しかし控えめすぎもしない。正面玄関の上には、月にも羽にも見える影山グループの紋章が掲げられている。
魔導炉関連部品。義体素材。結界維持導体。教育支援基金。医療法人。機械人形関連企業への投資。影山の名は、帝都の表にも裏にも広がっていた。
その本社へ向かって、黒塗りの高級車が走ってくる。
先導車が二台。
後続車が二台。
中央の車両は、魔導装甲を備えた特注車だった。外からは中が見えない。窓硝子は対魔導狙撃処理済み。車体下部には地雷、呪符、影縫い、霊的干渉への防御結界。車内の人物を守るために、企業警備としては過剰なほどの装備が施されている。
それでも、万全ではない。
どれほど堅い箱を作っても、中にいる人間が呼吸する以上、どこかに隙間はある。
黒塗りの車列は、早朝の交通整理によってほとんど貸し切りのようになった大通りを進んでいた。道路脇には警備員が立ち、歩行者は歩道の奥へ誘導されている。普通の企業幹部の出勤風景ではない。政治家か、宗教家か、あるいは命を狙われている人間の移動だ。
中央車両の後部座席に、影山雄蔵は座っていた。
四十代半ばに見える男だった。
整った顔立ち。冷たく切れ長の目。丁寧に整えられた髪。高級なスーツ。手首には古い型の機械式腕時計。端末ではなく時計を使うあたりに、名門企業の当主らしい演出がある。
彼は車窓の外を見ていなかった。
膝の上の端末にも目を落としていない。
ただ、両手を組み、指先だけを細かく動かしている。
隣に座る秘書が、予定を読み上げていた。
「八時二十分、本社到着。八時四十五分、役員会前打ち合わせ。九時三十分、影山基金の夜間教育支援に関する広報収録。十時十五分、女帝政府生活支援局とのオンライン会議。十一時、記者向けコメント確認――」
「夜間教育支援の資料を差し替えろ」
雄蔵が言った。
秘書は一瞬だけ目を上げた。
「昨夜、最終確認を終えておりますが」
「差し替えろ」
「どの部分を」
「“行き場のない若者に未来を”という文言だ」
「問題がございましたか」
「古い。感傷的だ。投資効果が見えない」
秘書は沈黙した。
彼は端末へ指を走らせる。
「では、“多様な人材の社会接続と都市機能への還元”へ変更いたします」
「それでいい」
雄蔵は深く息を吐いた。
車内の空調は完璧に調整されている。外気の匂いは入らない。振動も少ない。車列は規則正しく進む。
だが、彼の額には薄く汗が滲んでいた。
「社長」
秘書が小さく声を落とした。
「体調が優れませんか」
「問題ない」
「医療班を本社に待機させます」
「不要だ」
「ですが」
「不要だと言った」
秘書は口を閉じた。
雄蔵は窓を見た。
黒い硝子には、自分の顔が映っている。
影山雄蔵の顔。
彼はその顔を、どこか遠いものを見るように見つめた。
その時、車両上部の警戒結界が反応した。
最初に気づいたのは、後続車の警備員だった。
端末に赤い警告が走る。
上空質量反応。
魔導反応、微弱。
落下速度、異常。
警備員が叫んだ。
『上だ!』
次の瞬間、中央車両のフロントが潰れた。
轟音。
黒塗りの装甲車が、地面に叩きつけられたように沈む。ボンネットがひしゃげ、フロントガラスの防御結界が蜘蛛の巣状に割れた。車体は前方へ半回転しかけ、魔導制御が悲鳴のような音を上げて姿勢を保つ。
車列が乱れた。
先導車が急停止し、後続車が斜めに滑る。警備員たちが一斉に車外へ飛び出し、通行人の悲鳴が交差点に響いた。ビル壁面の広告が一瞬乱れ、女帝ヌルの微笑がノイズで歪む。
潰れたフロントの上に、一人の男が立っていた。
白銀の髪。
黒いコート。
紅い唇。
朝の光を受けてもなお、夜の気配を纏った男。
ルルトは、車のボンネットに片足を置いたまま、優雅に会釈した。
「ごきげんよう」
警備員たちが銃を構える。
魔導弾用の短銃、対義体用の電磁槍、拘束用の影縫いワイヤー。反応は早い。影山グループの警備部門は、並の企業警備ではない。
だが、ルルトは少しも慌てない。
彼は潰れた車体越しに、後部座席の男を見た。
「影山雄蔵氏だね」
雄蔵は、割れた防護硝子の奥で凍りついていた。
秘書が彼の前に身を乗り出し、防弾鞄を盾にする。
ルルトは微笑んだ。
「ご依頼により、あなたの命を貰い受けに来ました」
朝のホウジュ区が、数秒だけ完全に止まった。
その後、警備員たちが一斉に動いた。
「撃て!」
魔導弾が放たれる。
青白い光弾がルルトの身体を貫こうとする。彼はボンネットの上で片足を軸に身体を回し、光弾の間を抜けた。黒いコートが朝日を受けて翻る。続けて、影縫いワイヤーが足元へ走った。ルルトの影を縫い止めようとする細い黒線。
ルルトはわざと一歩、影縫いの範囲へ踏み込んだ。
ワイヤーが彼の影を捉える。
警備員の一人が叫ぶ。
「拘束!」
だが次の瞬間、ルルトの影が二つに割れた。
片方の影だけが地面に縫い止められ、もう片方の影からルルトの身体が滑るように抜け出す。
シャドービハインド。
完全な瞬間移動ではない。影と死角を利用した魔導機動。視界の端、車体の影、警備員の足元に落ちる薄い影。それらを足場にして、彼は位置をずらした。
ルルトは警備員の背後に立っていた。
「影を縫うなら、まず本体がどちらか確認した方がいい」
警備員が振り向く前に、ルルトの指が首筋へ触れた。
男は糸が切れたように崩れ落ちる。
殺してはいない。
気絶させただけだ。
別の警備員が電磁槍を突き出した。ルルトは槍の軌道を見ず、相手の肩の開きと足の踏み込みだけで避けた。槍が空を切る。ルルトの手に黒い爪が形成される。
ダーククロウ。
黒い爪が電磁槍の柄を切断した。
警備員の手に痺れが走り、彼は武器を落とす。ルルトはその脇を通り過ぎながら、男の膝裏を蹴った。警備員が膝をつき、さらに後頭部へ軽く拳を入れられて倒れる。
車内では、秘書が雄蔵を引っ張っていた。
「社長、こちらへ!」
後部ドアが開く。
雄蔵は外へ転がり出るように出た。
警備員二人が盾になる。
ルルトはそれを見た。
逃走経路。
本社正面玄関ではない。車列の右側、業務用搬入口へ向かうルート。事前に緊急避難経路として設定されているのだろう。警備員の位置、路面の誘導結界、ビル側面の小扉。すべてが雄蔵をそこへ逃がすよう配置されている。
だが、一つだけ不自然だった。
雄蔵本人の動きが、避難訓練を受けた者の動きではない。
逃げ慣れていない。
守られ慣れているが、逃げる訓練は身体に染みていない。足の運びが遅い。視線が揺れる。警備員が示す方向を確認してから動く。影山グループの現当主として、何度も危機管理訓練を受けているはずの男にしては、反応が素人に近い。
ルルトは目を細めた。
「妙だね」
彼は車の屋根から跳んだ。
警備員たちの頭上を越え、業務用搬入口へ向かう雄蔵の前へ着地する。
雄蔵が足を止めた。
顔が青い。
「ひっ……!」
その声は、帝都の財界人として報道番組で見せる堂々とした声とは、まるで違っていた。
ルルトは優雅に片手を胸へ当てた。
「失礼。少しばかり移動が荒かったかな」
「社長、下がって!」
秘書が雄蔵を庇おうとする。
ルルトは秘書を見た。
「君は忠実だね」
「近づくな!」
「だが、忠実すぎる。依頼対象ではない人間を傷つける趣味は薄い」
ルルトの足元の影が伸びた。
秘書は反応する前に、自分の足元が黒い影に絡め取られるのを感じた。影縫いではない。影そのものが、足首に柔らかくまとわりつく。動けない。だが痛みはない。
「しばらくそこで見学していてくれ」
ルルトは雄蔵へ向き直った。
雄蔵は後ずさる。
その背中が、業務用搬入口の閉じた扉に当たった。
逃げ場はない。
警備員たちが追いつくまで、あと数秒。
ルルトが手を伸ばせば、喉を裂ける。
胸を貫ける。
脳を撃てる。
影山源三郎から受けた依頼は、ここで終わる。
だが、ルルトは手を止めた。
雄蔵が口を開いたからだ。
「私は……」
喉が震えている。
恐怖だけではない。
長い間隠していた何かが、喉を破って出ようとしている震えだった。
「私は、影山雄蔵ではない!」
ルルトの指先が、雄蔵の喉元の手前で止まった。
朝の空気が、再び止まる。
遠くでサイレンが鳴り始めた。
帝都警察のものだ。
だがルルトは動かなかった。
「今、何と言った?」
雄蔵は壁に背を押しつけたまま、荒い呼吸を繰り返している。
「私は……私は影山雄蔵ではない。違う。違うんだ。頼む、殺さないでくれ。私は本物じゃない!」
「命乞いにしては、面白い言い方だね」
「命乞いじゃない!」
「命は乞うているように見える」
「違う、いや、命は助けてほしい、だが……本当に違うんだ。私は影山雄蔵じゃない。影山雄蔵として動かされているだけだ!」
警備員たちが近づいてくる。
ルルトは片手を軽く上げた。
その瞬間、地面に落ちる彼の影が細く伸び、警備員たちの足元を横切った。警備員たちは本能的に足を止める。影に踏み込めば、何かされる。そう理解したのだ。
ルルトは雄蔵から目を離さない。
「続けて」
「私は……雇われた。いや、雇われたというのも違う。最初からそういう役だった」
「役」
「影山雄蔵として、会議に出る。署名する。記者会見をする。役員に会う。女帝政府との会合に出る。そういう仕事だ」
「顔は影山雄蔵だ」
「そうだ」
「声も」
「そうだ」
「記録も」
「そうだ」
「政府登録も、企業登記も、報道記録も、すべて君を影山雄蔵として扱っている」
「知っている!」
雄蔵は叫んだ。
その叫びは、怒りではなく悲鳴に近かった。
「知っている。毎朝、端末を見るたびに出る。影山雄蔵。影山グループ代表取締役。身分証も、声紋も、網膜も、指紋も、全部、私をそうだと言う。だが私は違う。私は……私は……」
彼は言葉を失った。
ルルトはそこを見逃さない。
「自分の本名が言えない?」
雄蔵の顔が歪んだ。
「……覚えていない」
「いつから?」
「わからない」
「影山雄蔵になる前の記憶は?」
「ある。あるはずだ。子どもの頃の家。母の顔。雨の日。古い商店街。だが、名前だけがない。写真もない。記録もない。思い出そうとすると、頭の中に別の名前が入ってくる」
「影山雄蔵」
男は頷いた。
「本物の雄蔵には会ったことがあるのか」
「ない」
「声は?」
「聞いたことはある。端末越しに。指示だけだ。顔は見えない。声も加工されていたかもしれない。だが、その声が私に言った。おまえは表に出ろ。人前で笑え。署名しろ。会社を動かせ。影山雄蔵として」
「なぜ従った?」
雄蔵は笑った。
壊れたような笑いだった。
「従わなければ、私は誰になる?」
ルルトは黙った。
「影山雄蔵でなければ、私には名前がない。家もない。経歴もない。存在した証拠がない。私は本物ではない。だが、本物ではないと証明する記録すらない」
「顔は整形か」
「違う。少なくとも、私が知る限りでは」
「知る限り」
「医療記録には、整形履歴はない。義体化もない。皮膚も骨格も、出生時からこの顔だったことになっている」
「出生時から、影山雄蔵の顔?」
「そうだ」
「それは人間の話ではないね」
雄蔵は震えた。
ルルトはしゃがみ、雄蔵の顔を近くで見た。
肌の質感。
毛穴。
眼球の動き。
耳の形。
顎の骨格。
傷跡。
魔導整形の痕跡は、少なくとも表面にはない。顔面移植なら、もっと微細な接合痕がある。義体なら、もっと均一すぎる。だが、この男の顔は本物の生身に見える。
だが本物だからこそ、不自然だった。
「手を出して」
「な、何を」
「殺すつもりなら、もう殺している」
雄蔵は怯えながらも、右手を差し出した。
ルルトはその指先を見る。
経営者の手だ。
手入れされている。だが、爪の根元に薄い噛み跡がある。ストレスで噛む癖。報道映像では見えないよう、爪の表面は処理されている。ペンを握る指の位置に硬さがある。書類に署名する機会は多い。だが、長年の手書き仕事をしてきた者ほどの癖はない。
そして、指紋。
肉眼ではわからない。だがルルトは、薄い魔導光を指先へ当て、反射を見た。
登録済みの指紋と一致するだろう。
しかし、指紋の溝に不自然な均質さがある。
作られたのではない。
育てられたような不自然さ。
「面白い」
ルルトは呟いた。
「面白くない!」
雄蔵が叫ぶ。
「私は、毎日、自分の顔を見るたびに吐きそうになる。会社では皆が私を社長と呼ぶ。報道では若き当主と呼ぶ。源三郎は私を愚息と呼ぶ。だが、誰も私の名前を知らない。私ですら知らない!」
「源三郎は、君を本物ではないと知っている?」
「知らないはずがない!」
「なぜそう思う?」
「あの老人は、私を見る時、私を見ていない。顔の奥にいる何かを見ている。まるで、私が壊れるのを待っているみたいに」
ルルトは目を細めた。
そこに、警備員の一人が叫んだ。
「社長から離れろ!」
銃口が向けられる。
ルルトは立ち上がった。
帝都警察のサイレンは近づいている。空中から警察ドローンも降りてきていた。これ以上留まれば、面倒になる。
殺すことはできる。
だが、殺すには情報が足りない。
標的が標的ではないかもしれないなら、殺しはまだ句読点にならない。
ルルトは雄蔵の足元を見た。
影。
朝の光がビルの谷間から差し込み、雄蔵の影は業務用搬入口の壁に向かって伸びている。だが、薄い。人間の影としては、妙に輪郭がぼやけている。
そして、ほんのわずかに形が違う。
雄蔵本人は壁に背をつけ、両肩を強張らせている。だが影の肩は、少しだけ下がっている。本人の右手は震えている。だが影の右手は、何かを握るように曲がっている。
影が、本体を真似ていない。
ルルトは小さく笑った。
「なるほど。影の方が、落ち着いている」
「何を……」
「今日は殺さない」
雄蔵の目が揺れた。
「な、なぜ」
「君を殺すべきかどうか、まだわからないからだ」
「助かる、のか」
「助かるかどうかは、今後の君の説明と、ボクの調査次第だね」
ルルトは秘書に絡めていた影を解いた。
秘書は膝をつき、すぐに雄蔵へ駆け寄る。
「社長!」
「その呼び方、彼には少し酷かもしれないよ」
ルルトは踵を返した。
警備員たちが銃を構える。
だが、撃てなかった。
ルルトの足元から影が広がり、車両の影、ビルの影、警備員たちの影と繋がっていく。撃てば何かが起きる。理屈ではなく、本能がそう告げていた。
ルルトは振り返らず、壊れた車列の間を歩いていく。
帝都警察のドローンが上空に到着した瞬間、彼の姿はビルの影へ沈むように消えた。
*
ホウジュ区の裏路地に出た時、ルルトは少しだけ息を吐いた。
追跡はない。
いや、あるにはある。警察ドローンが二機、遠くから探索している。影山グループの監視端末も、周囲の監視カメラ映像を追っているだろう。だが、それらはルルトの現在位置を正確には掴んでいない。
彼は路地裏の古い公衆端末の前に立った。
帝都の表通りではほとんど使われなくなった型だ。画面には傷があり、決済端末は壊れ、受話器には誰かの落書きがある。だが、こういう古い端末ほど、時々便利だった。
ルルトは受話器を取らない。
端末の下部、清掃用パネルを指先で開ける。
中に、正規の回線とは別の小さな接続端子がある。彼はそこへ細いコードを差し、掌サイズの通信端末を繋いだ。
数秒後、画面が乱れた。
ノイズの奥から、男の声が聞こえる。
『朝から派手だな、ルルト』
シンだった。
帝都有数の情報屋。
ツインタワー東棟に巣を持つ、都市情報の蜘蛛。公式記録、裏社会の噂、監視カメラ、企業登記、医療記録、交通履歴、誰かが消したはずの古いニュースまで、必要とあれば引きずり出す男。
ただし、会話はいつも少し面倒だった。
「見ていたのかい」
『ホウジュ区の大通りで影山グループの車列に誰かが降ってきた。見ない方が難しい。ニュース速報では“装甲車両の制御異常”になっているが、ビルの屋上から黒いコートの不審者が落下した映像は、すでに三つの裏掲示板で拡散されている』
「削除しておいて」
『無料で?』
「服の弁償がまだ入っていない」
『おまえ、財界の大物を襲撃した直後に、まず服代の心配か』
「大切なことだ」
『大切な神経が数本足りない』
「否定はしない」
ルルトは端末へ影山雄蔵の顔写真を送った。
「この男の記録を見たい」
『影山雄蔵。影山グループ現当主。経歴なら公開情報だけでも山ほどある』
「公開情報ではなく、汚れた記録が欲しい」
『汚れた記録?』
「人間の記録には汚れがある。欠落、訂正、古い写真、病歴の揺れ、住所変更の雑さ、学校での小さな処分、交通違反、端末登録の更新忘れ、親族間の書類不一致。そういうものだ」
『なるほど。つまり、綺麗な履歴書ではなく、生活の垢が欲しいと』
「そう」
『おまえは本当に趣味が悪い』
「よく言われる」
数秒、無音。
シンが情報の海へ潜ったのだろう。
ルルトは路地の壁に背を預け、空を見上げた。高層ビルの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。大通りでは騒ぎが続いているはずだが、この路地にはまだ静けさがあった。
壁の向こうで、誰かが咳をしている。
上階の窓から、水が垂れてきた。
数分後、シンの声が戻った。
『妙だな』
「早いね」
『軽く見ただけで気持ち悪い。深く見たらもっと気持ち悪いだろうな、これは』
「何が見えた?」
『影山雄蔵の公式記録は、完璧だ。出生記録、予防接種、幼稚園、小学校、中学校、高等部、帝都大学経済魔導政策学部、海外研修、影山グループ入社、役員就任、代表就任。病歴、受賞歴、インタビュー、卒業写真、家族写真、政府登録、すべて揃っている』
「それだけなら、名門の御曹司として自然だ」
『自然じゃない。揃いすぎている』
シンの声から、いつものふざけた調子が少し消えていた。
『人間の記録は、普通もっと汚い。欠落や矛盾がある。これは人間の経歴じゃない。提出用の資料だ』
「具体的には?」
『まず写真だ。幼少期から現在までの顔の変化が、綺麗に連続しすぎている。成長予測ソフトで作ったみたいに、各年代の顔が整いすぎている。普通の写真には、角度や光や体調でブレが出る。だが雄蔵の記録写真は、全部“影山雄蔵として残すのに都合がいい顔”をしている』
「顔が揃いすぎている」
『次に病歴。健康すぎる。軽い風邪、骨折、歯科治療、アレルギー、全部記録はある。だが、全部ほどよい。人間らしさを出すために配置された傷のように見える』
「作り物の履歴書に、わざと欠点を入れた?」
『そう。しかも丁寧すぎる。小学校時代に転んで膝を縫った記録がある。その傷跡の写真もある。だが現在の雄蔵の膝に、その傷跡があるかは不明。企業健康診断の高解像度記録は、なぜか閲覧制限が強すぎる』
「身内が隠している?」
『あるいは、見られたくないのは傷跡ではなく、傷跡がないことかもしれない』
ルルトは目を細めた。
「続けて」
『学校記録もおかしい。友人関係の証言が少ない。成績は優秀。教師の評価も優等生。だが、同級生の個人ブログ、旧式SNS、卒業アルバムの寄せ書き、そういう横の記録が異常に薄い』
「存在感のない御曹司だった?」
『その説明でも通る。だが、通りすぎる。何もかも“通るように”作られている。しかも、作成時期が同じではない。古い記録も本当に古いタイムスタンプを持っている』
「過去に遡って記録を差し込んだ?」
『帝都政府級の権限か、長期的な仕込みが必要だな。どちらにしても、普通の企業偽装ではない』
ルルトは、雄蔵の言葉を思い出した。
私は影山雄蔵ではない。
本名を覚えていない。
この顔は生まれつきだったことになっている。
「声紋、指紋、網膜は?」
『公式登録では一致。ただし、公式登録そのものが疑わしい。何を本人と定義して登録したかによる』
「哲学の話になってきたね」
『帝都ではよくある。書類上の本人、肉体上の本人、記憶上の本人、魂の本人、影の本人。どれを採用するかで、裁判が十年延びる』
「今回は裁判にする気はない」
『だろうな。おまえの裁判は銃声で終わる』
「今日は撃たなかった」
『珍しい』
「標的が標的ではなかったかもしれない」
『それで?』
「本物の影山雄蔵を探す」
シンは数秒黙った。
『面倒な言い方だな。記録上は、さっきおまえが襲った男が本物だ』
「彼の影が違った」
『詩的表現?』
「物理的な観察だよ。影が薄い。輪郭が本人とずれていた」
『……月影学院か』
シンが低く言った。
ルルトは端末の画面を見た。
「なぜそこへ飛ぶ?」
『影山グループの社会復帰支援基金。その主な支援先の一つが帝都月影高等学院・夜間特別課程だ。通称ルナティックハイ。表向きは不登校や魔導災害被害者、義体使用者、機械人形関連家庭の支援。だが、古い支援記録に“影干渉適性調査”という妙な項目がある』
「影干渉適性」
『公式には心理ケアの一種として処理されている。トキオ聖戦後の影恐怖症、死都東京由来の幻覚、魔導災害による自己像障害。そういう名目だ。だが、実際の検査項目が不自然に細かい。影の長さ、濃度、独立反応、照明条件ごとの遅延、睡眠時の影反応』
「学院側は知っていると思うかい」
『一部はな。全部ではないだろう。学校というのは便利だ。善意の人間が多い。善意の人間は、悪意の書類に判子を押す時、自分が善いことをしていると思える』
「御門サエは?」
『おや、もう会ったのか』
「少しね」
『生活指導兼、夜間部管理責任者。評判は悪くない。生徒には厳しいが、切り捨てない。問題は、彼女の上にいる運営法人と支援企業だ。影山基金がかなり食い込んでいる』
「影山雄蔵の記録と、夜間部の影検査。繋がりそうだ」
『綺麗すぎる記録。薄い影。影山という名前。夜間部。深夜課程。おまえ、また面倒な事件を拾ったな』
「向こうから落ちてきた」
『今回はおまえが車に落ちただろ』
「細部にこだわるね」
『情報屋だからな』
シンは少し間を置いた。
『気をつけろ、ルルト』
「珍しいね。君が心配するとは」
『心配じゃない。おまえが死ぬと、未払いの調査費が焦げつく』
「それは大変だ」
『それと、影山雄蔵の記録にもう一つ変な点がある』
「何かな」
『影山雄蔵という名前が、過去に複数回、別人の一時登録名として使われている可能性がある』
ルルトの表情が少しだけ変わった。
「一時登録名?」
『戸籍ではない。夜間部や医療施設、影山基金の保護記録の中に、短期間だけ“影山”姓を付与された人物がいる。正規の記録では削られているが、断片が残っている。その中に、雄蔵と同じ顔の写真が混じっているかもしれない』
「かもしれない?」
『顔写真データが破損している。いや、破損させられている。復元に時間がいる』
「頼む」
『有料でな』
「服代が入ったら払う」
『影山に請求するのか?』
「そのつもりだ」
『おまえ、本当に神経が太いな』
「いいや。ボクの神経は、撃つたびに少し腐る」
ルルトは通信を切った。
路地の奥から、朝の光が差し込んでいた。
彼はしばらく動かなかった。
影山雄蔵ではない男。
けれど記録上は影山雄蔵である男。
顔も声も指紋も網膜も一致する男。
だが、自分の本名を言えない男。
そして、本人よりも落ち着いた影。
「人間の記録は汚い、か」
ルルトは呟いた。
「なら、綺麗すぎる人間は、誰かに洗われた死体かもしれないね」
*
その夜、帝都月影高等学院の夜間部では、授業がいつもより静かだった。
理由は誰も言わない。
だが、生徒たちは何かを感じ取っている。昼のニュースでは、影山グループ社長の車列が事故に遭ったと報じられていた。装甲車両の制御異常。軽微な怪我。業務に支障なし。影山雄蔵は予定通りオンライン会議へ出席。
公式発表は、あまりにも整っていた。
夜間部の生徒たちは、整いすぎた話をあまり信じない。
ルナは教室の後ろの席に座っていた。
正式な生徒ではない。見学者扱いだ。だが、年配の女性教師は何も言わず、プリントを一枚余分に置いてくれた。リツは隣の席で眠気と戦っている。頬杖をつき、時々首が落ちそうになっては戻す。
ミオは、前の席にいた。
今日は遅刻していない。
彼女は黒板を見ている。だが、その視線はどこか遠い。授業の内容が頭に入っているのかどうか、わからない。
そして、ミオの影は、今日も濃かった。
授業が終わる少し前、教室の照明が一度だけ瞬いた。
リツが小さく舌打ちする。
「またか」
「また、とは」
ルナが小声で尋ねる。
「零時前に照明が揺れる日は、だいたい変なことが起きる」
「毎日ではないのですか」
「毎日だったら通ってない」
ルナはミオの方を見た。
ミオ本人は、机に両手を置いている。
だが、床に落ちた影だけが、ゆっくりと伸びた。
照明の位置とは関係なく。
影は机の脚を越え、床を這い、黒板の前まで伸びる。
誰も声を上げなかった。
教師も、動きを止めた。
ルナだけが、息を止める。
影は黒板へ立ち上がった。
人の形ではない。
影そのものが、墨のように黒板へ染み込んでいく。
チョークは動いていない。
だが、黒板に白い文字が浮かび始めた。
本物はどこ?
教室の空気が冷えた。
ミオが、小さく呻く。
「……やめて」
彼女は自分の影を見ていない。
目を伏せ、両手を握り、震えている。
「やめてよ……」
黒板の文字は消えない。
本物はどこ?
ルナはその文字を見つめた。
昼にも夜にも存在しない名簿。
ミオの影。
影山雄蔵ではない男。
自分の名前を名乗れない人間。
所有者未登録の機械人形。
全部が一つの言葉に集まっていく。
本物はどこ?
ルナの手が、机の上のプリントを握り締めた。
隣で、リツが低く言う。
「見るなって言っただろ」
「ですが」
「見たら、向こうも見る」
その瞬間、黒板の文字がほんの少し滲んだ。
まるで、こちらへ目を向けたように。
*
同じ頃。
影山グループ本社ビルの地下では、朝の騒ぎなど存在しなかったかのように、静かな機械音だけが響いていた。
そこは公式な地下駐車場ではない。
非常用シェルターでも、資料保管庫でもない。
古いエレベーターを三つ乗り継ぎ、認証扉を七つ通り、影山グループの役員ですら存在を知らない階層へ降りた先にある、白い部屋だった。
壁も床も天井も白い。
消毒液の匂い。
低温保存装置の唸り。
魔導回路の青い光。
部屋の中央には、透明な培養槽が並んでいる。
一つ、二つ、三つ。
数えれば、十を超える。
その中に、人間が眠っていた。
全員、同じ顔をしている。
影山雄蔵の顔。
若いものもいる。老けたものもいる。髪の長さが違うもの、頬が痩けたもの、傷のあるもの、表情筋の動かし方まで調整中のもの。だが、基礎となる顔は同じだった。
それぞれの培養槽には、識別番号が記されている。
Y-03。
Y-07。
Y-12。
Y-19。
名前はない。
ただ、管理端末には一括してこう表示されている。
影山雄蔵系列。
部屋の奥で、老人の声がした。
「起動準備を」
研究員が振り返る。
「よろしいのですか。今朝の個体はまだ運用可能です」
「予備を目覚めさせる」
「ですが、同時稼働は記録矛盾を生みます」
「記録は後から整えればよい」
老人の姿は、硝子に映っているだけだった。
影山源三郎。
あるいは、その影。
研究員は深く頭を下げる。
「承知しました」
一つの培養槽に、青い光が灯った。
内部の男の指が、ぴくりと動く。
影山雄蔵の顔を持つ男。
彼の目が、ゆっくりと開いた。
だが、その瞳に宿ったものは、朝にルルトが見た男の怯えではなかった。
もっと冷たい。
もっと古い。
まるで、誰かの影が、ようやく本体のふりを始めるような目だった。




