第3話 帝都月影高等学院
帝都月影高等学院の朝は、よく磨かれた硝子の匂いがした。
カミハラ区の丘陵地に建つその学院は、帝都エデンの中でも“きちんとした未来”を見せる場所だった。白と淡い青を基調にした校舎。月の満ち欠けを意匠化した校章。広い中庭。人工芝ではなく本物の芝生。噴水の水は毎朝濾過され、校内の樹木は気象制御の微細な霧を受けて、葉の先まで瑞々しく整えられている。
校門の横には、今日の結界安定率と魔導炉出力が表示されていた。
帝都エデンらしい朝の表示。
ヨムルンガルド結界、安定率九七・三パーセント。
カミハラ区魔導炉支線、通常出力。
死都東京由来ノイズ、観測値微弱。
校内魔導実験棟、第一時限より開放。
生徒たちは、それをほとんど見ない。
見慣れているからだ。
彼らにとって、結界も魔導炉も死都東京も、毎朝の天気予報と同じ位置にある。危険で、重要で、けれど日常の背景に埋もれたもの。
校門をくぐる生徒たちは、制服姿で笑っていた。
「昨日の魔導科学、レポート出した?」
「出した出した。ほぼ端末に書かせたけど」
「それ、先生にバレるよ」
「大丈夫。文体だけ自分で崩した」
「それが一番バレるやつじゃん」
別の生徒たちは、部活動の話をしている。
「今日、放課後グラウンド使える?」
「体育科が魔導トラックの調整するから半面だけだって」
「また? 先週もじゃん」
「文句言うなら都市陸上部に勝ってからにしろって、顧問が」
玄関ホールでは、教師が立って挨拶をしていた。髪を結い上げた女性教師が、生徒のネクタイを直している。別の男性教師は、遅刻ぎりぎりで駆け込んできた生徒を端末で記録しながら、苦笑していた。
「はい、今日も三十秒前。君の人生は綱渡りだね」
「先生、間に合ってますよね?」
「校門はね。教室は間に合ってない」
「厳密!」
「社会はもっと厳密です」
笑い声が上がる。
帝都月影高等学院は、学校だった。
少なくとも、昼の顔は完全に学校だった。
第一時限、魔導科学実験室。
白衣を着た生徒たちが、透明な防護板越しに魔導回路の発光を見つめている。机の上には小型魔導炉の模型と、制御用の結晶素子が並んでいた。
「出力を上げる前に、結界線を閉じる。いいですね。魔導炉は、火ではありません。願えば燃える、怖がれば暴れる。人間の感情と反応しやすいエネルギーを、数式と装置で礼儀正しく扱っているだけです」
教師が言うと、生徒の一人が手を上げた。
「先生、それって結局、魔導炉は生きてるってことですか?」
「生きていると定義するには、自己保存と増殖の能力がありません」
「でも、機嫌はあるんですよね?」
「あります」
「それは生きてるのでは?」
「君たちはレポートの締切にも機嫌がありますが、レポートは生きていません」
教室に笑いが起きた。
実験台の上で、青い光が小さく跳ねる。生徒たちは歓声を上げ、教師は防護板の向こうで目を細めた。
第二時限、情報処理室。
壁一面の端末に、都市交通網のシミュレーションが映っている。生徒たちはペアを組み、カミハラ区の渋滞緩和プログラムを組んでいた。実際の都市データを使うことはできないため、学院用に加工された教材だが、それでも普通の高校教育としては十分に高度だった。
「この信号制御、魔導バスの優先処理が抜けてる」
「え、でも一般車両の流れは良くなったよ」
「それでバスが遅れたら通勤層からクレーム来るじゃん」
「学生の課題に社会の圧が重い」
「月影だぞ。帝都行政コース志望ならそれくらい見る」
第三時限、体育。
グラウンドでは、身体能力補助魔導を使った短距離走の授業が行われていた。補助魔導を使えば人間の脚力は簡単に底上げできる。だが、使い方を誤れば関節を壊す。だから体育教師は、生徒たちに何度も念押しした。
「出力は二十パーセントまで! 速く走る授業じゃない。自分の身体がどこまで補助に耐えるか知る授業だ!」
「先生、でも隣のクラス、三十出してました!」
「隣は隣! 君たちは君たち! あと、隣の担当には後で説教する!」
昼休み。
中庭には弁当を広げる生徒たちがいた。購買の月見パンはすぐに売り切れ、魔導式自販機の前には列ができている。生徒会の掲示板には、文化祭実行委員募集、帝都大学見学会、企業研究所インターン説明会、夜間照明工事のお知らせ、魔導倫理弁論大会の案内が並んでいた。
それらは、どれも普通の学校の風景だった。
少しだけ帝都らしく、少しだけ魔導科学都市らしく、けれど本質は変わらない。
教室で騒ぐ生徒。
廊下を走って怒られる生徒。
進路に悩む生徒。
好きな人の話をする生徒。
授業中に眠る生徒。
教師に叱られて、口を尖らせる生徒。
帝都月影高等学院は、昼間だけを見れば、間違いなく健全な学院だった。
ただ、違和感はあった。
最初に気づくのは、校舎の端だった。
東棟の一階から地下へ続く廊下。案内板には何も書かれていない。防火扉の向こうに階段があるのは、校舎の構造図を見ればわかる。だが扉には電子錠があり、昼の生徒の学生証では開かない。
その前を通る生徒たちは、自然に目を逸らした。
見てはいけないと言われているのではない。
見ないことに慣れているのだ。
「ねえ、あそこって何があるの?」
一年生らしい少女が友人に尋ねる。
友人は一瞬だけ表情を固くした。
「夜の方」
「夜?」
「夜間部の通用口、たぶん」
「夜間部って、ほんとにあるんだ」
「あるよ。たまに夜、灯りついてるじゃん」
「でも、先生に聞いたら、別課程だから関係ないって」
「そういうことにしといた方がいいんだって」
「なんで?」
友人は答えなかった。
ちょうどその時、生活指導担当の教師が通りかかる。会話はそこで切れた。少女たちは慌てて昼食の話へ戻り、東棟の廊下から離れていく。
教師も、何も言わなかった。
ただ、防火扉の前を通る時だけ、足音が少し小さくなった。
校内端末にも、小さな違和感があった。
廊下の壁に設置された時刻表端末。そこには教室ごとの使用予定が表示されている。
一年A組、六時限まで。
第二魔導科学室、放課後実験部使用。
体育館、十七時よりバスケットボール部。
情報演習室、十八時より補習。
そこまでは普通だった。
だが端末の下部、スクロールの一瞬だけ、午前零時以降の表示が混じる。
〇〇:〇〇 深夜課程 出席確認。
〇〇:一五 識別番号照合。
〇〇:三〇 影――
次の瞬間、表示は消える。
生徒のほとんどは気づかない。
気づいたとしても、端末の誤作動だと思う。
それがこの学院の昼の作法だった。
見ない。
聞かない。
触れない。
昼の学院は、本当に学校として機能している。
だが、校舎の影には、別の時間割が眠っている。
*
夜になると、帝都月影高等学院は音を変えた。
昼間のざわめきが消える。
放課後の部活動の声も、文化祭準備の笑い声も、教師の注意も、生徒たちの足音も遠ざかる。校門は閉じ、正面玄関の照明は半分に落とされる。白い校舎は月明かりと都市光を受け、昼よりも輪郭が鋭くなった。
だが、完全に眠るわけではない。
門の端。
黒い月の校章が刻まれた小さな通用口が、夜だけ静かに開く。
帝都月影高等学院・夜間特別課程。
通称、ルナティックハイ。
そこへ入る者たちは、昼の生徒たちとは少し違う。
作業着のまま来る少年。義体の膝を軋ませながら歩く少女。眠そうな目をした青年。古い学生服に袖を通した成人。顔の半分を包帯で覆った生徒。隣に小型機械人形を連れている生徒。端末で出席確認を済ませる者。紙の書類を握り締める者。誰にも顔を見られないよう、フードを深く被る者。
昼の学院が、帝都の未来を育てる場所なら。
夜間部は、帝都の夜に落ちた者を一時的に拾い上げる場所だった。
もちろん、それは表向きの説明である。
通用口の向かい、街路樹の影に、ルルトが立っていた。
黒いコート。白銀の髪。紅い唇。手には黒い傘。雨は降っていないが、傘は持っている。古い探偵映画の男のようでもあり、葬儀帰りの悪魔のようでもあった。
彼はしばらく通用口を眺めていた。
人の流れ。
警備員の視線。
生徒の靴。
鞄の重さ。
歩き方。
校章の色。
受付端末の反応。
裏門横の監視カメラの角度。
門を入る者と出る者の違い。
昼の生徒は正門を通る。
夜の生徒は通用口を通る。
では、通用口を通らない夜の者は、どこから入るのか。
ルルトは敷地の外周を歩いた。
学院の塀は高い。だが要塞ではない。普通の学校に見える程度には、開放感を残している。監視カメラは多いが、女帝政府系の施設ほど厳重ではない。警備魔導も、生徒を守るためというより、外からの無秩序な侵入を防ぐ程度に見える。
ただし、東棟の地下へ続く一角だけ、結界の質が違った。
ルルトは塀の外から、その方向を見た。
夜の校舎には、光っている窓と、光っていない窓がある。
そして、光ってはいないのに影だけが濃い窓があった。
「なるほど。表は学校。裏も学校。さらに奥は、学校の形をした別のもの、か」
彼は塀に手をかけた。
軽く跳ぶ。
人間が越えるには高すぎる塀を、ルルトは音もなく越えた。着地したのは芝生の上。足音はほとんどしない。警備カメラの死角。結界線の切れ目。昼の学院では用務員が通るために残された小さな管理通路。
彼は歩き出す。
だが三歩目で、足元に白い線が浮かんだ。
魔導式の警戒線。
芝生の下に隠されていた細い結界が、靴底の圧と影の揺らぎに反応して点灯した。
ルルトは止まった。
逃げることはできた。
結界が完全に展開する前に影へ潜り、死角へ抜け、校舎の裏手へ回ることもできた。警備員の首筋に指を当てて気絶させることも、監視端末を壊すこともできた。
彼は何もしなかった。
ただ、両手を軽く上げた。
数秒後、校舎の方から足音が近づいてきた。
夜間部の警備員が二人。どちらも普通の警備員ではない。片方は義体の腕を持ち、もう片方は腰に短い魔導警棒を下げている。その後ろに、教師らしき女性がいた。
黒いスーツ。白いブラウス。髪は後ろでまとめ、眼鏡をかけている。表情は柔らかいが、歩き方に無駄がない。
御門サエ。
昼の学院では生活指導担当。
夜間部では、管理責任者の一人。
彼女はルルトを見て、少しも驚かなかった。
「こんばんは」
「こんばんは」
ルルトも丁寧に挨拶を返した。
警備員の一人が眉をひそめる。
「侵入者です。身分証を」
「持っていないね」
「目的は」
「見学」
「許可は」
「ない」
警備員が魔導警棒に手をかける。
サエが片手を上げて、それを止めた。
「結構です。この方は、乱暴をするつもりなら、見つかる前にもっと奥まで入っています」
「しかし」
「見つかる場所で止まったということは、こちらに話をさせたいのでしょう」
ルルトは微笑んだ。
「話が早い方は助かります」
「あなたに褒められても、嬉しくありません」
「ボクを知っている?」
「帝都月影高等学院の夜間部に関わる立場で、あなたを知らない方が問題です。〈宵の明星〉。裏路地の探偵。死を運ぶ探偵。探偵寄りの殺し屋」
「肩書きが増えている」
「どれがお好みですか」
「どれでも。呼ぶ側の問題だから」
サエは、感情の薄い目でルルトを見た。
柔らかく見える女性だった。だが、それは昼の教師として必要な柔らかさだ。生徒を叱り、保護者に説明し、行政文書を書き、夜間部の出席を管理し、裏社会の窓口とも最低限のやり取りをする。その全部をこなすには、柔らかいだけでは足りない。
ルルトは彼女の靴を見た。
踵が少し摩耗している。夜間部の見回りでよく歩くのだろう。袖口には薄い魔導インクの跡。紙の書類も扱う。右手の人差し指に小さな火傷。実験室ではなく、古い端末の手動修理か。首元のペンダントは女帝信仰のものではない。家族写真を入れる古いロケット型。
彼女は善人に見える。
だが、善人だけではこの場所に残れない。
「職員室へ」
サエは言った。
「警察へ突き出さないのですか」
「あなたが警察で止まる人なら、最初から塀を越えていません」
「それは信用かな」
「諦めです」
ルルトは笑った。
「悪くない返答だ」
「褒められても嬉しくありません」
「二度目だね」
「何度でも言います」
警備員たちに挟まれる形で、ルルトは夜間部の職員室へ通された。
昼の職員室とは違っていた。
規模は小さい。机も少ない。だが、端末は古いものと新しいものが混在している。壁には夜間部の時間割、奨学金申請書類、義体メンテナンス日程、魔導災害被害者支援窓口、匿名相談箱、そして“外部連絡先一覧”が貼られている。
その一覧には、表向きの行政機関だけでなく、見覚えのある名前も混じっていた。
〈ホーム〉医療互助会。
カミハラ区更生支援室。
帝都警察特別生活課。
影山グループ社会復帰支援基金。
ルルトの視線が、最後の項目で止まる。
サエは気づいた。
「座ってください」
「立ったままで」
「では、私も立ったままにします」
「教師らしい嫌がらせだ」
「生活指導です」
サエは眼鏡を軽く押し上げた。
「用件を伺います」
「帝都月影高等学院・夜間特別課程について知りたい」
「学校案内なら、パンフレットがあります」
「パンフレットに載らない情報がいい」
「そういうものは、普通、部外者には教えません」
「ボクは部外者かな」
「少なくとも、職員でも生徒でも保護者でもありません」
「講師なら?」
「あなたに何を教えさせる気ですか」
「嘘のつき方と見抜き方」
「授業としては不適切です」
「実社会では役に立つ」
「だからこそ、学校で教えるには危険です」
二人の会話は静かだった。
だが職員室の空気は張り詰めている。
警備員たちは部屋の外で待機している。サエは一人でルルトと向き合っていた。怖くないわけではないだろう。相手は殺し屋だ。裏社会で名の知れた危険人物だ。だが彼女は、それを恐怖として表へ出さない。
教師という役を着ている。
あるいは、教師という役にしがみついている。
「影山源三郎から依頼を受けた」
ルルトは言った。
サエの表情は変わらない。
だが、まばたきが一度だけ遅れた。
「それを私に言う理由は」
「この学校の夜間部の校章を、昨夜の襲撃者が持っていた」
「襲撃者?」
「〈陸上のマーメイド〉。地中を泳ぐ女だ。夜間部の関係者かな」
「その名前で在籍している生徒はいません」
「なら、教職員?」
「いません」
「出入り業者?」
「把握している限りでは」
「把握していない出入り業者がいる?」
「この学校は、昼の学院だけではありません」
サエは静かに言った。
「夜間部には、事情のある生徒がいます。家庭、仕事、怪我、義体、魔導災害、身元、安全上の理由。全員を昼の生徒と同じように扱うことはできません」
「そして、事情のある大人も出入りする」
「必要な支援があります」
「支援、ね」
ルルトは職員室の壁に貼られた掲示物を見た。
夜間補食無料配布。
簡易診療。
義体調整。
個別学習支援。
戸籍・身元相談。
退職・離脱相談。
暴力被害相談。
どれも必要なものだ。
必要すぎるほどに。
「夜間部は、行き場のない子どもたちのための場所です。あなたのような人が来る場所ではありません」
サエの声は低かった。
怒りがある。
しかしそれは、ルルト個人への怒りではない。もっと大きなものへの怒り。ここへ流れ込んでくる問題、子どもたちを夜へ押し出す大人たち、救済の名で学校に押しつけられる現実。その全部に向けた怒り。
ルルトは答えた。
「行き場のない子どもを集める場所には、たいてい大人の都合も集まるものだよ」
サエは沈黙した。
しばらくして、彼女は机の上に置いていた出席簿を閉じた。
「否定はしません」
「正直だね」
「否定しても、あなたは信じないでしょう」
「信じないね」
「夜間部は綺麗な場所ではありません。けれど、閉じれば済む場所でもありません」
「子どもを守るために、子どもを利用する大人の出入りを許す?」
「許していません」
「止めきれていない?」
「……そうです」
その一言は、サエにとって簡単なものではなかった。
ルルトはそれを見た。
彼女の手が、わずかに握られている。
「影山グループ社会復帰支援基金」
ルルトは壁の一覧を示した。
「夜間部の最大支援者の一つかな」
「答える義務はありません」
「答えなくてもいい。沈黙の形でわかる」
「嫌な方ですね」
「よく言われます」
「それで、あなたは何をするつもりですか」
「影山雄蔵を調べる」
「殺すのではなく?」
「殺すかどうかは、標的が標的だとわかってから決める」
サエはルルトを見た。
「あなたは、自分をまともだと思っていますか」
「まったく」
「それを聞いて少し安心しました」
「安心できる要素があったかな」
「自分を正義だと思っている殺し屋よりは、まだ対話できます」
「光栄だ」
「褒めていません」
「知っている」
サエは深く息を吐いた。
「夜間部の生徒には手を出さないでください」
「必要がなければ」
「必要があってもです」
「それは約束できない」
空気が冷えた。
サエの目から、教師の柔らかさが消える。
ルルトは穏やかに続けた。
「ただし、子どもを殺しに来たわけではない。依頼人の嘘と、標的の正体と、この学校に落ちている影を見に来ただけだ」
「この学校に落ちている影」
「昼の学院には影が薄すぎる場所がある。夜間部には影が濃すぎる生徒がいる。深夜には、影だけの名簿が動いているかもしれない」
サエの表情が、ほんのわずかに動いた。
深夜。
その言葉に反応した。
ルルトは見逃さない。
「やはり、午前零時以降の時間割があるんだね」
「ありません」
「嘘が下手だ。嘘が下手というより、嘘をつく順番を間違えている」
「……あなたは、ここで何を見ましたか」
「今のところ、教師が一人。警備員が二人。支援という名の予算表。影山の名前。午前零時という言葉に反応するあなた」
「それだけで十分ですか」
「十分ではない。だから、また来る」
「許可は出しません」
「許可を取りに来たわけではないよ」
ルルトは職員室のドアへ向かった。
サエは止めなかった。
ただ、背中へ声をかけた。
「ルルトさん」
「何かな」
「夜間部は、あなたの遊び場ではありません」
「知っている」
「なら」
「だからこそ、調べる価値がある」
ルルトは振り返らずに言った。
「遊び場なら、壊れても笑えば済む。学校なら、誰かが帰ってくる場所だ。帰る場所が誰かの罠になっているなら、少し趣味が悪い」
サエは答えなかった。
ルルトが職員室を出ると、廊下の奥で夜間部のチャイムが鳴った。
昼のチャイムより低い音だった。
どこか、眠っているものを起こさないように鳴る鐘のような音。
*
ルナは、その音を校門の外で聞いた。
ルルトには黙って来た。
黙って来た、という事実が、胸の奥でずっと小さく点滅している。
警告。
未報告外出。
位置情報共有、未実行。
帰宅予定時刻、未設定。
ルルト様への説明、未準備。
内部の管理機能は律儀に警告を出し続けている。だが、ルナはそれを閉じた。正確には、閉じようとして失敗し、警告表示を視界の端へ追いやった。
彼女は夜の帝都月影高等学院の前に立っていた。
昼に来た時とは、まるで違う。
正門は閉じている。昼の白い校舎は、夜の中で青白く沈んでいる。中庭の噴水は止まり、樹木の葉は風もないのに微かに揺れている。校舎の窓にはいくつか灯りが残っていたが、昼の明るさとは違う。
誰かがいる。
けれど、全員が見えているわけではない。
そんな灯りだった。
門の端の通用口だけが開いている。
黒い月の校章。
夜間特別課程。
ルナはパンフレットを両手で握った。
昨日、ミオにもらったものだ。何度も読み返したせいで、紙の端が少し曲がっている。
「見学、です」
ルナは小さく呟いた。
「見学でございます。入学希望ではありません。興味があるわけでも、なくはありませんが、過度な興味ではありません。情報収集です。そう、情報収集でございます」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。
通用口の受付端末が光った。
ルナは近づく。
端末には、来訪者登録、と表示されている。氏名、種別、保護者、所有者、訪問目的。
所有者。
その欄を見た瞬間、ルナの指が止まった。
所有者未登録。
昨夜、自分の知らないところで出た表示を、彼女はまだ知らない。
けれど、その言葉が自分の中で何かに触れるのを感じた。
「お困り?」
背後から声がした。
ルナは振り向いた。
そこにいたのは、少年だった。
年齢は十六、七ほど。夜間部の制服を着ているが、シャツの襟元は少し崩れている。髪は黒く、目つきはやや悪い。片手には紙パックの珈琲、肩には使い古した鞄。制服の袖口からは、作業用手袋の跡が見えた。
「ええと、端末が苦手なタイプ? それとも、端末に嫌われてるタイプ?」
少年は軽い口調で言った。
ルナは背筋を伸ばした。
「端末に嫌われている可能性は、低いと思われます」
「じゃあ苦手なんだ」
「苦手ではございません。入力項目の一部に、判断困難な箇所があるだけです」
「所有者欄?」
ルナは黙った。
少年はルナの顔を見た。
それから、彼女の手、首元、歩き方、瞬きの間隔を見る。
「機械人形だよね」
ルナの肩が微かに強張る。
「はい。わたくしは機械人形でございます」
「やっぱり」
「商品ではございません」
「そんなこと聞いてないけど」
「盗品でもございません」
「それも聞いてない」
「解体対象でもございません」
「この辺で誰に会ったの?」
少年は少し呆れたように笑った。
ルナは返事に困った。
彼の目は、〈ホーム〉の路地で受けたものとは違っていた。
機械人形だと見抜いた。
だが、商品を見る目ではない。値段を計算する目でもない。盗めるかどうかを測る目でもない。
ただ、そこにいる相手がどういう存在かを確認しただけ。
それがルナには、少し不思議だった。
「あなた様は、どなたでしょうか」
「月城リツ。夜間部の二年……いや、単位的には一年半くらい。書類上は二年。実態は雑用係」
「雑用係」
「夜間部は人手不足なんだよ。教師も職員も足りないし、生徒も昼間働いてるやつが多い。だから、なんとなく動けるやつが雑用をする」
「それは、生徒の役割なのでしょうか」
「ここではよくある」
リツは受付端末を覗き込んだ。
「見学?」
「はい。見学でございます」
「名前は?」
ルナは一瞬、迷った。
名前。
ルルトは彼女をルナと呼ぶ。
〈ホーム〉の子どもたちは、人形と呼んだ。
屋台の親父は、嬢ちゃんと言った。
ミオは、あなたと呼んだ。
正式な登録名は、わからない。
製造番号も知らない。
ルナという名が、本当に自分のものなのかも、わからない。
「ルナ、と呼ばれています」
リツは片眉を上げた。
「呼ばれてるんじゃなくて、名乗ればいいんだよ」
ルナは目を瞬かせた。
「名乗る」
「そう。名前って、誰かに呼ばれるだけのものじゃないだろ。自分で出すものでもある」
「自分で、出すもの」
「うん。で、もう一回。名前は?」
ルナは胸の奥で、何かが小さく震えるのを感じた。
人工心拍ではない。
新しいエネルギー炉の駆動でもない。
それはたぶん、緊張。
あるいは、期待。
「ルナです」
今度は、そう言った。
呼ばれています、ではなく。
ルナです、と。
リツは笑った。
「じゃあ、ルナ。見学者登録、手伝うよ」
「ありがとうございます、リツ様」
「様はいらない」
「では、リツさん」
「それならまあいい」
リツは端末に手を伸ばし、来訪者登録を進めた。
氏名、ルナ。
種別、機械人形。
訪問目的、夜間部見学。
保護者、未入力。
所有者、未入力。
「ここは空欄でいい」
「よろしいのですか」
「見学ならね。正式登録だと揉めるけど」
「揉める」
「機械人形は所有者欄が面倒なんだよ。誰のものか。誰が責任を取るか。故障したら誰が直すか。暴走したら誰が止めるか。人間より書類が多い」
「わたくしは、誰のものなのでしょうか」
リツの指が止まった。
彼はしばらくルナを見た。
からかわなかった。
笑わなかった。
「それ、初対面の俺に聞くには重すぎる」
「申し訳ございません」
「でも、ここにはそういうやつ、結構いるよ」
「そういうやつ」
「自分が誰のものかわからないやつ。誰のものでもないのに、誰かの書類に縛られてるやつ。誰かのものだった方が楽だったやつ。逆に、誰かのものにされて困ってるやつ」
リツは登録完了の表示を押した。
「ようこそ、夜間部へ。まあ、見学だけなら怖くないよ。たぶん」
「たぶん、なのですね」
「絶対安全とか言うやつの方が信用できないだろ」
「それは、ルルト様も似たことをおっしゃいそうです」
「ルルト?」
リツが反応した。
「ルルトって、あのルルト?」
「どのルルト様でしょうか」
「白い髪で、黒い服で、すごく美人で、目が合うと命の値段を計算されてる気分になる人」
「表現は不穏ですが、おそらくそのルルト様です」
「え、知り合い?」
「わたくしは、ルルト様のもとにおります」
リツは数秒沈黙した。
「……なるほど。色々納得した。いや、納得しちゃいけない気もするけど」
「ルルト様をご存じなのですか」
「名前だけ。夜間部の大人たちは、たまに裏社会の人の名前を出す。出していい名前と、出したら空気が冷える名前がある。ルルトは後者」
「ルルト様は、空気を冷やす能力をお持ちなのでしょうか」
「比喩だよ」
「比喩は難しいです」
「慣れるよ。夜間部、比喩みたいな人間だらけだし」
リツはルナを案内した。
夜間部の廊下は、昼の学院と同じ校舎とは思えないほど雰囲気が違っていた。
壁や床は同じだ。掲示板も、教室の配置も、窓の形も変わらない。けれど、光が違う。昼の明るい白色照明ではなく、少し暖かく、少し暗い光。疲れた目に刺さらないように調整された照明だ。
廊下には、昼の生徒が置いていったポスターと、夜間部独自の掲示が重なっている。
文化祭実行委員募集の横に、夜間食堂の無料券。
帝都大学見学会の下に、義体メンテナンス予約表。
部活動紹介ポスターの隣に、住居支援相談。
進路希望調査の下に、匿名退職相談。
魔導倫理弁論大会の横に、名前変更・身元保護制度説明会。
ルナは一つ一つ見てしまう。
「遅れるよ」
「申し訳ございません。情報量が多く」
「最初はみんなそう。昼の学校と同じ廊下なのに、貼ってある紙が違うだけで別の場所に見えるだろ」
「はい」
「夜間部って、そういう場所なんだよ。同じ街にいるのに、見えてる紙が違う」
教室に入ると、生徒たちはすでに席についていた。
だが、昼の教室とは違っていた。
前の席では、義体の脚を外した少年が、机の横に脚を立てかけたままノートを取っている。隣の席の少女は、片目に医療用の黒い眼帯をしていて、端末画面を音声で読み上げさせていた。後ろの席では、作業着姿の青年が机に突っ伏して眠っている。教師は起こさない。彼の横には、夜間配送会社のロゴが入った鞄が置かれている。
窓際には、小型機械人形と一緒に座っている生徒もいた。機械人形はノートを取り、その隣で人間の生徒が眠そうに教科書を眺めている。
ルナは入り口で立ち止まった。
視線が集まる。
だが、それは〈ホーム〉の視線とも、昼の学院の視線とも違っていた。
珍しいものを見る目はある。
けれど、すぐに逸れる。
ここでは、誰もが少しずつ珍しいからだ。
「新しい子?」
「見学だって」
「機械人形?」
「綺麗」
「所有者いるの?」
「聞くなよ、それ初対面で」
「ごめん」
リツが肩をすくめた。
「まあ、こんな感じ」
「怒らないのですね」
「何を?」
「機械人形と見られることを」
「だって機械人形なんだろ」
「はい」
「じゃあ、それはそうじゃん」
ルナは言葉に詰まった。
否定されなかった。
商品扱いもされなかった。
ただ、そういう存在として席を用意された。
それだけのことが、なぜか胸に引っかかる。
教師が教室に入ってきた。
夜羽先生ではない。今夜の授業担当は、年配の女性教師だった。表情は穏やかで、疲れが隠しきれていない。手元には紙の出席簿と端末の両方を持っている。
「はい、始めます。眠い人は寝てもいいです。ただし、起きたらプリントは解いてください。義体調整中の人は無理に立たない。人工眼の同期がずれている人は、今日は音声教材でいいです」
教室の空気が少し緩んだ。
「見学の方がいますね」
教師はルナを見た。
「名前は?」
ルナは、リツに言われた言葉を思い出した。
呼ばれてるんじゃなくて、名乗ればいいんだよ。
彼女は一歩前に出た。
「ルナです」
「はい。ルナさん。空いている席へどうぞ。わからないことは、隣の人に聞いてください。隣の人もわからなかったら、一緒に困ってください」
小さな笑いが起きた。
ルナはリツの隣に座った。
授業が始まる。
内容は、社会制度と魔導倫理だった。
昼の学院なら、高度な魔導科学や都市行政理論を扱う時間かもしれない。だが夜間部の授業は、もっと切実だった。
戸籍のない者が医療を受ける方法。
義体契約で不利な条項を見つける方法。
機械人形と暮らす家庭の届け出。
魔導災害補償の申請。
身元を隠したい場合と、身元を取り戻したい場合の違い。
働きながら学ぶ者のための単位認定。
教師は黒板に書いた。
名前は、呼ばれるためだけでなく、守られるためにも使われます。
ルナはその一文を見つめた。
名前。
守られるため。
彼女はノートを持っていない。
リツがプリントを一枚分けてくれた。
「書ける?」
「はい」
「字、綺麗そう」
「記録用フォントで出力できます」
「手書きは?」
「……練習中です」
「じゃあ、手で書いてみたら」
ルナは鉛筆を受け取った。
指に力を入れる。
紙に文字を書く。
ルナ。
少し硬い字だった。
だが、確かに手で書いた字だった。
リツが覗き込む。
「いいじゃん」
「歪んでおります」
「歪んでる方が手書きっぽい」
「手書きとは、歪むことなのですか?」
「まあ、だいたい」
「難しいです」
「慣れるよ」
授業の途中、ミオが入ってきた。
昨日、通用口で出会った少女。
彼女は教室の後ろの席に静かに座った。遅刻したことを教師は叱らない。ただ、出席簿に何かを記入した。
ルナはミオを見た。
ミオも気づいて、小さく手を振った。
その足元に落ちる影は、やはり濃かった。
教室の照明は均一だ。窓の外は夜だが、床にあれほど濃い影が落ちる理由はない。しかもミオの影は、ほんのわずかに遅れて動いている。
ミオが手を振る。
影も手を振る。
だが、一拍遅い。
ルナはそれを見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
同時に、目を逸らせなかった。
授業が進む。
作業着姿の青年は途中で本当に眠ってしまった。教師はそっと毛布をかけた。義体の脚を外していた少年は、休み時間にリツと冗談を言いながら脚の接続部を調整している。眼帯の少女は音声教材の聞き取り速度を上げすぎて、隣の生徒に「それ人間に聞こえる速度じゃない」と突っ込まれていた。
機械人形と一緒に座っていた生徒は、授業後に機械人形へ礼を言っていた。
「ノートありがと」
機械人形は小さく頷く。
「どういたしまして」
ルナはその光景に視線を奪われた。
機械人形が、人間の隣にいる。
商品としてではなく。
道具としてだけでもなく。
少なくとも、教室の中では、隣の席にいる存在として。
ルナは初めて、自分だけが異物ではないと感じた。
異物が、異物のまま席に座っている場所。
それが温かいのか、危ういのか、まだわからない。
けれど、息がしやすかった。
必要のない呼吸を、彼女は静かにした。
*
夜間部の授業が終わる頃、校舎の空気はさらに変わっていた。
時計は二十三時四十分を過ぎている。
生徒たちは帰り支度を始める。眠そうな者、これから夜勤へ戻る者、寮のような支援施設へ向かう者、誰かに迎えに来てもらう者。昼の学校の放課後とは違い、夜間部の終了後には、開放感より疲労の方が濃い。
「ルナは帰れる?」
リツが尋ねた。
「はい。現在地は把握しております」
「ほんとに?」
「おそらく」
「おそらくって」
「前回よりは高精度です」
「不安しかないな」
「必要に応じて通信いたします」
「それがいいよ。夜のカミハラから〈ホーム〉まで一人で歩くの、結構危ないし」
「リツさんは、どちらへ?」
「俺はこの後、配送センター。朝まで仕分け」
「授業の後に、お仕事なのですか」
「昼も少し働いてたけどね」
「眠らなくて大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫じゃないよ。だから授業中に寝る」
「それは、よいのでしょうか」
「よくない。でも来ないよりはいい、って先生が言う」
リツは鞄を肩にかけた。
「夜間部って、そういうとこ。ちゃんとしてないけど、来たら席はある」
ルナは教室を見渡した。
席。
自分が座っていた席。
プリント。
鉛筆で書いた自分の名前。
ルナ。
「また、来てもよいのでしょうか」
「見学なら、たぶん。正式に来るなら、書類」
「書類」
「うん。敵だよ、書類は」
「敵なのですか」
「この街で一番強い敵かも」
ルナは真剣に頷いた。
「覚えておきます」
その時、廊下の奥を何かが通った。
ルナは振り向いた。
ミオだった。
いや。
ミオではなかった。
教室の後ろを見ると、ミオ本人は机に突っ伏して眠っている。黒髪が頬にかかり、呼吸は静かで、身体は動いていない。
だが、廊下にはミオの影が立っていた。
床から剥がれた黒い影。
形はミオそのものだ。髪の長さも、制服の輪郭も、細い肩も同じ。だが色はなく、顔もない。影だけが、薄い膜のように廊下を歩いている。
誰も気づかない。
いや、何人かは気づいている。
気づいていて、見ないふりをしている。
影は廊下を曲がり、東棟の方へ向かう。
ルナは立ち上がった。
「ミオさんの影が」
リツが彼女の腕を掴んだ。
「行くな」
「ですが」
「行くな」
リツの声が、先ほどまでと違っていた。
軽さがない。
ルナは彼を見た。
「なぜですか」
「午前零時が近い」
「それが、何か」
「午前零時を過ぎたら、ここは学校じゃなくなる」
廊下の照明が一度、瞬いた。
時計は二十三時五十九分。
教室に残っていた生徒たちが、急に動きを早める。鞄を持つ者。眠っている友人を起こす者。教師に促されて廊下へ出る者。誰も大声は出さない。慣れているからだ。
慣れていることが、恐ろしかった。
ミオ本人はまだ眠っている。
その影だけが、廊下の奥へ消えていく。
ルナは腕を引こうとした。
リツは離さない。
「ミオさんを、起こさなくてよいのですか」
「起こしても、影は止まらない」
「なぜ」
「知らない。知ってるやつは、言わない」
「リツさん」
「俺も全部知ってるわけじゃない。ただ、零時の後に東棟の階段を降りるなって言われてる。夜間部の生徒は、全員」
「誰に」
「先生たちに。あと、先輩たちに。あと、たぶん、ここで消えたやつらに」
ルナの視界端で、端末が反応した。
校内放送が入る。
昼のチャイムでも、夜間部の低い鐘でもない。
もっと平坦な、機械的な声だった。
『深夜課程、出席確認を開始します』
廊下の壁面端末が、一斉に切り替わった。
名簿が表示される。
だが、それは昼の生徒名簿でも、夜間部の出席簿でもなかった。
名前の欄に、知らない文字列が並んでいる。
影識別番号。
仮名登録。
保護者不明。
所有者未登録。
本人不在。
影のみ。
記録核のみ。
深夜課程出席対象。
その中に、一瞬だけ、ルナの名前が表示された。
ルナ。
表示はすぐに消えた。
リツはそれを見ていない。
ルナだけが見た。
廊下の奥で、ミオの影が階段を降りていく。
その階段は、昼の学院では見ないことにされていた東棟の地下へ続いている。
ルナの内部で、複数の警告が同時に点灯した。
危険。
未登録領域。
所有者未登録。
現在地不安定。
影干渉反応。
深夜課程、出席確認中。
それでも、ルナは目を逸らせなかった。
学校の中に、学校ではない時間が開いている。
昼の学院。
夜間部。
深夜課程。
帝都月影高等学院は、三つ目の顔を見せようとしていた。
リツが、低い声で言った。
「見ちゃだめだ」
「ですが」
「見たら、向こうも見る」
その瞬間、階段の下の闇が揺れた。
ミオの影が、振り返ったように見えた。
顔のない影が、ルナを見ている。
校内放送がもう一度流れる。
『深夜課程、出席確認を開始します』
画面に、昼にも夜にも存在しない生徒たちの名簿が、静かに流れ始めた。




