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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
2/12

第2話 ホームの月人形

 〈ホーム〉の朝は、帝都エデンの朝とは少し違う。


 帝都エデンの朝は、遠くから見れば美しい。


 高層ビルの硝子壁に朝日が反射し、魔導炉から供給される光脈が都市の地下を走り、空中回廊を通勤用の小型車両が滑っていく。中央区の大型街頭端末では女帝政府の広報番組が流れ、今日の天候、魔導炉出力、交通網の遅延状況、結界安定率が淡々と告げられる。


 朝の帝都は、整っている。


 整いすぎている。


 だが、〈ホーム〉の朝は違う。


 夜がまだ完全に終わっていない。


 空は白み始めているのに、路地には夜の匂いが残っている。湿った煙草。安い酒。古い血。魔導炉の排熱に混じった焦げ臭さ。違法屋台で煮込まれる合成肉のスープ。壊れた機械人形の油。路地裏の診療所から漏れる消毒液。誰かが吐いた胃液。古いビルの壁に染み込んだ雨。


 巨大な排熱パイプが建物の壁を這っていた。正規の都市配管ではない。どこかの工場から勝手に引き込まれ、どこかの違法工房へ熱を横流ししている。パイプには注意書きのシールが何重にも貼られ、その上から女帝ヌルの小さな肖像ポスターが貼られていた。


 ――帝都の民よ、恐れる必要はない。


 古いポスターの女帝は、少女の顔で微笑んでいる。だがその下には、誰かが黒いスプレーでこう書き足していた。


 ――恐れないやつから死ぬ。


 その隣では、義体修理屋の看板が点滅している。半分壊れた機械人形が店先に座り、自分の外れた腕を抱えて順番を待っていた。屋台の親父が湯気の向こうで麺を茹で、まだ眠そうな娼婦が使い捨てのカップで苦い珈琲を飲み、子どもたちが魔導炉の廃材で作ったボールを蹴っている。


 帝都の光が届かない場所。


 そう言われることがある。


 だが正確には違う。光は届いている。高層ビルの反射光も、女帝政府の広報も、魔導炉の熱も、帝都警察の巡回ドローンも、ここまで届いている。


 ただ、届いた光が汚れて見えるだけだ。


 〈ホーム〉は、そういう場所だった。


 ルルトのアパートは、その〈ホーム〉の奥にある。


 五階建ての古い建物。外壁はひび割れ、非常階段は錆び、入口の自動ドアは常に半開きで止まっている。エレベーターは動かない。壊れてから何年経ったのか、住人の誰も知らない。


 階段には、昨日の夜の血痕が残っていた。


 三階の廊下にも血がある。


 昨夜、ルルトの隣室で男が撃たれた。女は夜明け前に姿を消し、男は明け方、路地裏の診療所へ運ばれたらしい。生きているかどうかはわからない。だが、住人たちは血痕を見ても騒がなかった。


 慣れているからではない。


 騒いでも、得をしないからだ。


 老婆が買い物袋を提げて廊下を歩いてくる。血痕を見ても立ち止まらない。スリッパの先で血の少ない場所を選び、足を置く。少しだけ眉をひそめ、壁際へ寄る。


 それだけ。


 〈ホーム〉では、人の死も、人の悲鳴も、朝には生活の障害物になる。


 ルルトの部屋の中には、まだ昨夜の雨の気配が残っていた。


 椅子に掛けられた黒いコートは濡れ、矢と水撃で裂け、胸元には乾きかけた血がこびりついている。床には新聞紙が敷かれ、そこに濡れた靴が揃えられていた。台所には鍋が一つ、皿が二枚。窓の外には、〈ホーム〉のくすんだ朝と、その向こうにそびえる帝都の高層群が見える。


 その窓際の椅子に、ルナは座っていた。


 薄い月色の髪を肩に落とし、古びた制服風ワンピースの裾を両手で押さえている。陶器のような白い肌。淡い青紫の瞳。人間の少女に見えないこともない。だが、見つめればすぐわかる。


 整いすぎている。


 綺麗すぎる。


 人間の顔には、小さな歪みがある。目の高さ、唇の端、頬の筋肉、瞬きのずれ。そうした不均衡が、逆に生きている証になる。


 ルナには、それが少ない。


 かわりに、ほんのわずかな遅れがある。言葉を受け取って、意味を探し、感情を選ぶまでの遅れ。人工人格が、人間のように振る舞おうとしているわけではない。むしろ逆だ。彼女の中に生まれた感情が、どう表に出ればいいのかわからず、処理に迷っている。


 ルナは椅子の背に身体を預けず、背筋を伸ばして座っていた。


 その背後で、ルルトが彼女のワンピースの背中の留め具を外している。


「……ルルト様」


「何かな」


「やはり、これは必要な作業でしょうか」


「必要な作業だよ」


「ですが、その……背中を開けられるのは、少々、落ち着きません」


「背中を開けないと、エネルギー炉を交換できない」


「それは理解しております」


「なら問題ない」


「問題は、理解と気持ちが一致しない点でございます」


 ルルトは手を止めた。


 白銀の髪をゆるく後ろへ流し、黒いシャツの袖を肘まで捲っている。昨夜あれほど身体に穴を開けられたというのに、肌には傷一つ残っていない。だが、眠気と気怠さは少しだけ顔に出ていた。


 彼はルナの背中の開口部を見下ろす。


 細い背筋の中央。人間であれば肩甲骨のあいだにあたる場所に、楕円形の外装パネルがある。ルルトが指先で魔導ロックを外すと、かすかな駆動音と共にパネルが開いた。中には青い魔導回路が密集している。極細の光線が脈動し、小さな人工炉が薄く発光していた。


 生き物の内臓ではない。


 けれど、ただの機械部品でもない。


 ルナは肩をすくめた。


「くすぐったいです」


「神経系が過敏すぎる」


「わたくしの神経系は、正常ではないのでしょうか」


「正常の基準がない」


「基準がないのに、過敏と判断できるのですか?」


「ボクの主観だよ」


「主観で機械人形を整備なさるのは、危険ではありませんか?」


「危険なら、とっくに爆発している」


「爆発する可能性があったのですか?」


「少しね」


「ルルト様」


 ルナの声が、わずかに低くなった。


「冗談だよ」


「今の間は、冗談ではなかったように解析されました」


「解析精度が上がっている。いい傾向だ」


「誤魔化さないでくださいませ」


 ルルトは小さく笑った。


 笑った、といっても、口元がほんのわずかに動いただけだ。だがルナは、それに気づいたらしい。頬を膨らませるようにして、椅子の上で少しだけ身じろぎした。


「動かない」


「はい……」


 ルルトは昨夜買ってきた高級エネルギー炉を取り出した。銀色の円筒に青い魔導回路が刻まれ、中心部には人工魔力を安定化させる小さな結晶核がある。正規品だ。〈ホーム〉の闇市で売られている模造バッテリーとは違う。値段も違う。安全性も違う。


 ルルトは古い炉を外した。


 外した瞬間、ルナの身体がわずかに傾く。


「おっと」


 ルルトは片手でルナの肩を支えた。


 ルナは目を瞬かせた。


「一瞬、視界が暗くなりました」


「予備電力に切り替わっただけだよ」


「少し、怖かったです」


「停止が?」


「はい」


 ルナは膝の上で指を組んだ。


「わたくしは、停止したことがあるのでしょうか」


「記録にないなら、知らない」


「記録にないことは、なかったことなのでしょうか」


 ルルトは新しい炉を差し込む手を止めた。


 窓の外から、子どもたちの声が聞こえる。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、遠くで違法改造バイクの排気音が響く。


 部屋の中だけが、少し静かになった。


「記録にないことも、起きていることはある」


 ルルトは言った。


「ただ、誰かが覚えていなければ、証明しにくい」


「では、わたくしが覚えていない過去は、誰にも証明できないのですね」


「誰かが覚えていれば別だ」


「誰か、とは?」


「君を作った者。君を捨てた者。君を拾う前に、君を見た者。あるいは、君自身の奥にまだ残っているもの」


「わたくしの奥」


 ルナはその言葉を噛みしめるように呟いた。


 ルルトは新しい炉を装着した。


 魔導回路が一瞬だけ明るくなる。淡い青い光が背中の内側を走り、ルナの瞳にも同じ色が映った。細い駆動音。人工心拍のような音。やがて出力が安定し、彼女の身体に温度が戻る。


 ルナは小さく息を吐いた。


 機械人形に呼吸は必要ない。


 だが、彼女は息を吐いた。


 安心したからだ。


 ルルトは外装パネルを閉じ、ワンピースの留め具を戻した。


「終わり」


 ルナは両手で胸元を押さえ、そっと振り返った。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


「それと、先ほどの続きですが」


「まだ続くのかい?」


「大事なことです」


「どうぞ」


「わたくしは、人形なのでしょうか」


 ルルトは椅子に座り直した。


 ルナの向かいに腰を下ろし、外した古いエネルギー炉を手に取る。表面には細かい傷があり、出力安定用の刻印もかなり摩耗している。あと数日使っていれば、出力低下か異常過熱を起こしていたかもしれない。


「君は人形だよ」


 ルルトは淡々と言った。


 ルナの顔が、わずかに曇る。


 彼女はその答えを予想していたのだろう。けれど、予想していたことと傷つかないことは別だ。


「そう、ですか」


「ただし」


 ルルトは古い炉をテーブルに置いた。


「人形であることと、心がないことは別問題だ」


 ルナは顔を上げた。


 青紫の瞳が、まっすぐルルトを見る。


「別問題、なのですか」


「人間だから心がある、とは限らない。人形だから心がない、とも限らない」


「人間には、皆様、心があるのではないのですか?」


「さあ」


「さあ、なのですか」


「心の定義による」


「ルルト様は、時々とても難しいことを簡単そうにおっしゃいます」


「簡単なことを難しそうに言うよりはいい」


「では、わたくしには心があると思われますか?」


 ルルトは少しだけ考えた。


 長い沈黙ではなかった。


 だがルナには、その数秒がひどく長く感じられた。


「あると仮定した方が、扱いを間違えにくい」


「仮定」


「そう」


「確信ではなく?」


「確信は危険だよ。人は確信した途端、相手を見なくなる」


 ルナは膝の上で指を握った。


 嬉しいのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。


 心がある、と言われたかったのかもしれない。


 心がない、と断言されなかったことに安堵したのかもしれない。


 仮定、と言われたことに傷ついたのかもしれない。


 その全部が同時に来て、どの表情を選べばよいのかわからなかった。


「……難しいです」


「難しい方が、長持ちする」


「昨日もそうおっしゃいました」


「覚えていたのか」


「はい。大切な言葉のように感じましたので」


「それは困ったな」


「困るのですか?」


「適当に言った言葉を大切にされると、責任が発生する」


「では、今後は適当に言わないでくださいませ」


「努力する」


「それは努力しない方の返事です」


「やはり学習が早いね」


 ルナは少しだけ笑った。


 その笑顔は、小さかったが自然だった。


 ルルトは古い炉を小さな布で包み、金属箱に入れた。


「それで、頼みがある」


「はい。何なりとお申し付けください」


「昨日外した古いバッテリーを、廃棄処分場へ捨ててきてくれるかな」


 ルナの目が大きくなった。


「わたくしが、ですか?」


「他に誰がいる?」


「ルルト様が」


「ボクは出かける。昨夜の依頼人の情報を整理しなければならない」


「わたくし、一人で外へ出るのですか」


「そうだよ」


 ルナはテーブルの上の金属箱を見た。


 それから玄関を見た。


 そして、もう一度ルルトを見た。


 彼女は部屋の外へ出たことがほとんどない。正確に言えば、ルルトに連れられて短時間出たことはある。だが一人で外を歩き、目的地へ行き、用事を済ませ、帰ってきたことはない。


 地図機能は壊れている。


 GPSも不安定だ。


 内蔵ナビゲーションは、〈ホーム〉の違法増築と非登録通路と魔導ノイズでほとんど役に立たない。


 そしてルナは、そのことをルルトに隠していた。


 隠しているつもりだった。


「廃棄処分場までの経路は、端末に送っておく」


「はい」


「大通りへ出て、排熱パイプ沿いに三ブロック。赤い義体修理屋の角を右。違法屋台の列を抜けたら、青い煙突のある廃棄場が見える」


「はい」


「迷ったら、屋台の親父に聞きなさい。義体修理屋の店主には聞かない。あの男は、道を教える代わりに何か買わせる」


「はい」


「知らない人についていかない」


「子ども扱いですか?」


「違う。ここでは人形の方が狙われやすい」


 ルナは黙った。


 その沈黙を見て、ルルトは言葉を少しだけ変えた。


「不安なら、やめておくかい?」


 ルナはすぐには答えなかった。


 怖い。


 外は怖い。


 窓の外に見える〈ホーム〉は、部屋の中から見ても騒がしく、汚く、危険に見える。銃声も聞こえる。怒鳴り声も聞こえる。昨日の夜、隣室の男は廊下で助けを求め、ルルトは助けなかった。


 外には、そういうことがある。


 だが。


 頼まれた。


 ルルトに。


 自分だけでできる用事を頼まれた。


 それは、命令とは少し違う気がした。


 命令ならば、従うだけだ。けれど、頼み事には、失敗する可能性がある。成功すれば、役に立てる。失敗すれば、迷惑をかける。


 怖い。


 けれど、嬉しい。


 ルナは金属箱を両手で抱えた。


「行きます」


「そう」


「わたくし、行ってまいります」


「気をつけて」


「はい」


 ルナは立ち上がった。


 玄関まで歩き、靴を履き、ドアノブに手をかける。


 その時、ルルトが後ろから言った。


「ルナ」


「はい」


「帰り道がわからなくなったら、すぐ通信しなさい。黙って迷子になるのは、効率が悪い」


 ルナは少しだけ肩を跳ねさせた。


 ばれていた。


「……承知いたしました」


「あと」


「まだございますか?」


「古いバッテリーは売らない」


「売れるのですか?」


「売れる。だが、中身を解析されると面倒だ」


「承知いたしました。売りません」


「よろしい」


 ルナは深く一礼した。


「では、行ってまいります」


 ドアが開いた。


 廊下の匂いが流れ込む。湿気、血、古い油、隣室の火薬臭。


 ルナは一歩、外へ出た。


 廊下の蛍光灯が点滅している。


 床にはまだ血痕が残っていた。乾きかけた赤黒い跡。住人たちは当然のようにそれを避けて歩く。ルナも避けようとして、少しだけ立ち止まった。


 この血は、誰のものなのだろう。


 昨夜の男か。


 それとも、もっと前からここにあった血か。


 血痕の横に、小さな足跡があった。子どものものだ。血を踏んだ後に歩いたらしく、薄い赤が廊下の奥へ続いている。


 ルナはそれを見つめた。


 すると背後からドアが少しだけ開き、ルルトの声がした。


「観察しすぎると、外出が終わらないよ」


「はいっ」


 ルナは慌てて歩き出した。


 階段を降りる。


 一段、一段。


 手すりは錆びていた。触れれば手が汚れると判断し、ルナは手すりを使わないようにする。だが三階と二階の間で、階段の一部が欠けていた。踏み抜きそうになって、反射的に壁へ手をつく。


 壁は湿っていた。


 ルナは手のひらを見た。


 少し汚れている。


 それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。


 部屋の中は、ルルトが整えている。危険なものは多いが、配置され、分類され、意味を持っている。けれど、外は違う。何もかもが無造作で、触れるだけで自分の輪郭を汚されそうだった。


 アパートの外へ出る。


 〈ホーム〉の朝の空気が、ルナの人工肺に流れ込んだ。


 呼吸は必要ない。


 だが、彼女は息を吸った。


 そして、少しむせた。


「……空気の成分が、推奨値を大きく外れております」


 誰も聞いていない。


 路地では、子どもたちがボールを蹴っていた。


 魔導炉の廃材を丸め、布で巻いただけのボールだ。蹴るたびに金属音が混じる。子どもたちは裸足に近い靴で走り回り、ルナを見ると一斉に足を止めた。


「おい、人形だ」


「ほんとだ」


「高そう」


「盗品かな」


 ルナは背筋を伸ばした。


「わたくしは、盗品ではございません」


 子どもたちは顔を見合わせた。


 そして笑った。


「喋った!」


「すげー、丁寧!」


「お姫様人形だ!」


「どこ行くの?」


「廃棄処分場へ向かっております」


「何捨てんの?」


「古いバッテリーでございます」


「それ売れるよ」


「売ってはならないと申し付けられております」


「持ち主、ケチだな」


「ルルト様は、ケチではございません」


「じゃあ怖い人?」


 ルナは少し考えた。


 ルルトは怖い人なのだろうか。


 銃声が鳴っても平然としている。死にかけの男を助けない。人を殺す仕事をしている。昨夜は身体に穴を開けられても何事もなかったように帰ってきた。


 怖い人、という分類は正しい気がする。


 だが、それだけではない。


「……怖い時もございます」


「なんだそりゃ」


「でも、バッテリーを買ってくださいます」


「やっぱ持ち主人形じゃん」


「ルルト様は人形ではございません」


「そういう意味じゃねーよ」


 子どもたちはまた笑った。


 悪意というほどではない。だが、優しさでもない。珍しいものを見つけた時の、遠慮のない視線。商品を見る目。玩具を見る目。


 ルナは金属箱を胸に抱き直した。


「失礼いたします」


 子どもたちの間を抜ける。


 視線が背中に刺さる。


 人形。


 盗品。


 高そう。


 お姫様。


 持ち主。


 その言葉たちが、内部記録に保存されていく。保存したくないのに、消し方がわからない。


 大通りへ向かう途中、違法屋台の列があった。


 煙、湯気、油、香辛料。正規の衛生検査を受けているとは思えない屋台が、朝から人を集めている。夜勤明けの労働者、裏稼業の男たち、安宿の住人、機械の身体を半分だけ露出した義体者。誰もが疲れている。


 ルナは道を確認しようと、近くの屋台の親父に声をかけた。


「あの、恐れ入ります」


 親父は鍋をかき混ぜながら顔を上げた。


「あん?」


「廃棄処分場へ向かうには、こちらの道でよろしいでしょうか」


 親父はルナを上から下まで見た。


 目が一瞬、金属箱に向く。


 それから、ルナの首筋、手首、髪、瞳。


 人間を見る目ではない。


「嬢ちゃん、一人か」


「はい」


「持ち主は?」


「……持ち主」


「いるんだろ。そういう高そうな人形はさ」


「わたくしは、ルルト様のもとにおります」


「ルルト?」


 親父の顔が少し変わった。


 警戒。


 あるいは、諦め。


「ああ、宵の……いや、何でもねぇ。廃棄場なら、そのまま真っ直ぐだ。赤い義体屋の角は曲がるな。最近、あそこらへんに変な連中が溜まってる」


「ルルト様は、赤い義体修理屋の角を右とおっしゃっていました」


「じゃあ、ルルトの言うこと聞け。俺の話は忘れろ」


「どちらが正しいのでしょうか」


「この街で正しい道なんて聞くな。目的地に着けた道が正しいんだよ」


 ルナは困った。


 親父はため息をつき、顎で道を示した。


「右だ。けど、目ぇ合わせんな。声かけられても止まるな。金属箱は抱えとけ」


「ありがとうございます」


「あと」


「はい」


「今度、ルルトに言っとけ。ツケ、まだ払ってもらってねぇってな」


「ツケとは、何でしょうか」


「知らねぇならいい。行け」


 ルナは頭を下げ、屋台を離れた。


 赤い義体修理屋の角。


 看板はすぐ見つかった。赤いネオンで、腕・脚・眼球・内臓、即日対応、と書かれている。店先には腕だけ、脚だけ、顔の半分だけの部品が並び、義体修理というより解体市場のように見えた。


 その角に、男たちがいた。


 三人。


 目つきが悪い。ひとりは口に電子煙草を咥え、ひとりは片腕が古い義体、ひとりは首に安物の魔導端末をぶら下げている。彼らはルナを見ると、会話を止めた。


 ルナは目を合わせないようにした。


 角を右へ曲がる。


 足音が増えた。


 後ろから。


 ルナは歩幅を少しだけ早めた。


 足音も早くなる。


 内部センサーが警告を出す。


 追跡可能性。三名。距離十二メートル。敵意判定、不明。商品価値評価視線、検出。


 商品価値評価視線。


 そんな項目が自分の中にあることを、ルナは初めて知った。


 背筋が冷たくなる。


 機械人形なのに、冷たくなる。


「お嬢ちゃん」


 背後から声がした。


 ルナは止まらなかった。


「おい、待てって。道、迷ってんだろ?」


「迷っておりません」


「その箱、重そうだな。持ってやるよ」


「不要でございます」


「いいからさ。こっち、近道あるんだよ」


「不要でございます」


「可愛くねぇ人形だな」


 足音が近づく。


 ルナは走った。


 自分でも驚くほど、速く走れた。


 古い靴が路地の水たまりを跳ね、金属箱が胸の中で揺れる。狭い路地。干された洗濯物。排熱パイプ。積まれた廃材。野良機械人形が驚いて壁際へ逃げる。


 後ろから怒鳴り声。


「おい、待て!」


「逃がすな!」


 ルナの内部ナビゲーションが、現在地を表示しようとして失敗する。


 エラー。


 登録外通路。


 魔導ノイズ過多。


 地図データ不整合。


 ルナは角を曲がった。


 また角を曲がった。


 どこを走っているのかわからない。


 怖い。


 だが、捕まる方がもっと怖い。


 路地の先に光が見えた。


 大通り。


 ルナは飛び出した。


 クラクションが鳴る。


 魔導バスが急停止し、無人タクシーが警告音を出し、歩行者が振り返る。ルナは金属箱を抱えたまま、横断歩道でもない場所を駆け抜けた。


 追ってきた男たちは、大通りの手前で立ち止まった。


 人目が多すぎる。


 ルナは振り返らずに走った。


 走って、走って、やがて息を切らした。


 必要のない呼吸が乱れている。人工肺が過剰に空気を吸い込み、出力制御が揺れる。新しいエネルギー炉のおかげで身体は動く。だが、心の方が追いつかない。


 気づいた時、ルナは〈ホーム〉の外へ出ていた。


 空気が違う。


 舗装が違う。


 建物の色が違う。


 街灯が壊れていない。歩道にゴミが少ない。警備ドローンが規則正しく巡回し、企業広告は上品で、通行人の服も靴も綺麗だった。


 ルナは立ち尽くした。


 ここがどこなのか、わからない。


 端末を見ようとして、手が震えた。


 内部地図はまだ乱れている。GPS信号は掴めるが、〈ホーム〉周辺の違法ジャミングのせいで現在地補正がずれている。


 通信すればいい。


 ルルトへ。


 帰り道がわからなくなったら、すぐ通信しなさい。


 そう言われた。


 だが。


 ルナは金属箱を見た。


 まだ、古いバッテリーを捨てていない。


 頼まれたことを終えていない。


 ここで通信したら、失敗したことになるのではないか。


 迷子になったと知られたら、ルルトはどう思うだろう。


 呆れるだろうか。


 やはり人形は外に出すべきではない、と判断するだろうか。


 部屋に戻れなくなるのが怖いのではない。


 部屋から出してもらえなくなるのが、怖かった。


 ルナは歩き出した。


 正しい方向はわからない。


 だが、人の流れがあった。


 制服姿の少年少女たちが、同じ方向へ歩いている。明るい灰色のブレザー、月を意匠化した校章、整った鞄。彼らは笑いながら歩き、端末で何かを見せ合い、朝の授業の話をしていた。


 ルナはその流れについて行った。


 やがて、大きな門が見えた。


 帝都月影高等学院。


 その名前は、白い石造りの門柱に刻まれていた。


 昼の学院は、眩しかった。


 〈ホーム〉の朝とはまったく違う。


 校舎は白と淡い青を基調にした近代建築で、硝子張りの廊下が朝日を反射している。中庭には手入れされた樹木があり、噴水があり、魔導式の小さな気象制御装置が霧のような水を撒いている。校門には警備員が立ち、制服姿の教師が登校してくる生徒へ挨拶していた。


「おはようございます」


「おはよう、昨日の課題忘れないように」


「実習棟は午後からですよ」


「廊下を走らない」


 声が明るい。


 足音も軽い。


 誰も血痕を避けて歩いていない。


 誰もルナを商品として見ていない。


 いや、見てはいた。


 だがそれは、珍しいものを見る視線だった。〈ホーム〉の路地で受けた視線とは違う。盗めるか、売れるか、解体できるか、そういう目ではない。あの子は誰だろう、どこの制服だろう、機械人形かな、という程度の視線。


 それでも、ルナには十分すぎるほど眩しかった。


 校門の前で立ち尽くしていると、警備員が近づいてきた。


「君、どこの生徒かな?」


 穏やかな声だった。


 だが、ルナは答えられない。


 自分は生徒ではない。


 廃棄処分場へ行く途中だった。


 今は迷子である。


 それをどう説明すればよいのかわからない。


「ええと……」


 ルナが言葉を探していると、校門の脇で誰かが笑った。


「その子、昼の子じゃないよ」


 ルナは振り向いた。


 門の端。


 朝日が当たっているはずなのに、そこだけ影が濃い場所があった。大きな正門とは別に、小さな通用口がある。鉄の扉に、同じ月の校章が刻まれている。ただし、正門の校章が銀色なのに対し、通用口の校章は黒い。


 その前に、一人の少女が立っていた。


 黒に近い紺色の制服。昼の学院の生徒たちと似ているが、リボンの色が違う。髪は肩のあたりで切り揃えられ、顔立ちは整っているが、どこか影が薄い。


 いや、影が薄いのではない。


 影だけが濃い。


 少女の足元に落ちた影は、朝の光にしては不自然なほど黒かった。


「ミオさん」


 警備員が少し困ったように言った。


「また勝手に通用口から出てきて」


「出てきてないよ。まだ入ってもいないし」


「朝の時間帯は、夜間部の生徒は――」


「わかってる。だから門の内側には入ってない」


 少女はそう言って、ルナを見た。


 正確には、ルナの顔ではなく、彼女が抱えている金属箱、靴、服、手の汚れ、髪の乱れ、それから目を見た。


「あなた、迷子?」


 ルナは反射的に答えた。


「迷子ではございません」


 ミオは笑った。


「迷子の人って、だいたいそう言う」


「わたくしは、廃棄処分場へ向かっておりました」


「その箱?」


「はい。古いバッテリーでございます」


「学校に捨てに来たの?」


「違います。追跡者から逃走した結果、現在地を喪失いたしました」


「やっぱり迷子じゃん」


 ルナは黙った。


 ミオは楽しそうに笑った。悪意はない。だが、遠慮もあまりない。〈ホーム〉の子どもたちとは違うが、昼の学院の生徒たちとも違う。彼女の声には、夜に慣れた者の軽さがあった。


 警備員は溜息をついた。


「ミオさん、その子の知り合いですか?」


「今、知り合った」


「それは知り合いとは言いません」


「じゃあ、これから知り合いになる」


 警備員はさらに困った顔をした。


 その間に、昼の生徒たちは校門を通り過ぎていく。何人かはミオの方を見た。だが、目が合いそうになるとすぐ逸らす。あるいは、最初から彼女がそこにいないかのように、通り過ぎていく。


 教師も同じだった。


 挨拶はする。


 けれど、距離がある。


 ミオは学院の生徒であるはずなのに、昼の校門前では少しだけ場違いに見えた。


 ルナはそれに気づいた。


「あなたは、この学院の生徒様ですか?」


「うん。たぶん」


「たぶん、なのですか」


「夜の方だから」


「夜」


「帝都月影高等学院・夜間特別課程。聞いたことない?」


「ございません」


「そっか。じゃあ、あなたはやっぱり昼の子でも夜の子でもないんだね」


 ミオは通用口にもたれた。


「あなた、昼の子じゃないね」


 プロット通りの言葉だった。


 けれど、ルナにはそれが予想以上に深く刺さった。


 昼の子。


 夜の子。


 では、自分は何の子なのか。


 機械人形。


 ルルトのもとにいるもの。


 拾われたもの。


 盗品ではないもの。


 人形だが、心がないとは限らないもの。


 どれも答えのようで、答えではなかった。


「わたくしは……」


 ルナは言葉を探した。


 だが、見つからない。


 ミオはその沈黙を急かさなかった。


 むしろ、少しだけ目を細めた。


「答えられないなら、夜向きかも」


「夜向き、ですか」


「昼の学校って、みんな自分が何者か知ってる顔してるでしょ。何年何組。何部。進路希望。親の仕事。成績。友達。そういうのがちゃんとある顔」


 ミオは、正門をくぐっていく生徒たちを見た。


「夜の方は、そうじゃない子が多いよ。本名を言えない子。家に帰れない子。昼間は働いてる子。義体の調整で普通の学校に通えない子。魔導災害で前の生活が壊れた子。あと、たまに、人間じゃない子」


 ルナの指が、金属箱を握る。


「人間じゃない子も、通ってよいのですか」


「書類が通ればね」


「書類」


「この街って、結局そこなんだよね。心があるかより、登録できるか。名前があるかより、欄に入力できるか」


 ミオはスカートのポケットから薄いパンフレットを取り出した。


 黒地に銀の月。


 帝都月影高等学院・夜間特別課程。


 その下に小さく、こう書かれていた。


 ――ルナティックハイ。


「はい」


 ミオはそれをルナに差し出した。


「道に迷った記念」


「受け取ってよろしいのですか」


「捨ててもいいよ」


「捨てるための廃棄処分場を探していたのですが」


「真面目だね」


「真面目、なのでしょうか」


「たぶん。夜の学校だと、真面目な子ほど最初に困るけど」


 ルナはパンフレットを受け取った。


 紙の感触。


 薄い。


 けれど、不思議と重かった。


「ミオ様」


「様はいらない」


「では、ミオさん」


「うん」


「わたくしは、ここに来てもよいのでしょうか」


 ミオは少しだけ驚いた顔をした。


 それから、笑った。


 先ほどまでの軽い笑みとは違う。少し困ったようで、少し嬉しそうで、少し寂しそうな笑み。


「それ、わたしに聞くことじゃないと思う」


「では、どなたに」


「たぶん、あなた自身」


 ルナは答えられなかった。


 警備員が咳払いした。


「ミオさん、そろそろ戻ってください。夜間部の出入口は朝の時間帯、開放対象外です」


「はいはい」


 ミオは通用口へ戻りかけ、ふと振り返った。


「あ、そうだ」


「はい」


「そのバッテリー、学校では捨てられないよ。廃棄処分場なら、ここから二つ先の通りを左。青い煙突が見えるから」


 ルナは目を瞬かせた。


「ありがとうございます」


「でも、今から行くと、たぶんまた迷うよ」


「……努力いたします」


「うん。迷ったら、誰かに聞けばいいよ。聞く相手を間違えなければ」


 ミオは通用口の奥へ消えた。


 扉が閉まる。


 その瞬間、門の端に落ちていた濃い影も少し薄くなった。


 昼の学院の光が、元に戻ったように見えた。


 ルナはパンフレットを胸に抱えた。


 古いバッテリーの金属箱と一緒に。


 そこから廃棄処分場へ向かうことは、できたかもしれない。


 青い煙突は、ミオの言った通り、二つ先の通りから見えた。だが、ルナはそこまで歩きながら、何度もパンフレットを見てしまった。


 夜間特別課程。


 不登校生徒の再教育。魔導災害被害者の支援。義体使用者の社会適応。夜間労働者のための学習支援。機械人形・人工人格個体の特別相談窓口。


 機械人形。


 人工人格。


 相談。


 その単語を見ているうちに、青い煙突の前を通り過ぎた。


 気づいた時には、もう道がわからなくなっていた。


 結局、ルナは古いバッテリーを捨てられなかった。


 帰り道も一度間違えた。


 だが、今度は通信した。


 ルルトへ。


『現在地を喪失いたしました』


 短い沈黙の後、返事が来た。


『やはりね』


『やはり、とは何でしょうか』


『現在地を送って』


『はい』


『そこから右。次の路地は入らない。屋台が見えたら左。緑の看板の診療所を通り過ぎたら、見覚えのある汚い階段がある』


『汚い階段という情報で識別できる階段が複数ございます』


『では、いちばん汚い階段』


『判断に困ります』


『写真を送って』


 やり取りを繰り返しながら、ルナは何とか〈ホーム〉へ戻った。


 アパートの階段は、朝よりもさらに汚れていた。


 廊下の血痕は少しだけ薄くなっている。誰かが雑に水を撒いたのだろう。血は完全には落ちず、赤黒い筋になって残っていた。


 ルナはそれを避けて歩いた。


 部屋の前に立つ。


 少しだけ躊躇した。


 古いバッテリーは、まだ手元にある。


 頼まれたことを達成していない。


 パンフレットを持ち帰っている。


 追われた。


 迷った。


 通信した。


 失敗だ。


 完全な失敗。


 ルナはドアを開ける前に、小さく息を整えた。


 そして、ノックした。


 内側からルルトの声。


「鍵は開いている」


 ルナは部屋へ入った。


「ただいま、帰りました」


「おかえり」


 ルルトはテーブルで書類を広げていた。


 昨夜の公園の件だろう。影山源三郎、影山グループ、帝都月影高等学院、夜間特別課程。端末画面には複数の情報が並び、紙のメモにはルルトの細い字で何かが書き込まれている。


 彼はルナを見た。


 金属箱。


 パンフレット。


 汚れた靴。


 少し乱れた髪。


 そして、無理に平静を保とうとしている顔。


「古いバッテリーは?」


「……廃棄できませんでした」


「そう」


「申し訳ございません」


「怪我は?」


「ございません」


「追われた?」


 ルナは目を見開いた。


「なぜ、おわかりに」


「靴の汚れ方。走った跡がある。髪も乱れている。だが、服に引っ張られた跡はない。逃げ切ったんだろう」


「はい」


「通信が遅かった」


「申し訳ございません」


「怒ってはいないよ」


 ルナは顔を上げた。


「怒っていないのですか」


「怒る理由がない」


「頼まれたことを失敗いたしました」


「初めて外へ出て、追われて、迷って、それでも帰ってきた。成果としては十分だ」


「ですが、古いバッテリーは」


「明日、ボクが捨てる」


「わたくしは、お役に立てませんでした」


 ルルトはペンを置いた。


「ルナ」


「はい」


「役に立つかどうかだけで自分を判断すると、壊れるよ」


 ルナは息を止めた。


 機械人形に必要のない行動。


 けれど、止めた。


「壊れる、とは」


「役に立たない自分を許せなくなる。役に立つためなら、何でもするようになる。そういう人間を、ボクはたくさん見てきた。人形にも、たぶんよくない」


 ルナは言葉を失った。


 ルルトはパンフレットへ視線を移した。


「学校に興味があるのかい?」


 ルナは慌てた。


「ち、違います。これは、その、道に迷った記念としていただいたものであり、わたくしが積極的に取得した資料ではございません」


「道に迷った記念」


「はい」


「珍しい記念品だね」


「ミオさんが、そうおっしゃいました」


「ミオ」


 ルルトの目がわずかに細くなる。


「影山ミオ?」


「名字までは、伺っておりません」


「どんな子だった?」


「夜間部の生徒様だそうです。昼の子ではないとおっしゃっていました。制服を着ていましたが、昼の生徒の方々からは、少し距離を置かれているように見えました」


「影は?」


「……影、ですか」


「濃かった?」


 ルナは思い出した。


 通用口の前。


 朝日が当たっているはずなのに、濃かった影。


「はい。不自然なほど濃く見えました」


「なるほど」


 ルルトはメモに何かを書き加えた。


 ルナはパンフレットを胸に抱いたまま、立っている。


 ルルトはそれに気づいている。


 気づいていながら、すぐには何も言わなかった。


 しばらくして、彼は椅子の背にもたれた。


「読んでみるといい」


「よろしいのですか」


「ボクの許可が必要なのかい?」


「必要では、ないのでしょうか」


「君がもらったものだ」


「ですが、わたくしは――」


 人形です。


 そう言おうとして、止まった。


 ルルトが今朝言った言葉を思い出したからだ。


 君は人形だよ。


 だが、人形であることと、心がないことは別問題だ。


 ルナはパンフレットを見下ろした。


 帝都月影高等学院・夜間特別課程。


 ルナティックハイ。


「……少しだけ、興味があります」


「そう」


「ですが、わたくしが学校へ行く理由は、ございません」


「理由は後からできることもある」


「理由がないなら、とっくに捨てている、ではないのですか」


「それは捨てる場合の話だよ」


「では、行く場合は?」


「行ってから考えればいい」


 ルナは困った顔をした。


「ルルト様のお言葉は、時々、相互に矛盾しているように感じられます」


「人間の言葉はだいたいそうだよ」


「ルルト様は人間なのですか?」


 ルルトは少しだけ笑った。


「それは、ボクにも判断が難しい」


 その夜。


 帝都月影高等学院では、昼の喧騒が消えていた。


 白い校舎は夜の中で静まり、窓のいくつかだけに灯りが残っている。昼の生徒たちは帰り、部活動も終わり、正門は閉じられている。


 だが、門の端の小さな通用口だけは、まだ完全には眠っていない。


 黒い月の校章。


 夜間特別課程。


 校舎の奥、管理棟の地下にある出席管理端末が、低い駆動音を立てていた。


 端末画面には、夜間部の在籍者一覧が流れている。


 名前。


 年齢。


 登録区分。


 保護者。


 保証機関。


 所有者。


 人間の生徒には、保護者欄がある。


 義体使用者には、医療管理機関欄がある。


 機械人形には、所有者欄がある。


 画面が一瞬だけ揺れた。


 ノイズ。


 そのノイズの中に、新しい名前が表示される。


 ルナ。


 登録区分――未確定。


 種別――少女型機械人形。


 所属候補――夜間特別課程。


 保護者欄――空白。


 所有者欄――検索中。


 端末は数秒間、沈黙した。


 それから、赤い文字が浮かぶ。


 所有者未登録。


 画面の端で、黒い月の校章が一度だけ明滅した。


 誰もいない管理室に、出席確認の予鈴のような電子音が小さく鳴る。


 ルナはまだ、何も知らない。


 自分の名前が、夜の学校に拾われかけていることを。


 そして、所有者の欄に何もないことが、この街では自由ではなく、危険を意味するのだということを。

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