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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
1/12

第1話 影踏み

 昼の公園には、いつも光がある。


 芝生の上で弁当を広げる会社員。ベンチで缶コーヒーを飲みながら端末を眺める学生。噴水のそばで待ち合わせをする恋人たち。魔導広告を背に記念写真を撮る観光客。管理局の巡回ドローンが低い音を立てて通り過ぎ、清掃用の小型機械人形がタイルの継ぎ目に溜まった埃を吸い込んでいく。


 帝都エデンの公園は、昼間であればよく整えられた都市の肺だった。


 だが夜になると、同じ場所はまったく別の顔をする。


 照明はある。監視カメラもある。女帝政府の治安維持網は、眠らない街にふさわしく常に稼働している。けれど、夜の公園には光の届かない角度があった。噴水の裏。芝生の端。高架の影。植え込みと植え込みのあいだ。街灯の光が白く照らしているはずなのに、妙に暗く見える場所。


 そこに立つ者たちは、昼間と同じ顔をしていない。


 密談。受け渡し。脅迫。示談。偽装された依頼。名前を出せない相手との待ち合わせ。


 夜の公園は、裏社会の待合室だった。


 その日、ルルトは深夜の公園を歩いていた。


 細い雨が降っている。


 雨粒は地面を濡らすほど強くはない。ただ、空気に湿り気を与え、街灯の光をぼかし、世界全体に薄い膜をかける程度の雨だった。帝都の高層ビル群は遠くで光っている。魔導炉から伸びる光脈が空の低い位置を走り、夜景はまるで巨大な硝子細工のように煌めいていた。


 その光の下を、ルルトは黒い傘を差して歩く。


 白銀の髪は、傘の影の下でも淡く光を持っていた。夜気に溶けない色。闇の中に浮かぶ、月よりも冷たい銀。黒いロングコートは細身の身体に沿って揺れ、胸元の開いたシャツからは白い肌と、そこに刻まれた十字型の魔導刻印が覗いている。


 紅い唇には、微笑とも無表情ともつかない線が引かれていた。


 古い探偵映画の登場人物のようでもあり、教会の聖画から堕ちた悪魔のようでもある。


 ルルト。


 裏社会での通り名は、〈宵の明星〉。


 ある者は彼をルシフェルと呼ぶ。ある者は死を運ぶ探偵と呼ぶ。ある者は、ただ殺し屋とだけ呼ぶ。


 本人は、そのどれも訂正しない。


 呼び名は呼ぶ側の問題であって、呼ばれる側の本質とは限らないからだ。


「……時間には正確、か」


 ルルトは懐中時計を見た。機械式ではなく、魔導式でもない。古い銀の時計だった。秒針の動きがほんのわずかに遅れている。わざと調整していないのだ。正確すぎるものは、嘘をつく時に不便である。


 待ち合わせの時刻は、午前零時ちょうど。


 すでに三分が過ぎていた。


 依頼人は来ない。


 ルルトは噴水の縁に立ち、夜の公園を見渡した。


 噴水は止まっていた。昼間なら水が弧を描き、光を受けてきらめいているはずの場所だ。今は黒い水だけが静かに溜まり、その表面に街灯と高層ビルの灯りを歪ませて映している。


 ベンチが三つ。植え込みが四つ。公衆端末が一台。電灯が七本。清掃用機械人形の充電ポートが二つ。監視カメラが見える位置に四つ、見えない位置に少なくとも六つ。


 そして、公園の北側の植え込み。


 ルルトはそこを見た。


 植え込みそのものに異常はない。葉の揺れも自然だ。雨に濡れた土の匂いも、芝生の匂いも、遠くを走る魔導バスの排気音も、すべて普通だった。


 ただ、影が一つ足りなかった。


 街灯の角度から見て、植え込みの奥には細い木の影が二本落ちるはずだった。だが実際には一本しかない。影が消えているのではない。何かがそこに重なり、別の影で上書きしている。


 ルルトは傘を少し傾けた。


「依頼人が遅刻するのは珍しくない。けれど、代理人が無言で弓を構えているのは、あまり礼儀正しくないね」


 返事はなかった。


 代わりに、空気が細く鳴った。


 矢だった。


 影のように黒く、針のように細い矢が、ルルトの眉間へ向かって飛んでくる。


 実体の矢ではない。魔導エネルギーを極細に圧縮し、影の輪郭で包んだもの。普通の弾丸より軽く、普通の魔導弾より気配が薄い。風切り音すら、耳を澄まさなければ聞き取れない。


 ルルトは首をわずかに傾けただけで、その矢を避けた。


 矢は背後の街灯に刺さった。金属音はしない。街灯の表面に黒い線が走り、次の瞬間、線は雨に溶けるように消えた。


「影矢か。上品だね。殺意が細い」


 ルルトが言い終わる前に、二本目が飛んできた。


 今度は心臓。


 ルルトは傘を閉じた。黒い布が音を立てて縮み、同時に身体が横へ滑る。矢はコートの裾を掠め、噴水の水面に落ちた。水面に小さな黒い穴が開き、そこから煙のようなものが立つ。


 三本目。


 四本目。


 五本目。


 矢は角度を変えて飛んできた。正面だけではない。左、右、背後、足元。狙撃手は一人のはずだが、矢の軌道は複数の射点から放たれているように見える。空中で折れているのだ。影を足場にして、矢の軌道を曲げている。


 ルルトは走らない。


 歩いていた。


 雨に濡れたタイルの上を、まるで夜会の床を進むように一歩ずつ進む。矢が飛ぶ。身を傾ける。傘の柄で弾く。コートの端で受け流す。時には矢を指先で摘む。


 摘んだ瞬間、白い指先が焦げた。


 肉が焼ける匂い。


 ルルトは焼け爛れた指を見下ろした。皮膚が割れ、黒い煙が立ち、血が滲んでいる。


 すぐに傷は塞がり始めた。


 爛れた肉が内側から盛り上がり、焦げた皮膚が剥がれ落ち、新しい白い皮膚が現れる。人間の治癒ではない。機械の修復でもない。もっと生々しく、もっと不自然な再生。


「ふむ。触ると焼ける。刺さると穴が開く。だが、呪いは浅い。殺す気はあるが、仕留める自信はない」


 ルルトは噴水を背に立った。


 矢の雨が止む。


 公園に、雨音だけが戻る。


 ルルトは目を閉じた。


 風の流れ。水面の揺れ。芝生を打つ雨粒。街灯の微かな唸り。魔導炉から流れてくる都市の低周波。遠くを走る車の音。


 その中に、一つだけ異なる音があった。


 呼吸ではない。足音でもない。弦を引く音。


 指が空を抓む音。


「そこか」


 ルルトが呟いた瞬間、背中に矢が突き刺さった。


 矢は背骨の横から入り、胸を貫いた。黒い先端がシャツを裂いて現れる。続けて二本、三本、四本。肩、脇腹、太腿、首筋。細い影矢がルルトの身体を次々に貫いていく。


 白銀の髪が雨に揺れた。


 ルルトは膝をついた。


 胸元の十字刻印の周囲に赤い血が広がる。黒いコートの内側が濡れ、タイルの上に血の滴が落ちた。


 そして、彼は倒れた。


 うつ伏せに、雨の中へ。


 動かない。


 呼吸もない。


 公園の奥から、一人の男が姿を現した。


 黒いスーツ。細い身体。左手はピースサインのように二本の指を立てている。その二本の指のあいだに、見えない弓がある。右手は何かを抓むように空を引き、透明な弦を絞っていた。


 男は慎重だった。


 死体に近づく歩幅は小さい。距離を取り、視線を外さず、いつでも矢を放てるようにしている。雨で濡れた靴がタイルを踏むたび、わずかな水音がした。


 男はルルトの側に立つ。


 見下ろす。


 血は出ている。身体には穴が開いている。心臓の位置も貫いた。首にも矢を入れた。人間なら死んでいる。


 だが、男はまだ矢を構えていた。


「……念には念を、だ」


 男は見えない弦を引いた。


 影矢が形成される。


 狙いは、後頭部。


 矢が放たれた。


 ルルトの手が動いた。


 うつ伏せのまま、彼は後頭部へ迫った矢を素手で掴んでいた。


 黒い矢は指の中で震え、皮膚を焼きながら消えていく。ルルトはゆっくりと仰向けになった。胸に開いた穴は、すでに塞がりかけている。裂けたシャツの下で、白い皮膚が何事もなかったかのように戻っていく。


 男の顔が凍った。


 ルルトは雨に濡れた髪を払うでもなく、口元だけで笑った。


「キミは……〈アポロンの狙撃手〉かな?」


 男の喉が鳴る。


「まさか……」


 彼の視線が、ルルトの胸元へ落ちた。血に濡れた十字の魔導刻印。白い肌に刻まれた、裏社会で知らぬ者の少ない印。


「〈宵の明星〉……」


「そう呼ぶ人もいるね」


 ルルトは立ち上がった。


 身体に刺さっていた影矢は、すでに霧のように消えていた。服には穴が残っている。だが肌には傷がない。雨に混じって流れた血だけが、彼が一度たしかに貫かれたことを示していた。


 アポロンの狙撃手はすぐに弓を構えた。


 判断は早い。動揺していても、裏社会で通り名を得るだけの反応速度はある。近距離であれば矢を外さない自信もあったのだろう。


 しかし、ルルトの方が早かった。


 黒い影が揺れた。


 ルルトの姿が、一瞬、街灯の下から消える。


 次の瞬間、彼は狙撃手の目の前にいた。


「弓使いは、指を大事にするべきだ」


 乾いた音がした。


 いや、乾いてはいなかった。雨に濡れた夜に響いたそれは、骨が砕ける湿った音だった。


 ルルトの手が、アポロンの狙撃手の手首を握っている。ピースサインを作っていた二本の指ごと、弓を構える関節がありえない方向へ曲がっていた。


「ぐっ……!」


 狙撃手は悲鳴を押し殺した。


 ルルトは手を離さない。


「キミの矢は悪くなかったよ。最初の三本は牽制。四本目から殺意。七本目で本命。けれど、死体に近づく時の歩幅が小さすぎる。警戒心の強さは長所だけれど、恐怖を隠せないのは短所だ」


「な、何を……」


「あと、依頼人の顔を知らないね」


 狙撃手の目が揺れた。


 それだけで十分だった。


 ルルトは微笑んだ。


「なるほど。キミも試験用の駒か」


 その瞬間、公園の地面がわずかに震えた。


 ルルトは狙撃手を横へ放り投げた。


 彼の足元から、白い手が伸びてきた。


 指先は細く、爪は薄い真珠色。水中から浮かび上がるように、女の腕が地面を抜け、ルルトの足首を掴もうとする。


 ルルトは跳んだ。


 人間の跳躍ではない。重力を踏み台にしたような動きだった。黒いコートが雨を含んで羽のように広がり、ルルトの身体は街灯の高さまで浮かび上がる。


 その真下で、地面から女が現れた。


 裸体に近い白い身体。濡れた黒髪。肌は水を弾く魚の鱗のように滑らかで、腰から下は人間の足でありながら、地面の中を泳いできたかのように揺らいでいる。


 女は地面から上半身だけを出し、笑った。


「外したネ」


 片言の帝都標準語。中国系の訛りがある。


 ルルトは街灯の上に着地した。細い灯具の上に立っているというのに、足元は少しも揺れない。


「〈陸上のマーメイド〉だね」


「そうヨ。マサカ、相手が〈宵の明星〉ダッタとはネー」


「知らされていなかった?」


「依頼人は、名前も顔も出さナイ。金だけ先に払われタ。裏社会では、よくある話ヨ」


「よくある話は、たいてい雑な話だ」


 ルルトは足元の公園を見下ろした。


 狙撃手は手首を押さえて後退している。戦意はほとんど残っていない。陸上のマーメイドは地面から半身を出しているが、いつでも潜れる体勢だ。彼女の身体は泥に汚れていない。地中を掘っているわけではない。土や石を透過している。


 魔導特性は、地中潜行と透過。


 水属性に見えるが、本質は境界を曖昧にする術式だろう。地面と身体、固体と液体、外と内。その境界を滑らせている。


 厄介だ。


 ルルトはそう思った。


 厄介だが、無敵ではない。


「人魚さん」


「何ヨ?」


「依頼人の素性を知っているかい?」


「言うと思ウ?」


「依頼人を明かしてほしいわけじゃない。キミが知っているかどうかを聞いている」


 陸上のマーメイドは目を細めた。


「それ、どう違うカ?」


「大きく違う。キミが依頼人を知っていて黙っているなら、口を割らせる必要がある。知らないなら、これ以上壊す意味が薄い」


「優しいネ」


「違うよ。無駄が嫌いなだけだ」


 女は笑った。


 その笑みが、地面に沈む。


「ワタシと戦うの、怖くなったカ?」


 ルルトはほんの少し首を傾げた。


「怖い?」


 その言葉を、彼は観察するように繰り返した。


 そして笑った。


 それは天使のような微笑だった。美しく、静かで、見る者に一瞬だけ安心を与える。だが次の瞬間、その安心が間違いだったと気づかせる笑みでもあった。


 雨粒が白銀の髪を伝う。


「怖がるには、まだ情報が足りないね」


 ルルトの右手に、黒い影が集まった。


 指先から肘へ、漆黒の魔導が這い上がる。爪が伸びる。獣の爪ではない。金属でもない。夜そのものを鋭利に削り出したような、黒い刃。


「ダーククロウ」


 呟きと同時に、ルルトは街灯から落ちた。


 落下ではなく、襲撃。


 黒い爪が、地面から出ていた陸上のマーメイドの肩口を抉ろうとする。


 だが女は笑いながら地中へ沈んだ。


 爪は地面を切り裂いた。タイルと土が黒く裂け、火花の代わりに影が散る。


 背後。


 ルルトは振り向かず、後ろ蹴りを放った。


 足は確かに女の胴を捉えた。


 しかし手応えがない。


 女の身体はルルトの足を透過した。そのまま背中から胸をすり抜けるように通過し、彼の正面の地面へ沈む。


 不快な感触が残った。


 水が皮膚の下を通ったような、内臓を冷たい指で撫でられたような感覚。


 ルルトは表情を変えない。


「なるほど。触られたくない相手だ」


 地面の下から水撃が放たれた。


 細い水柱が、ルルトの腹を貫く。


 親指ほどの穴が開いた。


 血が飛ぶ。


 ルルトは一歩下がり、腹に手を当てた。穴はすぐに塞がる。だが服の穴は塞がらない。黒いコートも、シャツも、今日だけでずいぶん傷んでいる。


「服代が増えるな」


 地面の下から女の笑い声がした。


「余裕ネー」


「余裕ではなく、計算だよ。服の弁償を誰に請求するか考えている」


「死んだら請求できないヨ」


「死ねばね」


 ルルトは周囲を見た。


 噴水。ベンチ。電灯。樹木。監視カメラ。雨に濡れたタイル。地中を泳ぐ女。地面から放たれる水撃。透過する身体。


 彼女は地面を盾にしている。地上に出た瞬間を狙っても、物理攻撃は透過される。ダーククロウは霊的存在にも干渉できるが、彼女の透過は存在そのものを消すのではなく、境界の位相をずらしている。爪を当てるには、彼女が境界を戻した瞬間を狙う必要がある。


 だが、その瞬間は短い。


 ならば、境界の外側ではなく内側へ撃つ。


 ルルトは走った。


 地面の上ではなく、街灯へ向かって。


 彼は電灯の柱に足をかけると、そのまま重力を無視するように垂直に走った。黒い靴が濡れた金属を踏み、白銀の髪が下へ流れる。街灯の天辺に到達すると、彼は細い支柱の上に立った。


 陸上のマーメイドは地中を泳げる。


 だが、細い電灯の柱の中を泳ぐことはできない。


 地面が震えた。


 水撃が三方向から放たれる。


 ルルトは避けなかった。


 水撃の一本が肩を貫く。一本が太腿を裂く。一本が頬を掠める。白い肌に赤い線が走り、すぐに塞がる。


 その間に、彼は腰の後ろからリボルバーを抜いていた。


 古い型の大口径拳銃。


 帝都では珍しくもない武器だ。魔導銃、光弾銃、義体用重火器、もっと派手で高性能なものはいくらでもある。だが、ルルトのリボルバーは見た目ほど単純ではなかった。


 弾倉には、怨霊呪弾。


 撃つだけで、撃った者にも呪いが逆流する弾丸。


 ルルトは水撃が放たれた地面を見た。


 水は上へ向かっていた。ならば、その直下に通路がある。彼女が境界を曖昧にして地面を泳ぐとしても、水撃を放つ瞬間だけは、自分の位置を現実側へ固定する必要がある。


 その瞬間を撃つ。


「人魚姫は、泡になったそうだね」


 ルルトは引き金を引いた。


 銃声が夜の公園を割った。


 弾丸は地面へ撃ち込まれた。土とタイルを砕いたのではない。弾丸から溢れた黒い怨嗟が、地面の内側へ染み込んでいく。


 老婆の嗤う声。


 若い女の叫び声。


 幼い子どもの泣く声。


 無数の声が弾丸の軌跡を追って地面へ沈んだ。


「キャアアアアアアアッ!」


 地の底から悲鳴が上がった。


 陸上のマーメイドが地上へ跳ね出る。


 彼女の身体は、今度は透過していなかった。境界を固定したまま、怨霊に内側から食い破られたのだ。白い肌に黒い痣が走り、腹部から血が流れている。美しい顔は恐怖に歪み、口から泡が溢れていた。


 彼女は地面の上で痙攣した。


 水に戻れない魚のように。


 ルルトは街灯から降りた。


 音もなく、雨の上へ着地するように。


「精神の位相が繊細すぎる。物理を透過できても、怨嗟までは泳ぎ切れないらしい」


 アポロンの狙撃手は、すでに逃げていた。


 陸上のマーメイドも、戦闘不能。


 ルルトはリボルバーをしまい、右手を軽く振った。呪弾の反動で指先が黒ずみ、爪の周囲が腐りかけている。だがそれも、ゆっくりと元に戻っていく。


 拍手が聞こえた。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 夜の公園に似つかわしくない、乾いた拍手だった。


「実にお見事じゃ」


 植え込みの奥から、一人の老人が現れた。


 小柄な老人だった。高級な黒い外套。銀の握りがついた杖。皺の深い顔。目は細く、眠っているようにも見える。だがその声には、長年人を使い、人を買い、人を切り捨ててきた者だけが持つ濁りがあった。


「これならば、君に仕事を任せても問題なかろう」


 ルルトは老人を見た。


 驚いた様子はない。


「ボクを試したのですか、影山源三郎氏」


 老人は片眉を上げた。


「ほう。わしが依頼人だと、よくわかったな」


「情報収集が趣味なので」


「趣味で、わしの名まで辿るか」


「趣味は突き詰めると厄介なものです」


 影山源三郎は、皺の奥で笑った。


 影山グループ創業者。


 トキオ聖戦後、旧東京が死都化し、神奈川全域が帝都エデンへ再編される過程で、魔導産業へ全財産を投じた男。多くの企業が消え、多くの資産家が逃げ、多くの政治家が女帝政府の顔色を窺っている時代に、彼は迷わず魔導へ賭けた。


 結果、影山の名は帝都の経済史に刻まれた。


 魔導炉部品。義体素材。結界維持用の導体。学術基金。医療施設。教育機関。帝都政府の下請け事業。


 影山グループの影は、帝都のあちこちに落ちている。


 そして影の濃い場所ほど、表からは見えにくい。


「アポロンの狙撃手と陸上のマーメイド。二人とも、それなりに名のある人材です。試験にしては贅沢ですね」


「安い買い物ではなかったよ」


「でしょうね。ですが、使い方が雑です」


「雑?」


「彼らは、あなたの顔を知らなかった。依頼人が誰かも知らない。仕事内容も曖昧。殺せればいい。殺せなければ、それはそれで判断材料になる。そういう使い方です」


「不満かね?」


「いいえ。おかげで、あなたの性格が少しわかりました」


 源三郎は杖を突きながら、噴水のそばのベンチへ歩いた。


「座らんかね」


「雨で濡れています」


「君はたった今、身体に穴を開けられても平然としておった」


「服は濡れます」


「ふむ。繊細なのか鈍感なのか、判断に困る若者じゃ」


「よく言われます」


 二人はベンチへ座った。


 ルルトは濡れたことを少し気にしながらも、結局腰を下ろした。源三郎は外套の内側から小さな布を出し、杖の握りを拭いた。雨粒一つにも無駄を許さないような仕草だった。


 公園の空気が変わっている。


 先ほどまで姿を見せなかった気配が、周囲に増えていた。植え込みの奥、遊歩道の先、公衆端末の裏、停められた黒い車の中。護衛だろう。源三郎を守るための者たち。だが、ルルトに近づく者はいない。


 彼らも見たのだ。


 宵の明星が、どういう生き物かを。


「それで」


 ルルトは足を組んだ。


「ボクにどのようなご依頼でしょうか?」


 源三郎は、しばらく噴水の黒い水を見ていた。


 そして、何でもないことのように言った。


「愚息を殺してほしい」


 雨音が一つ、間を埋めた。


「月並みな依頼ですね」


 ルルトの反応は薄かった。


 親が子を殺してほしいと頼む。子が親を殺してほしいと頼む。夫が妻を、妻が夫を、兄が弟を、弟が兄を、恋人が元恋人を。裏社会では珍しくもない。財産、怨恨、保身、嫉妬、恐怖。理由の形が違うだけで、死を望む構造はよく似ている。


「理由を聞かんのかね?」


「話したいのなら聞きます」


「仕事に必要ではないと?」


「必要なら、こちらで調べます。依頼人が話す理由は、たいてい依頼人に都合のいい物語です」


 源三郎は喉の奥で笑った。


「手厳しいな」


「事実です」


「では、都合のいい物語を聞いてもらおうか」


「どうぞ」


 源三郎は杖を両手で握った。


「息子の名は影山雄蔵。現在の影山グループ当主じゃ。わしは隠居し、会社の大半を奴に任せた。だが、あれは経営の何たるかを知らぬ。数字は読める。契約書も読める。人を切る判断も早い。だが、会社というものが何の上に立っているかを知らぬ」


「金と契約と人の死体でしょう」


「ほう」


「違いますか?」


「違わんな。だが、それを口に出してよいのは、作った者だけじゃ。受け継いだ者が言えば、ただの放蕩になる」


 源三郎の声には、怒りよりも疲労があった。


「雄蔵は、会社を壊す。魔導産業を玩具にしておる。女帝政府との委託事業に手を出し、夜間教育の支援事業を餌にし、義体と機械人形の裏流通にまで触れようとしておる。影山の名を守るために積み上げてきたものを、奴は一代で食い潰すじゃろう」


「ならば、退陣させればよい」


「簡単に言う」


「あなたには発言力がある。創業者であり、株も持っている。取締役会、監査役、顧問弁護士、女帝政府との窓口。あなたが動けば、息子を退かせる手段はいくらでもある」


 ルルトは源三郎を見た。


「なのに、殺し屋へ頼む。つまり、表の手段は使えない、または使うと不都合がある」


 源三郎の細い目が、少しだけ開いた。


「続けたまえ」


「あなたは、息子に会社を壊されると言った。次に、息子があなたを暗殺しようとしていると言った。順番が逆です。本当に自分の命を狙われたから殺したいのなら、最初にそう言う。だがあなたは、会社の話から始めた」


「それが何を意味する?」


「あなたにとって重要なのは、自分の命より影山という名前の維持です」


 源三郎は答えなかった。


 その沈黙を、ルルトは観察した。


 人は嘘をつく時、言葉よりも沈黙で失敗する。短すぎる沈黙は用意された嘘。長すぎる沈黙は、その場で嘘を作っている証拠。源三郎の沈黙は、そのどちらでもなかった。


 認めるか否かを選んでいる沈黙。


 つまり、図星に近い。


「君は殺し屋ではなく、探偵のようじゃな」


「裏社会の人間が勝手にそう呼ぶこともあります」


「本人はどう思っている?」


「肩書きに興味はありません。殺す前に、なぜ殺すのかを見たいだけです」


「なぜ?」


「標的を間違えると、仕事が汚くなる」


 源三郎は今度こそ声を出して笑った。


「気に入った」


「それはどうも」


「では、もう一つ聞こう」


 源三郎は杖の先で、濡れた地面を軽く叩いた。


 街灯に照らされた二人の影が、タイルの上に伸びている。老人の影は小さく曲がり、ルルトの影は細く長い。


「人が動けば影も動く。では、影の動きを止めれば、人は動けなくなるのではないかね?」


 ルルトは自分の影を見下ろした。


「影縫いの話ですか?」


「昔からある考え方じゃ。影を踏む。影を縫う。影を焼く。影を奪う。人の本体には触れず、その影を制することで人を制する」


「魔導以前からある呪術ですね」


「帝都では、呪術も魔導も技術として再利用される。君は、影をどれほど信用している?」


「信用?」


「影は本体に従うものかね?」


 ルルトは少しだけ考えた。


 雨のせいで、影の輪郭が揺れている。街灯の光、水たまりの反射、遠くの魔導広告。複数の光源が複数の影を作り、そのどれが本当の影なのか、一目ではわからない。


「影は消えません」


 ルルトは答えた。


「大きな闇に隠れて見えなくなることはあっても、消えたわけではない」


「では、影が本体から離れたら?」


「それは影ではなく、別のものです」


「別のもの?」


「影の形をした、何かです」


 源三郎は沈黙した。


 今度の沈黙は長かった。


「……なるほど」


 源三郎はゆっくりと立ち上がった。


「君に頼もう。影山雄蔵を殺してほしい」


「依頼は承りました。ただし、標的が本当に標的だと確認してからです」


「殺し屋の言葉とは思えんな」


「よく言われます」


「報酬は望む額を払おう」


「では成功報酬と調査費、先ほどの服の弁償を別で」


「服?」


 源三郎は一瞬、本当に意表を突かれた顔をした。


 ルルトは自分のコートをつまんだ。矢で穴が空き、水撃で裂け、血と雨で台無しになっている。


「あなたがボクを試したせいで、服が傷みました。これは依頼料とは別に請求します」


 源三郎は口元を震わせた。


 笑いを堪えている。


「……よかろう。影山の名にかけて、弁償しよう」


「その名が、どこまで信用できるかは調査中ですが」


「君は本当に、食わせ物じゃな」


「お互い様です」


 源三郎は背を向けた。


 護衛たちの気配が動く。老人が歩くたび、杖の音が雨の公園に小さく響いた。植え込みの奥へ消え、黒い車の扉が開き、閉まる。エンジン音は静かだった。高級車らしい、抑え込まれた獣のような音。


 車が走り去る。


 公園には、ルルトだけが残った。


 いや、正確にはもう一人。


 地面に倒れたままの陸上のマーメイドが、かすかに息をしている。


 ルルトは彼女のそばへ歩いた。殺すためではない。何かを探すために。


 彼女の手首には、細いブレスレットがあった。魔導具ではない。身分証でもない。だが、チャームが一つ付いている。


 月と影を意匠化した小さな校章。


 ルルトはそれを指先で摘まみ上げた。


 銀色の月。黒い影。二つが重なり、円形の紋章を作っている。裏面には小さな文字が刻まれていた。


 帝都月影高等学院。


 そして、さらに小さく。


 夜間特別課程。


「……学校か」


 ルルトは雨に濡れた校章を眺めた。


 帝都月影高等学院。カミハラ区にある名門私立学院。魔導科学、機械工学、都市行政、情報処理に強い進学校。帝都大学や企業研究所への進学実績も高く、女帝政府関係者や企業幹部の子女も通う。


 昼の顔は、よく知っている。


 問題は、夜の顔だ。


 夜間特別課程。


 通称、ルナティックハイ。


 行き場のない若者を受け入れる救済教育機関。〈ホーム〉出身者、魔導災害被害者、義体使用者、機械人形と共生する家庭の子ども、夜間労働者、身元を変えた生徒たち。


 救済と搾取が、同じ教室に並んでいる場所。


 ルルトは校章をポケットへ入れた。


「刺客が学校の関係者。あるいは、学校の関係者に偽装している。どちらにしても、月並みではなくなってきたね」


 彼は陸上のマーメイドを見下ろした。


「キミは運がいい。今日は殺す理由がなくなった」


 女は意識を失ったまま答えない。


 ルルトは傘を拾い、再び開いた。


 破れたコートの上に、黒い傘の影が落ちる。


 雨はまだ降っている。


 彼は公園を出た。


 深夜の帝都エデンは、眠らない。


 高層ビルは光り、魔導広告は空に踊り、道路には無人タクシーが流れ、遠くの空にはヨムルンガルド結界の淡い光が蛇のように横たわっている。女帝の都市。魔導科学の楽園。旧東京の死の上に築かれた、光り輝く人工の庭。


 だが、光が強ければ強いほど、影は濃くなる。


 その影の底に、〈ホーム〉はあった。


 帝都の光が届きにくい区画。行政地図には曖昧にしか記されず、企業広告では存在しないことにされ、警察も踏み込む時には人数を揃える場所。魔導炉の排熱パイプが壁を這い、違法改造の機械人形が路地を歩き、売春婦と運び屋と孤児と信徒と密売人が、同じ屋台で安い麺を啜る。


 ルルトはそこで暮らしている。


 正式な探偵事務所は持たない。看板も出していない。だが、裏社会では知られている。


 真相まで暴いてから殺す男。


 殺す前に依頼人の嘘を見抜く男。


 宵の明星。


 ルシフェル。


 ルルトのアパートは、〈ホーム〉の中でも古い建物だった。


 外壁はスプレーアートと古い宗教ポスターで埋まり、階段の手すりは錆び、エレベーターはいつから故障しているのかわからない。入口には壊れた監視カメラがあり、その下で小型の野良機械人形が雨宿りをしていた。


 ルルトは階段を上がる。


 三階。


 廊下には薄い蛍光灯が点滅している。壁は湿気を吸い、床には誰のものかわからない足跡が残っていた。隣室から怒鳴り声が聞こえる。


「ふざけないでよ!」


 若い女の声。


 続いて男の声。


「待て、落ち着けって!」


「殺してやる!」


 ルルトは立ち止まらない。


 銃声が響いた。


 一発。


 部屋のドアが内側から激しく叩かれ、男が廊下へ転がり出てきた。腹を押さえ、血を流している。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。


「た、助けてくれ……!」


 男は廊下を這い、ルルトの足元へ手を伸ばした。


 ルルトは男を見下ろした。


 血の流れ方。腹の穴の位置。呼吸の浅さ。銃弾は内臓を掠めている。すぐには死なない。だが、このままなら出血で死ぬ。背後の部屋からは、まだ女の荒い呼吸が聞こえる。銃はもう一発撃てる。おそらく、二発目を撃つ。


「すまないね」


 ルルトは自分の部屋の鍵を開けた。


「ボクの職業は、人の命を救うことじゃないんだ」


「ま、待っ……!」


 ルルトは部屋に入った。


 扉が閉まる。


 その直後、廊下で二発目の銃声が鳴った。


 続けて三発目。


 四発目。


 恨みの数だけ、銃声は続いた。


 部屋の中は、廊下より少しだけ暖かかった。


 古い暖房機が低く唸っている。狭い部屋だが、片付いている。書棚には魔導書、推理小説、古い新聞の切り抜き、裏社会の名刺、壊れた魔導具、薬品瓶が並ぶ。台所には洗い終えた皿。窓際には小さな鉢植え。ソファには畳まれた毛布。奥の部屋の扉は半開きになっていた。


 そして、玄関の前に少女が立っていた。


 薄い月色の髪。淡い青紫の瞳。白い肌。古びた制服風のワンピース。人間の少女に見える。だが、その整いすぎた顔立ちと、瞬きの間隔の正確さが、彼女が人間ではないことを示していた。


 少女型機械人形。


 ルナ。


「おかえりなさい、ルルト様」


 ルナはぱっと顔を明るくした。


 その笑顔は、人形に組み込まれた反応としては少し不自然だった。嬉しすぎる。感情が豊かすぎる。まるで、自分が嬉しいことに本人も戸惑っているような笑み。


 ルルトはコートを脱いだ。


「ただいま」


 その言葉を口にするようになったのは、ルナが部屋に来てからだった。


 彼自身は、それにまだ慣れていない。


 ルナは廊下の方を見た。


「今、銃声が聞こえました」


「隣の男が撃たれた」


「助けなくてよろしいのですか?」


「もう撃ち終わったようだしね」


「そういう問題なのでしょうか」


「このアパートでは、そういう問題だよ」


 ルナは困ったように眉を寄せた。


「ルルト様は、隣人が殺されても動揺なさらないのですね」


「壁が薄かったからね。これで夜中の騒音が一つ減る」


「また、そういうひどいことを平気でおっしゃる」


「平気ではないよ。少し眠い」


「それは平気とほぼ同じ意味ではありませんか?」


「君は言葉の学習が早いね」


 ルナは少しだけ嬉しそうにした。叱りたいのか褒められて喜びたいのか、自分でも決められない表情だった。


 ルルトは台所のテーブルに紙袋を置いた。


 ルナの目が輝く。


「もしかして」


「頼まれていたものだよ」


 紙袋から取り出されたのは、二十センチほどの円筒型の部品だった。銀色の外殻に、青い魔導回路が細く走っている。高位機械人形用のエネルギー炉。一般家庭で使うようなものではない。値段を聞けば、まともな市民なら三度聞き返すだろう。


 ルナは両手でそれを受け取った。


「ありがとうございます、ルルト様」


「安物が品切れでね。高いものを買う羽目になった」


「高いものなのですか?」


「とても」


「では、大切に消費します」


「消費する時点で大切にしていない気もするけれど」


 ルナは真剣な顔でエネルギー炉を見つめた。


「わたくし、これがないと動けなくなってしまいますので」


「知っている」


「ルルト様が買ってくださらなければ、わたくしは停止してしまいます」


「それも知っている」


「では、わたくしはルルト様に生かされているのですね」


 ルルトは一瞬だけ黙った。


 その沈黙を、ルナは不安そうに見上げた。


「……今の言い方は、不適切でしたか?」


「いや」


 ルルトはエネルギー炉から視線を外し、濡れたコートを椅子に掛けた。


「ただ、人形がそういうことを言うと、少し面倒だと思っただけだ」


「面倒、ですか」


「存在理由の話になる」


「存在理由」


 ルナはその言葉を繰り返した。


 まるで、内部辞書に登録されている単語の意味を確認しているように。けれど、その声には機械的な検索以上の何かがあった。


「わたくしにも、存在理由があるのでしょうか」


「作られたものには、たいてい目的がある」


「では、目的がわからないものは?」


「作った者が説明を怠ったか、説明できなくなったか、説明したくなかったか」


「わたくしは、どれでしょう」


「さあ」


 ルルトは台所へ向かった。


「今のところ、君は家事もできない、地図機能も怪しい、バッテリー消費も異常に早い、外へ出るのを怖がる、拾い主の仕事を増やす高級品だ」


「ひどいです」


「事実だよ」


「でも、捨てないでくださっています」


「理由がないからね」


 ルナは首を傾げた。


「理由がないから、捨てないのですか?」


「理由があるなら、とっくに捨てている。理由がないから、まだここにいる」


 ルナはその言葉を理解しようとした。


 人間なら、たぶん怒るか、笑うか、呆れるかするところだろう。けれどルナは、胸の内側にその言葉をそっと保存するような顔をした。


「難しいです」


「難しい方が、長持ちする」


「そういうものですか?」


「たぶんね」


 ルルトは湯を沸かし始めた。


 深夜の遅い食事を作るつもりなのだろう。彼は殺し屋であり、探偵であり、不死に近い再生能力を持つ怪物じみた男だったが、食事は自分で作る。ルナに任せると、消火器の粉を調味料と誤認した前科があるからだ。


 ルナはエネルギー炉を抱えたまま、嬉しそうにテーブルへ座った。


「ルルト様」


「何かな」


「早く取り付けていただけますか?」


「食事の後で」


「今ではだめでしょうか」


「君の背中を開けた状態で料理はできない」


「わたくしは待機できます」


「ボクが落ち着かない」


「ルルト様にも、落ち着かないという感情があるのですね」


「あるよ。主に、服が破れた時と、高額な部品を買わされた時に」


 ルナは少し考えた後、真面目に言った。


「では、わたくしは今後、服を破らないよう努力いたします」


「君が破ったわけじゃない」


「では、どなたが?」


「依頼人と、その代理人たち」


「弁償していただけるのですか?」


「請求する」


「よかったです」


 ルナは安心したように笑った。


 その笑顔の背後、窓ガラスに部屋の中が映っている。


 ルルトが台所に立つ姿。テーブルに座るルナ。小さな部屋。古い照明。雨に濡れた窓の向こうの帝都の夜景。


 そして、ルナの影。


 照明の位置から見れば、彼女の影は椅子の後ろへ素直に落ちるはずだった。


 だが、窓ガラスに映った影だけが、違う角度で首を傾けていた。


 ルナ本人は、まっすぐルルトを見ている。


 影だけが、ルルトではなく、窓の外を見ている。


 まるで、どこか遠くの学校の鐘の音を聞いているように。


 ルルトは湯気の向こうで、ふと窓を見た。


 影は、もう普通に戻っていた。


 彼は何も言わなかった。


 ただ、ポケットの中の小さな校章に指先で触れた。


 月と影。


 帝都月影高等学院・夜間特別課程。


 ルナティックハイ。


 雨はまだ降っている。


 帝都の夜は、深くなるほど影を濃くしていく。


 そして影は、必ずしも本体に従うとは限らない。

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