初陣 4月 -1-
どうにも落ち着かないと、拳を作っては広げてみる。それをテツトは繰り返していた。親指の付け根にまで袖がかかっている。手首を曲げる度にごわごわとした違和感があった。おろし立てのカーキー色のブレザーには、着させられているという落ち着かなさが先行している。
入学式を終えて、席に座する。テツトに与えられた席は窓際だった。高く設けられたネットの向こうに、ちびちびとだけ花の残った桜の木々と、握り拳より小さく高山彦九郎望拝像が見える。
特別進学コースのサナとは別のクラスとなっている。推薦入試を受けるにあたって、当時の担任がよく考えてから選択しろと念を押してきた。テツトとはすぐにでも届く未来を、手堅く選んだ。
校門前でそのことをサナに告げると、三白眼を向けては、口を尖らせて、難を唱えていた。テツトには当然の選択であると揺らがない。
ブレザーに膝頭を隠す丈のスカートの姿。彼女もまた、おさまりの悪さを覚えていたようで、地下鉄車内では、裾や肘周りを引っ張るなり、腰回りを持ち上げるなりしていた。夜更かしでもしていたのか、眼の下にはうっすらと隈ができていた。
「一応、ビジュアルがモノ言うセカイやからな」
「はーい。化粧で消しますよ」
彼女のテンションはなんとなく掴んできた。寝不足でも、変わらないようだった。
三条駅から、地上へ出ていく。陽光は煌めいていた。淡い色をした桜の花が風に吹かれて散り舞っている。門前までの身近な桜並木を二人して歩いていると、紺の背広姿の社会人に交じって、同じブレザー姿の者に、親子連れやらが見える。そして、それらを遠巻きにカメラを携えた外国人たちが居た。典型的な日本の光景として、それが比較的、気安く見られる場所として、鴨東高校の正門前が観光ガイドに紹介されているとは、テツトは聞いたことがあった。
「卒業式も凄いらしいね」
「せやろうなあ」
否が応でも視界にカメラのレンズが入ってくる。被写体になるような覚悟はテツトにはない。他人事として、まっすぐ前を向いて、淡々と歩を進めていく。
「ここは、認定を受けた身として、サービスするべきかな」
「黙って進めや。悪目立ちにでもなったら、マイナスやろう」
広告媒体として、京都管轄局への申請は無事に通った。四月一日から活動を始めることとなった。壁に設けられた掲示板の一角には、本年度からの新人として、『秋庭佐那』の名前が記されている。一番目立つ、契番の中央には、『深宮綾乃、全日本大会新人八傑おめでとう』と大きく書き出されていた。
またその一方で、今週の試合の組み合わせが張り出され、試合相手募集の要項も掲示されていた。
――試合より先に、取り敢えず、広告主を見つけよう。
それがテツトの方針であった。サナはそこら辺のことはテツトに任せると取り合わなかった。毎朝欠かさずにロードワークに出ている。しかし、いざ実際に試合に対して、どう迎え撃つのか、テツトには皆目見当がつかなかった。訊ねたところで、適当にはぐらかして、終いには、何とかなる、何とかするよ、としか答えてはくれなかった。
出資元はまだ見つかっていない。声はかけている。片桐禎和にも、ビジネスマナーに則った文調でメールを送り、返答を貰っている。――四条河原町のテナントにその女を連れて来い。テツトは今日の午後六時の約束を取り付けた。そしてもう一人。これは同級生に向けて、その両親にとり対欲しいとしてメッセージを送っている。既読はついたが返事はなかった。
――まずはここから、と駒を動かした気になっている。そう自嘲している。月十万円。その数字が、まだ靄のかかる月のようで、テツトには判然と見えていない。試合にでれば、名前が売れるのは感じていた。しかし、不安が拭えないテツトは、二の足を踏んでいた。
入学式の出席した際も、頭の中では、サナのこれからについてばかりであった。左右が立てば、テツトも立ち、座れば、倣ってイスに座する。理事長や生徒会長の訓示は右から左へと聞き流していた。
入学式が終われば、クラスに戻される。ホームルームも簡単で表面的な挨拶だけですぐに終わった。
クラスには知らない顔が並んでいる。中学からエスカレーター式に登ってきた生徒もいるとテツトは聞いている。話し声もそこそこあるようだが、関係ないとして、テツトは窓の外を見ていた。
「いやあテットが同じクラスで助かったよ」
背後からそう声をかけられた。細いフレーム眼鏡をかけた面長の男――佐藤潤矢である。同窓であり、テツトの数少ない友人でもあった。
「まあそれより、昨日のアレ観たか。洛中放送の試合」
「いきなりかい。好きやなぁ」
苦笑いを浮かべて、ジュンヤの話に耳を貸す。出会った頃から彼は試合を追いかけまわしていた。午後六時以降であれば、平日であってもその会場へと赴き、動画をまわして観戦するほどの熱の入れようである。
「深宮綾乃対壬生の沖田との試合」
「ああ、そういえばやっていたなあ」
帳簿をつけながら、動画を流していた。テツトはネット配信版を選んでいた。こちらの方ならば、その他の試合も順次放送されるからである。申請費用や、サナの部屋の生活品の購入などで、手元にはすでに八〇万となっている。その数字を睨んだところで百に戻ることはなかった。
「お前、会場に行かなかったのか?」
「そら行ったよ。でも、前列にはよう出られんかった。遠巻きもいい処。スマホの最大望遠で、こんなもんや。デジカメを失念したのが、痛かった」
差し出されたスマートフォンには白黒の上下を着た人物が確認できるぐらいであり、なるほど、それが深宮であると認識するのは難しかった。
「鮮やかやったなあ。あの沖田に完勝とはなあ」
四条大宮周辺の商工会が会費を出し合って、新撰組を模した広告媒体を打ち出していた。所属は三人で、近藤、土方、沖田と名付けられて活動している。――全員、武蔵野やないの、とは父秀幸がぽつりと漏らした言葉である。それでも人気実力十分であり、特に沖田は管轄内でも指折りの実力者であった。
場所は金戒光明寺。本堂前に浅黄のだんだら羽織り姿の沖田が竹刀を構える。一方の深宮綾乃は黒地に紅白の花を散らせた被衣を頭からかぶって現れた。下は胴着袴の姿で、粛々と現れた。武器は所有していない。沖田が三本とるか、深宮が投げ極めるかが試合の焦点となっていた。
被衣を取り、折り正す。その動きも舞かのような様があった。腰まで伸びた長い髪を一つに束ねて、沖田に向き立つ。PCの小さな画面からでも凛とした気が感じ取れた。テツトの手がとまり、彼女の姿に捕らわれていた。
「柔術を嗜んでいたとはインタビュー記事に書いてあったけど、あのしなやかな動きは、日舞も納めているんちゃうやろうか」
「知らんがな、そんなん」
ジュンヤがそう推測するのも、テツトにはなんとなく理解できる。体配、身体捌きが崩れない。観とれるほどに美しい、とテツトは感じていた。
沖田の突きをひらりと風に舞う花のようにかわして、襟元をとってから素早く腰を払っての投げが入った。沖田の両脚が大きな弧を描いていた。これで最初の一本が決まった。試合開始一分足らずの出来事であった。石畳に打ちつけられた沖田はしばらく動かなかった。痛みに呻くような姿は見られなかった。幾度も目を大きく瞬きさせていた。
それで調子が盗られたのか、沖田は無造作に面撃ちを放つなど、精彩を欠いた動きを繰り返していた。
「あの沖田相手でも、無傷の完勝やったな」
「昨年度が中の下やら、せいぜい上の下の部類を試合数で稼いでいたんやけど。今年は大物食いも果敢に狙っていくんちゃうか」
「さあ、どうやろうな」
「好きやなあ、二人とも」
頭上よりおっとりとした声が降り下りてきた。見上げれば、サナと同じブレザーが見えた。テツトとジュンヤの二人を覗き込むような姿勢で声をかけてきたのは、市瀬楓である。イスに座っている二人の頭部が起立している彼女に腰元にある。背丈は二人より高かった。
「なんや、カエデはんも同じ学校かい」
「なんやはお言葉ですわあ、ジュンヤはん。私の方が意外でしたのに」
「そっくり仕返ししてきはるな」
「テットはんも、特進やのうて、普通なのが意外や。てっきり同じクラスと期待しとりましたのに」
柳のような瞳をさらに歪ませて、口元に手を添えながら、少し間の伸びた喋りをする。見上げるテツトは苦笑いを強くさせた。視界にはカエデの豊満な胸が映り込んでいて、表情の全てを遮られている。
「で、特進のカエデはんは、なんでここにおんのや」
「そら、お開きになったからや。ジュンヤはんは面白いことを言いはるなあ。テットはん、一緒に帰りましょ。父が待っとります」
「ちょっと待ってや」
カエデに腕を掴まれてぐいと引き寄せられる。力が強く、テツトはひょいと立ち起こされてしまった。
「待てやって、声をかけたのはテットはんやないの。両親につないでほしいって」
カエデの実家は新町通りの呉服商だった。テツトは一週間ほど前に、額を地面に擦り付ける思いで、カエデにメッセージを送っていた。これがその返事だった。
「取り敢えず、その娘さんを鑑てから決める言うとった。どこにおるん?」
「テツト! 帰ろう」
ぐいとカエデに腕を引かれるとともに、声が響いた。クラスの戸の前で、サナが居た。
――ちょうど良かった。
テツトは苦笑いを浮かべたまま、長い息を吐き出した。




