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Act of Violence 7月-5-

 しばらく動けなかった。テツトは呆然と腰を落としたまま、横たえるサナへと顔を向けていた。視界は漠として滲んでいる。観ることもない。焦点は定まらず、ただ顔を向けることぐらいしかできなかった。


 サナも動かなかった。仰向けに倒れたまま、武徳殿の天井へと面を向けたままだった。表情は定かではない。ただ口を開けて、大きな呼吸を繰り返している。


 審判が綾乃の手を取り、高く挙げる。勝者の宣言である。綾乃はすぐに切るようにして審判の手を外して、サナの近くに寄り歩いた。眼光は未だ鋭い。

 横たわるサナを足元にして、冷然と見下ろす。唇はきつく締め、頬には強張りを感じさせる。


 ゆっくりとサナが身体を起こした。所々に肌が透け見えるほど雑に刈り上げた髪は、汗が浮いて光を弾いている。ただ色のないうつろな表情をしていた。瞳も光沢のない褪せた石のようであった。


 乾いた音が響いた。綾乃がサナの頬を打っていた。サナはされるがままに受けていた。痛みに顔を歪めることはない。ただ勢いに流されて、身体が傾いていた。


 綾乃は粗く息を吐いている。開いていた掌を閉じて、硬い握り拳を作っていた。唇もぐっと力んでいる。


 そして跪いて、サナを両腕で包み込むように抱きしめた。


「ごめんなさい」


 囁くように彼女はそう呟いた。


「ありがとう」


 サナも応えた。


「ごめんね」


 サナは綾乃の手に重ねるようにして触れ、白い指先からゆっくりと力を込めていく。

 綾乃は両目を閉じていた。サナの首筋に埋めるようにして表情を隠そうとしている。ただ頬を伝うものが、テツトからも確認できた。嗚咽まで耳に届いてきている。

 サナは両目を開いている。三白眼は色を滲ませていない。ただ緩慢にしばたたかせながら、微かに震えていた。


「今日のことは不問にしておいたる。オモシロいもん、観させてもらった」


 隣席から声が聞こえてきた。我妻興業の彫の深い顔の男からであった。

 男はそれを言ったきり、席を立って姿を消した。関係者控室へと向かったのだろう。


「ありがとうございます」


 姿は見えなかったが、それでもテツトはぼそりと礼の言葉を放っていた。


 先に立ち上がったのは綾乃だった。両手をサナの肩に置き、彼女の瞳をじっと見つめていた。潤んだ眼に紅潮した頬としていた。柔らかな白い一輪の花のようであった。近寄ることも許されない。サナと綾乃だけのガラスの領域があるようにテツトには写った。

しばらく見つめあい、綾乃が小さく頷いた。細い指先で、サナの頬をなぞるように触れていき、離れていった。サナはその指を名残惜しそうにして、頬に手を添えていた。

 綾乃が踵を返した。俯き加減にながら、長い黒髪を揺らしながら、自身の控所へと真っすぐに下がっていった。


「大丈夫か?」


 ようやくテツトが動いた。観客席からサナの元へと近づく。


「遅いよ。テット」


 サナの息遣いは未だ粗かった。腕を伸ばして、勝手にテツトの肩に乗せた。ぐいと力を込めて立ち上がろうとするので、テツトは慌てて介添えとして、踏ん張り、腰に手をやって補助をしてやる。


「寂しかったんだろうね。よかったよ」

「そうか。サナは?」

「私はほら――」


 ちらと視線を観客席に向けた。気づいたカエデが手を振って応えていた。ジュンヤもカメラを携えて、レンズを二人に向けていた。


「どうして判った」

「なんとなく。だから思い切りいけた」

「悔いは?」

「ないよ」


 ふうとサナは爽な息を吐いた。


「これからの不安だけだよ」

「そうか。なら、よかった」


 サナは光射す方へ視線を向けていた。眩さに目を細めて、空き手で庇を作って、それでも顔を向けていた。


「ありがとう」


 ぽんと肩を叩かれた。サナは独りで歩き始めていた。左右に身体を揺らし、足を引き摺るようにして進んで行く。


「大丈夫か?」

「大丈夫。これぐらい」


 手を振りながら控所へと向かっていく。


「早く帰って、ダッシュと大河を観るんだ。後のことは、その後で考える」

「そうか。そうだな」


 自然と、口端がつり上がっていくのが判る。苦笑いを浮かべて、テツトはサナを見送った。


――さあ、これから。


 テツトもため息を吐いた。眩暈にも似たくらみが視界をまわす。


「テットはん。エライことになったなあ」


 カエデが居た。テツトの身体を支えるように手を伸ばしていた。ジュンヤも側に居る。


「いい写真が撮れたけど、ちょっと激しいもんばかりになっとったよ」


 カメラの液晶画面に撮った写真を再生ながら、テツトに見せつけてきた。なるほど、綾乃とサナがともに抜き身の刃と成って技を仕掛け、攻撃を入れている最中の、その一瞬を納めていた。


「それは好かったよ。後で我妻興業に分けにいかな、いかんかな」


 軽口が漏れ出てきた。息を吐く度に落ちていく心地がある。


「サナちゃんも坊主になっとったけど」

「まあ、何とかするよ」


 首裏を掻きながら、そう返した。

 テツトの頭の中では、これからの算段はもう始まっていた。


 ジュンヤとカエデの二人には先に帰ってもらうことにした。カエデはサナに会っておきたいと粘っていたので、控所まで連れて行った。テツトは、控所には入らずに、武徳殿から離れていった。自転車をこいで去るジュンヤを見送ってから、京都武道センターの本館に戻った。


 我妻興業はすでに引き払っていた。その代わり、本館の受付から手紙を受け取った。綾乃の携帯電話の番号が記されていた。


 サナも、本館に来た。カーキ色のスカートにパーカーを羽織っている。フードで紙を隠しているが、面は出しているので、表情は見て取れる。瞳が赤くなっていたが、淡と落ち着いた印象を覚えた。


 テツトは黙って、手紙を渡した。サナは綾乃の電話番号をしばらく見つめてから、紙をくしゃくしゃに丸めて、ポケットの中に入れた。


「いいのか?」

「本人から聞くよ、直接。その方が良い」


 サナはそう言って、テツトの袖を引っ張った。彼女の足は本館の出口へと向かっていた。テツトはその腕を掴み直して引き止めた。まだ為すべきことがある。その意識が強くあった。


 テツトは改めて礼を述べまわり、各所へ頭を下げていった。


「これは明日からもしばらく続くからな」

「やらかしを了承したのは、テットじゃん」

「それでも一緒に謝りに行くんだよ」


 喧嘩じみた試合内容もさることながら、髪を無造作に刈り上げたことにも、相応の報いがあるだろうと計算している。殊に、美容室とカメラマンが何を言うか。想像するだけで嘆息が出てきた。


 審判からは小言を言われた。管轄局からも注意があった。――文書として追って沙汰するのと旨の言葉までついてきた。


 本館から出た。まだ日は高い。西の空にありながら燦々と照っている。ただアスファルトは黒濡れだった。試合の最中に通り雨が降っていたのだろう。シャツが貼りつくようなべったりとした空気の中で、吹き抜ける涼風が心地よかった。


南へ向かっていた。疏水に沿って歩いていた。武道センターではなく、岡崎公園のタクシー乗り場を目指していた。もう少し風を浴びたいとサナが言っていた。


「これからどうする?」


 両手に荷物を提げたテツトが、武道センターの門を潜り抜けて、先を歩くサナに声をかけた。

 サナはパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、振り返った。


「どうするもこうするもないよ。ここに居て、続けるよ」


 彼女ははっきりと答えた。


「言ったよね。綾乃に逢うことだけが目的じゃないって」

「そうやったかな」


 首を傾げさせながらテツトは返事をした。サナは唇を尖らせるような表情を作っていた。


「テットが手伝ってくれるんでしょ?」


 掠れたいつもの声である。ただ跳ねるような調子があった。

 テツトは足を止めて、サナを見つめた。


「そうやな」


――借金もあるし。


 喉元まで込み上がってきたが、口に出すのは堪えた。


「家に帰って、メシにしようや。今夜、何が食べたい?」


 気恥ずかしさもあった。適当に声をかけた。


「コロッケ。テットの手作りで」

「これからか。それは堪忍してくれや」


 時計を確認すれば十七時を回っていた。


――夏は未だ長い。


 テツトは少し早足になってサナの隣に並んだ。

 そして、これからも前を向いて歩くと決めた。

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