Act of Violence 7月-2-
晴れていた。ただ、東の空に薄く漂う灰色の雲が気になった。試合は雨天決行。そもそも武徳殿には立派な瓦敷きの屋根がある。
テツトは普段と同じように過ごした。試合はあくまで日常の延長線上として捉えて、特別との認識を敢えて排するようにすら心掛けていた。
殊に今日は、特別な日であってはならないと、意識は努めてあった。
洗濯物をまわして、朝食の準備を進める。
サナの部屋の前に立ち、扉を叩く。
反応はなかった。ただ扉越しでも、尖りを帯びた気迫が伝わってきた。テツトの背筋が伸びて、頬が強張っていた。
これは昨日からである。
彼女は和室に籠っていた。そして、誰にも近寄らせなかった。精神を研ぎ澄ませるためなのだろう。和室には桑嶋家の者、誰一人、ノックすらできなかった。
食事になっても、彼女は出てこなかった。しかし、和室の側に寄れば、拒絶の雰囲気を肌で覚えた。
いつでも食せるようにと、ラップに包んで、卓の上に置いておいた。その日、そのラップが剥がされることはなかった。
トイレと就寝の時はさすがに和室を出たようだ。後、風呂にも入っている。ただ、昨日は、先にテツトが入った。その時間まで、サナは和室に籠り続けていた。
いい加減、腹を空かせるだろうと考えるも、彼女の部屋には小型の冷蔵庫がある。そこに、プロテインバーやエナジードリンクを備蓄しているのを、テツトは知っている。
「十一時には玄関に来るんやぞ。タクシーを呼んどるからな」
扉向こうに居るサナに聞こえるようにと、大きな声を発していた。
階段を下りて、自分だけの食事の準備をする。冷蔵庫には昨日のサナの分が未だ残っている。手を出すことはしなかった。コーヒーにヨーグルトとバターを薄く塗ったトーストを一枚。寛ぐようにゆっくりと口に入れながら、朝刊を確認する。広告欄に誰がどうのように利用されているのか、地方面にだれか起用されていないかをチェックする。
管轄局へは昨日、テツト独りで伺っている。佐倉より、十二時から更衣室の使用の許可が下りたことを確認していている。テレビは録画として、深夜帯に放送されることが決まり、ネット中継とカメラが複数配置されてることも決まっていた。
テツトの睨んだ通り、話題性としても、手ごたえはあった。ネットニュースとしても、京都で女子高校生対決との見出しが記されている。管轄局も、武徳館周辺に、警備をつけると告げていた。
新聞の地方欄の隅に、本日の試合として、深宮綾乃対秋庭佐那と記されているのを確認する。いよいよであると、胸が高鳴るのが判った。
片づけを済まして、居間や縁側の掃除をする。洗濯物は万が一に備えて室内干しとした。
両親は、今日も出ている。今度は二人して博多へ向かった。最終の新幹線に乗って帰ってくると聞いている。
「中継は観させてもらうよ」
そう言って、父は出ていった。初めて聞く言葉だった。
「いってらっしゃい」
玄関先でそう言い見送り、しばらくしてから気がついた。不思議な高揚感が、じりじりと湧き上がってきたのをテツトは覚えた。
胸に校章が施されたシャツにスラックスと制服に着替え直す。カバンを手に取り、支度を整える。
自室を出て階段を下りていく、玄関先ではサナが居た。
カーキ色のスカートを羽織っているが、パーカーを羽織り、フードを深く被り、フロントジッパーも襟元奥まで上げて、表情を隠すようにしている。
「さあ、行こうよ」
掠れた声が、肌を剃り上げるようだった。ひりひりとするような鋭さをテツトは覚えた。テツトの瞳にもいよいよ苛烈な尖りが帯び始めていた。
まもなくタクシーがやって来た。サナは後部座席に座り、テツトは助手席に乗り込んだ。武道センターまでと告げると、運転手は小さく頷いて、ハンドルを切った。黙って運転をするので、テツトは感謝した。
ぎらぎらとしたサナの雰囲気は、移動中も研がれているようであり、ますます尖りを極めていくようだった。槍よりも針よりも、さらにさらにと、峻烈を以って、自ら追い込んでいる。
隣でハンドルを握る運転手は、眉間に皺を寄せた渋い顔を作っていた。
鴨川を越して、平安神宮近くを曲がる。岡崎公園の北西の一角に武道センターは設けられている。そこに裳階付きの切妻造の厳かな構えを見せる武徳殿があった。剣道や柔道の試合が行われているのはテツトは知っている。広告媒体の試合として利用されるのは極めて稀である。
武徳殿に入る前に、先ず事務所のある本館に入った。挨拶を済ませて、テツトは関係者控室へと向かう。サナは荷物を以って、武徳殿の更衣室へと向かっていった。
関係者控室にはすでに我妻興業の者が居た。彫の深い顔の男とガタイの硬そうな大男の二人である。茶髪の男は居なかった。
最終の打ち合わせとなる。ルールとの勝利者賞の確認となる。しかしこれは、散々行っていた。
三本勝負。綾乃は投げによる一本。サナは扇による一撃。先に二本を先取した者の勝利である。そして、審判が特に危険と判断しない限りはいかなる攻撃も許される。この一点をテツトは死守した。
勝利者賞はテツトが用意した。カエデの紹介から老舗和菓子屋の菓子折と西陣織羽織となった。ルール決めに置いて、我妻興業が難色を示したため、テツトがこれで丸め込んだ。
「ファイトマネーの足しか?」
「負けるつもりは、ありません」
毅然とそう返した。
「まあ、こういうガラだから、俺たちはここから観させてもらうよ」
「自分は、武徳殿で観させていただきます」
「勝手に行ってこい」
時計の針は十三時を越している。そろそろ、サナも更衣室から出て控所に居る頃合いだと図った。
本館から武徳殿へと繋ぐ渡り廊下を歩く。空模様は灰色と成っていた。雲の向こうに陽光は隠れてしまっている。鈍く滲んでいる箇所が見える。じっとりとした雨の匂いが風に流れて、鼻を突いてくる。
武徳殿の中にはすでに人が居た。最前列は埋まっている。その中に手を振る一行があった。カメラを携えているジュンヤと、カエデの姿であった。テツトは頭を下げて、控所へと向かった。南正面には固定カメラが三脚に乗っており、ケーブルを尻尾のように生やしたカメラマンが隅に陣取って、準備をしている。
赤い長羽織を頭から被ったサナが居た。右手にはバンテージを撒いて、用意された丸椅子に腰かけている。右の拳を開いたり閉じたりを繰り返している。
「話しかけないで」
顔を向けもしない。剃刀のような鋭い声で牽制された。
「このために、ここに来たのは、間違えないんだから。それを果たすよ」
言い終わるとともに、サナはゆらりと立ち上がった。
ちょうど呼び出しのスタッフが控所に顔を出した。
ちらとサナの三白眼がテツトに向けられた。テツトは口を噤んだまま、深く頷き、行けと指で合図を振った。サナも一つ頷いてから、スタッフの誘導に従って、控所から出ていった。
――怖い。
一昨日はそう言い、市瀬呉服商へ行っていた。
――何をするのか判らない。だから先に謝っておこうと思った。
帰路でそんなことも言っていた。そんなことは、この試合が終わった後に考えればいいと、テツトは割り切っている。
――これは戦い。
――戦うからには勝たなければならない。
関係者用として設けられた観戦スペースへ足を向けながら、テツトは表情を硬く強張らせていた。
べったりとした熱が籠っている。テツトはそう感じた。観客席はいっぱいとなった。ざわざわと葉擦れ音のように会場が騒がしかった。その中で、中腰でカメラを携える者もいる。
赤い長羽織を被ったサナと、黒地に紅白の花を散らせた被衣を頭から被った綾乃の二人が相対している。間に白黒のシャツを着た審判が、ルール確認をしている最中であった。
拳一つ分、サナの背が低い。見上げるようにして綾乃を睨んでいる。瞳は爛々と鋭角である。
ゆっくりと綾乃の手が伸びていく。試合前の握手のためだろう。サナの胸前で手を開いて差し出された。
サナはこれを拒んだ。
扇で綾乃の手を払い飛ばすと、左手でしたたかに綾乃の頬を叩き抜いた。そして、頬を押さえるためにわずかに下がった頭に向けて、扇を鉄槌の如く振り落とした。
乾いた音が、武徳殿に響いた。綾乃は頭を抑えて蹲っている。観客席からのざわめきは消えていた。皆の視線の先には、赤い長羽織を被ったサナがいる。
そして彼女は悠々とテツトの元へと歩んできた。
長羽織をすっと遊ばせることなく脱ぎ取った。
髪を短く刈りこんだサナが居た。
「これ、よろしく」
長羽織を投げるようにテツトに渡すと、それだけ言い残して踵を返した。
サナの背中には不撓の覇気が帯びているように、テツトは噛み締めながら、そう覚えていた。




