Act of Violence 7月-1-
頬を打たれた後も、その翌日も、テツトは学校に居た。澄ました顔で、窓の外を眺めて過ごす。考えるのは、日曜日の試合のことだけである。いつも通りに授業を受けて、いつもの通りに学食で昼をとり、放課後はサナの営業に出てから家路につく。
「よくまあ、平気やな」
「気にした処で、仕方ないやろう」
ジュンヤの言葉に、淡々と答える。
生徒の行き交う廊下でナツミに打たれた。またたく間に学校中に広まった。ざわつく校内は苛立つほど騒がしく、幾度か舌を打っていた。しかし、それ以上の反応は示さなかった。
一度だけテツトは教師に呼び出しを喰らった。何があったかを問われ、百万円で婚約を破棄する約束をしたとだけ答えた。それ以上は応えなかった。
当然の反応であると、テツトは割り切っている。むしろ、これで済んだことに感謝していた。ふと頬に手を添えれば、痛みが疼くように戻ってくる。同時に、眼を赤く潤ませたナツミの顔が脳裏を過った。頭を振って、時には強かに額を叩いて忘れようと努めた。
そして、ナツミの姿を探すことも、何することもしない。もう過ぎたこと、自分の意志で捨てたこと。そう心で断つことを、あの和室で決めた。だから言い訳も謝ることもしない。
「難儀なヤツや」
呆れ口調でジュンヤがこぼす。テツトも自嘲気味に唇を釣り上げた。
借金については両親の耳にもすぐに届いた。秀幸は深いため息を吐き、雪江は眉根を寄せていた。自分が蒔いた種は自分で片付けろよ、そう重い口調で言われた。無論そのつもりと、テツトは返すと、ならいいと、それで話は終わっている。両親からの手助けは、案の定、ない。それでいい。それがいい、とテツトは胸の内で頷いた。
――自分の意志で、信用も魂もカネにしたのだ。カネで取り返してみせる。
そう強く抱いていた。自らの意志で扉を開いたのだと、厳しく言い聞かせて、正面を向いての直進を決め込む。それがテツトにとっての覚悟でもあった。
「まあ、お芝居と同じように、人生にも上手な人と下手な人がいるそうだ」
「オレはお前に賭けているんだから、下手であっちゃ困るんやけどなあ」
「下手でも外れとは限らんよ」
「ほう、口はデカいんだな」
「アタリとも、よう言わんけどな」
机を支えにして身体を起こす。放課後と成っている。いつものように寄るべき処に顔を出して、家に帰る。綾乃との試合は明後日である。
「武徳殿やな。カメラ持って楽しみにしとる」
「まあ、何が出るか。自分も判らん。ただ押さえておいてくれ」
「動画編集は次から有料やからな」
「判っとるよ。もちろん」
今日もサナからメッセージは届いていない。夕飯には帰ってきて、向かい合って食事をとるのは決まっているので、特に気にしなかった。カバンを持って教室から出ていく。ジュンヤはこれから補修講義への出席が決まっていた。期末試験の結果が悪かったらしい。テツトは全て平均点を越えている。特に苦はなかった。試験よりも百万円を作る方が遥かに難問であった。
「徹夜はするもんやないな」
ジュンヤのそんな呟きが聞こえてきていた。
夏至は過ぎている。しかし、日は長い。外に出ても、陽は西の空高くに輝いている。貼りつくような暑さに、稀に吹く風が心地よい。
川端沿いを歩く。鴨川に設けられた川床にはすでに飲み始めている白いシャツ姿の男女がちらちらと見えた。土手に男女のカップルが等間隔に腰を掛けてお喋りをしているのも観られる。
街路樹は青々と繁り、風に合わせて葉を擦らせてさわさわと音を立てる。
京都管轄局へ向かっていた。試合に関しての最後の確認として、訪ねるつもりだった。テレビ中継が入るのか、ネット放送は何時からスタートされるのか。更衣室は何時から使えるのか、そのあたりのことは前日に管轄局の佐倉から教えてもらうのが常であった。
スマホが鳴った。メッセ―ジのアイコンが記されている。カエデからの発信だった。
――今、サナちゃんがウチに来ているけど、ちょっと来て。
焦っているのか、らしくないメッセージであると、テツトは首を捻った。
――すぐに行く、サナをそこで留めておいてくれ。
そう返信しておいた。早足になって四条大橋を渡り、管轄局の前を通り過ぎていく。確認は前日準備を予定していた明日にと、回すことにした。
込み合う四条通を縫うようにひた歩き、烏丸通を超していく。祭りの後というのに通りはごった返している。キャリーケースを引き摺る観光客に、横並びの男女、ふらふらと予測のつかない幼児もいる。その度に足首を捻らせて角度を変えて、身を窄めて通り抜かしていく。流れに合わせて歩いていては時間がかかり過ぎると、急いていた。この頃には息が上がっていたが、それでも早くつくようにと足を進める。カエデのメッセージからいい印象はない。時間がかかればかかるほど、拗れていく。そう思えてならなかった。
――何のために、夏までに仕掛けたんだか。
熱とともに苛立ちが籠り、テツトは舌を打っていた。
頭の片隅では、夜のことを思い出していた。用をたしに深夜に廊下を歩いていると、サナの部屋から低く軋むような唸り声が、ほんの僅かであったが聞こえていた。
新町通を北へ向かい、瓦敷きの屋根である市瀬呉服商の暖簾をくぐる。
「テットはん、よかった。よう来てくれた」
カエデが玄関先に飛び出してテツトを迎えた。案内されるまでもなく、サナはすぐに見つけられた。客人用として玄関隅に設けられたイスにうずくまるようにして座っていた。眉間に皺をよせ、三白眼を尖らせて、しかしその瞳は震えているようであった。唇も僅かに開き、頬が強張っているようでもない。
「帰りは別々やったんやけど、急に来てな。ごめんなさいって」
カエデからそんな説明を受けた。
「そうか。まあ、大事な試合前でナーバスになっとるのかもしれんな。心配かけてすまんかった」
「サナちゃんのことや。私は大丈夫だけど。サナちゃんが心配や」
「自分が見とく。迷惑かけて、すまなかった」
カエデと奥に控えているカエデの母に向けて、テツトは深く頭を下げた。
それから、サナの側に寄り、膝をついて、彼女を見上げる姿勢をとった。
「どうした。帰るぞ」
そう一言、声をかける。サナは動かなかった。目も合わせようとしない。手に触れてみれば、力を入れ過ぎて、硬直したのが伺い知れた。
「怖い」
か細い声だった。テツトにやっと聞こえる程度の言葉がサナの口から出ていた。
「お前もか」
テツトはそう返した。
「テツトもそうなのか」
「自分もそうだ。綾乃もそうだ」
首が動いた。サナの瞳がテツトの目を刺した。
「一度だけ遭った。試合をしたくないと言っていた」
「そう」
「それでも組んだ」
百万円を我妻興業にもっていった際、事務所を仕切っている彫の深い顔の男は口端を釣り上げて笑んでいた。
――これで一つのケジメがつけられるやろう。
――ケジメ、ですか。綾乃さんの。
――せや。綾乃はこっちで追い込んどく。そっちはそっちで準備しとけ。
男は確かにそう言っていた。綾乃がサナとの試合を渋っているのは、六月に管轄局であった際に、直接的に言われている。
「ほら、帰ろう、取り敢えず。試合の後の心配は、試合の後にすればええ。泥はいくらでも被る。悔いだけは残すな。それだけや」
肩に腕を挿し込み、強引に立たせた。サナは抗わなかった。テツトの動きに合わせて、膝を伸ばして、歩みも揃えた。
「お世話かけました。申し訳ございませんでした」
もう一度だけ、市瀬呉服商に向けてテツトは頭を下げた。サナも合わせるように頭を垂らした。
「なあ、サナちゃん。私はサナちゃんが好きや。だから、できる限り力になる。それじゃあ、ダメか」
カエデの声が響いた。サナはゆっくりと頭を横に振った。
「十分だよ。十分すぎるよ。ありがとう」
小さな声だった。しかしそれでもカエデに届く意志の強さはあった。
踵を返して、市瀬呉服商を出ていく。
空は赤く染まっていた。テツトはサナに肩を貸したまま、地下鉄の駅を目指して北上していく。
「だから、怖いんだ。終わってしまいそうで」
サナの呟きが聞こえてきた。
「終わりやしないよ。絶対に」
テツトは強く応えた。サナがテツトの表情を覗き込むように面上げた。
「終わるんやない。やっと始まるんや。だから存分にやれ」
そう言い切り、テツトはサナの瞳を睨んだ。彼女の震えていた三白眼が、熾火のように赤白さを膨らませていくのが見えた。




