剥ぎ纏う刻 7月-1-
薄い雲が空を覆っている。洗濯物を外に干すのは難しかろうと、テツトは自室の窓より眺め見ていた。机の上には、茶碗を納めた木箱と掛け軸を一つ、置いている。呼吸を整えて、冷静さを自身の胸に言い聞かせた。
片桐禎和に送った手紙から、返事が届いたのが三日前。彼も直筆の便箋で送ってきた。几帳面な文字で、了承の旨の返事が記されていた。根拠はなかったが、テツトにはその返事が得られる確信を持っていた。
サナは市瀬呉服商へ撮影の予定が入っている。テツトがカエデに頼って、そう仕組んでいた。父秀幸は、東京のオークションへ出かけており、母雪江は富山の顧客へ骨董を届けに出ている。二人とも帰りは遅くなると聞いている。
服装は制服を選んだ。アイロンをかけて、襟も袖も平らかに整わせ、折り目が出ているものを選んだ。軽く掃除を済ませていると、時刻は十時を過ぎようとしていた。鏡の前に立ち、髪型や髭の具合を改めて確認する。早朝一番に処理をしていた。そして、顔に冷水を浴びせるようにかけて、両手で頬を思い切り打ち叩いた。ひりつく感覚とともに、ヨシと大声を放った。
あまりよく眠れなかった。しかし疲れは覚えなかった。胸の鼓動が早くも高鳴っている。ゆっくりとした深呼吸を繰り返す。神経を研ぐように、意思を尖らせることを意識していた。
しばらくして、片桐禎和が現れた。グレーのスーツにネイビーネクタイを締めていた。髭もさざっぱりと整えられており、髪はオールバックに固めている。眼差しが刃物のように鋭かった。テツトの背筋がさっそくと緊する。おくびにも出さぬよう気を引き締める。
「本日はお招きいただき、誠に有難うございます」
そう言いながら、手持っていた紙袋を差し出す。
「こちら、詰まらないものですが、何卒よろしくお願い致します」
「わざわざ申し訳ございません。どうぞこちらへ」
紙袋を受け取り、禎和を中へと案内する。
廊下を歩き、縁側を抜けて、和室へと通した。
「こちらでしばしお待ちください」
香を焚いた和室に、禎和は扇子を片手に入っていく。能のような形式を覚えさせる美しい体配で床の間側に設けられた上座へと進んで行った。
――戦いはもう始まっている。
足音を立てぬように、しかし速足となって廊下を戻っていく。
挑んだことはない。父に連れられて見よう見真似で受けたことがあるだけである。
しかし、これしかないとテツトは妄執に近い思考に捕らわれていた。
片桐ホールディングスには数度、訪れている。サナは隔週で、片桐ホールディングスが運営しているジムのインストラクターとして呼ばれていた。これも広告媒体としての勤めであり、毎月五万円の契約に含まれる業務であった。
社として、試合にはカネは出せない、というのが返答だった。サナを広告媒体として起用しているものの、総務経理部からは結果と利益貢献の相関が確かではないとして、かなり渋い顔をされているとテツトは聞いている。禎和の一存により、広告媒体としての契約はできたが、そこから先は会社を衛る力が強く働いていた。
茶釜や茶入れ、茶杓については、父から自由に使っていいと言われているもので間に合わせている。茶碗と軸だけはテツトが選んだ。
「お待たせいたしました」
戸を開いて、深く礼をする。禎和は上座で居を正しくしている。ただ視線は、床の間の掛け軸へと向けられていた。
「手紙までして、物々しいと思うとったら、ね」
禎和は掛け軸を見つめながら、呟くようにそう言った。『狂人走、不狂人走』と記されている。テツト自身が選んだ掛け軸である。意図を読み取ったのだろう。
「清巌禅師の言葉か。これ、ホンモノか」
「いえ、父は怪しいと仰っていました」
「贋作でも、これを掛けたかったってことか」
「はい」
テツトは重く頷いた。ふんと禎和の鼻笑いが聞こえてきた。テツトは表情を緩めずに受け止めた。
禎和の姿勢が丸みを帯びたような雰囲気をわき目で捉えながらも、テツトは口を締め、頬に次力を入れて、茶に向かう。
「何もここまで仰々しく構えんでもええのに」
「性分なもので」
「難儀なヤツやな」
「すみません」
茶釜の湯を確かめながら、蓋置や茶入り、茶杓茶筅の位置を検めておく。顔は茶道具へ向けながらも、意識は禎和へ払う。
「お前、茶道習っとるんか?」
「いえ。それに茶会のお誘いではありませんので」
「それもそうやな。とはいえ、遊びにしてはエッジが利きすぎている。持て成されている気がせえへんな。心が休まらなん」
言いながら禎和は扇子を開いて、小さくあおいだ。テツトは更に奥歯を噛み締めた。肌には剃られヒリヒリするような感が走っている。四条烏丸のテナントや、岩倉の片桐邸で顔を合わせている禎和とは、やはり雰囲気が違う。鋭利であり、気が張り詰めている。余計な音は死に落ち、禎和の佇まいと睨みが、テツトの一挙手一投足を、隙を漏らさぬよう伺っている。
テツトも神経を尖らせた。反芻させてから挙動をとる。震えは起こっている。意志の力だけではどうしようもない緊張感が心を絞るよう。その時は、内頬を千切れんばかりに噛んだ。努めて冷静たれと念じた。
茶入を開けて、茶杓を有する。茶碗は、テツトの継ぎはぎだらけの志野茶碗である。禎和から送られる視線は軽いが針のようであった。
「で、要件を訊こうやないか」
「そうですね」
「まあ、おおよその話を訊いているし、予想もついている」
茶筅で点て終える。濃緑の茶が椀の中に納まっている。テツトは両手でこれを包み持ち、禎和の前に差し出した。
「これを担保に七十五万円ほど、お貸し願いたい」
テツトは禎和の眼をがんと睨み据えて、単刀直入に言い放った。
「高校卒業までに百万にして返します。何卒よろしくお願い致します」
ゆっくりと確実な口調を以ってテツトは言い、畳に両手を着けて、腰を折って、深く頭を下げた。
「そうか」
つぶやきが聞こえる。茶碗が引き取られた気配はない。禎和は姿勢をまっすぐに正したまま動く様子が感じられない。ちょうど見下ろすような格好になっていると、テツトは俯瞰した。
「どうしてそこまで焦るんや。お前とサナちゃんの腕なら一年辛抱すれば、七十五万円は貯められるんちゃうか」
「――夏までに越さなければ、このまま行きましょう。そのままおめおめと続くぐらいなら、いっそ仕掛けます」
「待てば海路の日和あり」
「陽光の昇降ありて波は立ちぬ。常夜の死に凪に風は期待できません」
「さよか」
つまらそうな返事だった。そして、禎和の手がようやく、茶碗に触れた。徐に、自身の手元へと茶碗を導していく。
「これを八十万ね」
テツトは面を上げない。畳の目の合間を睨むようにして、禎和の言葉を待った。あくまで、片桐ホールディングスではなく、片桐禎和としておカネを出してもらう。そのためにテツトは勝負を賭けていた。
「なるほど、触りは良い。手持っていて落ち着く。志野も桃山くらいはありそうやな。呼び継ぎも志野も同じくらいやろう。コロなりは申し分ない」
禎和はそう言いながら、茶碗を戻した。すっと、テツトの頬の近くに寄せるように腕を伸ばしすらした。
「でも、ぼり過ぎや。いくら何でも信用ならんな。相場は十万に届けば御の字。おまけをつけて十五やな」
「――それでは」
「足らんのやろう。残りの工面はできとんのか」
「できています」
噛み締めるように言った。帳簿から捻出した十万円に、ジュンヤの動画から七万円ほど積まれていた。しかしながら、カエデのツテからも、おおよそすべての処に声掛けが終わっている。動画からの募金もアップロードされてまもなく一か月が経とうとしている中であり、これ以上の伸びは期待できなかった。
残りは自身の懐から、それこそ片桐邸で料理をふるまった時の御礼で補填する。その額で二十五万となる。
「ならもう一つ担保を貰おう。ナツミとの婚約や。高校卒業で、家に入れ」
「はあ!?」
思わず、顔を上げていた。脚を崩した片桐禎和が居た。口角を釣り上げほくそ笑む姿で控えている。
「それは、ナツミお嬢さんの意志が」
「アイツはお前のことを悪いとは思っていないよ。そして、俺もお前を気に入っとる。いつか言ったろう、娘をどうだって」
「それはお戯れでしょう」
「お前らを見ているとじれったいんやな。こうでもすれば、動くやろう」
「そら、動くでしょうけど」
瞳が揺れている。視界が回っている。理解が追いついていない。それでも口は勝手に動いていた。ただにやつく禎和の顔だけが把握できている。
「それに、返すんだろう。百万円にして」
「勿論です!」
禎和の言葉を覆いかぶせるようにして、テツトは言い切った。
「なら決まりや。この条件を飲むなら、この場で七十五万を出そう。それ以外なら、堅実にためることやな」
下唇を噛んだ。歯を破れんばかりに突き刺す。顔を俯かせて、畳の目をじっと見つめる。頭はまるで動かない。
まばたきを忘れて見つめている内に、サナの姿がよぎった。紺のスカートに赤いタイを襟もとで締めている。鉄格子の向こう側。赤に染まった空を厳しい眼差しで睨むサナの姿だった。
「どうして、そこまで自分を買ってくれるのでしょうか」
頭で思うより先に、肺腑から込み上がってきた言葉がそのまま口から出てきていた。
「そら、テツト君が碧山堂の息子だからや」
――父秀幸と母雪江の信用があるから、買われているに過ぎない。
――自分が買われているのではない。
血の気が引いていく。眩暈がするような寒気を覚えた。じりじりと目頭が震え滲んでくる。
――畢竟、自分は。
両手で拳を作った。強く強く握りしめた。
「判りました。その条件でお願いいたします」
震える声でそう絞り出した。そして、毅とした眼差しを禎和に向けた。
「そして婚約破棄のため、耳を揃えて、必ず、可能な限り早く、お返しいたします」
そう言い切った。
禎和は一瞬だけ目を丸くさせたが、ほくそ笑みを携えたまま、改めて手を伸ばして茶碗を引き寄せた。
「決まりやな。よろしく頼むよ」
そう言いながら、ようやく茶を一口啜った。
「ありがとうございます」
テツトは深々と頭を下げて礼を述べた。同時に、ぼろぼろと瞳から零れるものがあった。熱いのか冷たいのか、テツトには判らなかった。ただ、禎和のため息が微かに聞こえてきた。示唆する意味をテツトは今は考えないことにした。
正午にはお開きとなった。禎和は言葉通り、七十五万円をテツトに渡した。
その日のうちにテツトは動いた。
百万円の束にして、我妻興業へ赴き、京都管轄局で日取り場所を押さえた。
――七月末の日曜日。武徳殿。
申し分のない場所となった。
翌朝、鴨東高校へ通学する。廊下でナツミと会った。赤い眼が潤んでいるように見えた。
「最低!」
その言葉とともに、テツトは強かに頬を打たれた。




