第10章 不幸なお姫様だわ、私。一睡もしなかったらしい。
朝が来た。
山の朝だ。
鳥の声がした。
昨日とは違う鳥の声だ。
私は少し、眠れなかった。
少しだけ。
……少しだけよ。
心の中で、素の声が言い訳をした。
焼き菓子のせいだ。
おいしすぎたせいだ。
プロポーズのせいでは、断じてない。
「姫様、朝食の用意が整いました」
レックが戸を叩いた。
「わかった」
食堂に向かうと、レックが待っていた。
いつも通りの真顔だった。
「お顔の色が、昨日より優れないようですが」
「……気のせいだ」
「左様でございますか」
レックは少し間を置いた。
咳払いをした。
一つだけ。
「殿下も、同様でございます」
私は固まった。
「……同様?」
「はい」
「どういう意味だ」
「昨夜、一睡もされなかったようで」
ち、ちょっと待って。
心の中で、素の声が騒いだ。
一睡も?
プロポーズして、廊下で、一睡も?
「……なぜ」
「姫様のお返事が気になって眠れなかったのではないかと、私めは推察しております」
「推察するな」
「申し訳ございません」
「黙れ」
「はい」
レックは黙った。
三秒だけ。
「姫様」
「何だ」
「本日、ニーゲルスに着きます」
「知っている」
「殿下は、姫様のお気持ちのままに、と」
「知っている」
「返事も、急かさないと」
「知って——」
私は止まった。
「……殿下が、そう言ったのか」
「はい。今朝方、目の下に隈を作りながら仰っておりました」
目の下に、隈を。
一睡もしないで。
それでも、急かさない、と。
……なんなのよもう。
心の中で、素の声が静かになった。
私は朝食を食べた。
味は、よかった。
三ヶ月前から準備された味が。
今日も、よかった。
出発の時、レオスが馬を並べてきた。
目の下に、うっすら隈があった。
本当に、一睡もしなかったのか。
「ニア」
「……ハルニアだ」
「今日、王都に着く」
「知っている」
「気が済むまで、付き合う」
「……城を狩っても構わないのか」
「構わない」
レオスは真顔だった。
隈があるのに、真顔だった。
「……返事は」
私は前を向いたまま言った。
「王都で、する」
レオスは何も言わなかった。
ただ、隣を走り続けた。
急かさなかった。
ずっと、隣にいた。
山を下りた。
平野に出た。
遠くに、城が見えた。
ヴァルハラの城だ。
ニーゲルスの城だ。
私が生まれた城だ。
端っこで育った城だ。
捨てられた城だ。
「……見えてきたわね」
心の中ではなく、声に出た。
素の口調で、出た。
レオスが少し顔を向けた。
何も言わなかった。
ただ、微かに笑った。
不幸なお姫様だわ、私。
一睡もしなかった男が、
隣を走っている。
返事を、まだしていない。
でも。
王都が、見えてきた。




