第2話:交戦規定(ROE)と誤射のジレンマ
開かれた黒鉄の扉の奥から現れたのは、悪夢を具現化したかのような異形の巨獣だった。
体高は優に五メートルを超え、四本ある屈強な腕には岩石のような分厚い鱗がびっしりと生え揃っている。その眼球は血のように赤く濁り、口の端からは濃硫酸のように床を溶かす涎が滴り落ちていた。
「な、なんだこいつは……! ギルドの事前情報じゃ、ただの『オーガの変異体』だって話だったじゃねえか!」
前衛で大剣を構えたガレルが、思わず数歩後ずさりながら悪態をつく。
彼の言う通り、これは通常の第30階層に出現するような魔物ではない。その異常な質量の魔力反応と、周囲の空気を歪めるほどのプレッシャーは、あきらかにより深い階層から迷い込んできた『イレギュラー』だった。
「ひぃっ……! ガレル、早くなんとかしなさいよ! あたしに近づけないで!」
後衛のミレナが、杖を持つ手を震わせながら金切り声を上げる。
彼女の甲高い声に反応したのか、巨獣が鼓膜を破らんばかりの咆哮を上げた。それだけで発生した強烈な衝撃波が広間を吹き荒れ、壁面の松明が次々と吹き飛んでいく。
「チッ、ビビるんじゃねえ! 相手がデカかろうが、俺たち『紅蓮の剣』の敵じゃねえ! 俺の力を見せつける最高の舞台じゃねえか!」
ガレルは恐怖を無理やり虚勢で塗りつぶし、大剣に炎の魔力をエンチャントして突撃を開始した。
それに続くように、斥候職のリックも双剣を抜いて巨獣の側面に回り込もうとする。ミレナは安全な最後方から、詠唱の長い炎魔法の準備を始めた。
一見すれば、勇猛果敢なS級パーティの総攻撃。
だが、後方の暗がりに身を潜め、完全に気配を絶っている俺――一条誠から見れば、それは「自殺志願者の無計画な特攻」にしか見えなかった。
(……馬鹿か。相手のリーチも装甲の厚さも測らずに、真正面から突っ込む奴があるか)
ガレルの炎を纏った大剣が、巨獣の右腕に叩き込まれる。
凄まじい火花と爆炎が散るが――煙が晴れた後には、巨獣の分厚い鱗にほんの僅かな傷がついただけだった。
「なっ……俺の渾身の一撃が、弾かれただと!?」
「ガレル、邪魔よ! 『爆炎球』!」
ガレルが体勢を崩した直後、ミレナの放った巨大な火球が巨獣に着弾する。
轟音と共に広間が炎に包まれるが、ミレナの魔法は威力ばかりが高く、まったく「指向性」がない。爆風は四方八方に拡散し、あろうことか前衛のガレルとリックまでその余波で吹き飛ばされてしまった。
「ぐはっ!? ミレナ、てめぇどこ撃ってんだ!」
「あんたが避けられないのが悪いのよ!」
味方同士で怒鳴り合うS級パーティ。巨獣は痒いところを掻かれた程度にしか感じていないようで、悠然と首を鳴らしながらガレルたちを見下ろしている。
しかし、俺のARウィンドウに流れる配信のコメント欄は、現場の絶望的な状況とは裏腹に、異常なまでの盛り上がりを見せていた。
『ガレルさんカッケー! 炎の剣士マジ最高!』
『ミレナちゃんの魔法のエフェクト神!』
『相手デカいけど、紅蓮の剣なら余裕っしょww』
『あれだけ攻撃食らったら、そろそろボスも倒れるだろ!』
彼らは安全なモニターの向こう側から、派手なエフェクトだけを見て「勝っている」と錯覚しているのだ。巨獣の体力がミリ単位でしか削れていないことなど、誰も気づいていない。
そして、視聴者の無責任な矛先は、必然的に「画面の端で何もしていない男」へと向かい始める。
『てか、あのおっさんポーター、マジで突っ立ってるだけじゃん』
『荷物守るのが仕事とはいえ、ポーション投げるくらいしろよ』
『完全に腰抜かしてるww無能すぎワロタww』
『ガレルさんが命懸けで戦ってんのに、ただ見てるだけとかクズじゃん』
無能、役立たず、給料泥棒。
滝のように流れる罵詈雑言の嵐。だが、俺の心は波一つ立たない。プロとして、他者の感情的なノイズなどとうの昔に遮断しているからだ。
俺が注視しているのは、コメント欄ではなく、アイリスがAR上に投影している「戦術データ」の推移だった。
『マスター。対象の生体装甲の強度を再計算。前衛ガレルの物理攻撃、および後衛ミレナの魔法攻撃による突破確率は、現時点で「0.03%」未満です』
(だろうな。あれはただの硬い肉じゃない。魔力による強固な防壁を多重展開している。あんな適当な攻撃じゃ、一生傷ひとつつけられない)
俺は右手にはめた漆黒のグローブの指先を、微かに動かした。
脳内だけでシステムにアクセスし、自身が顕現可能な『手札』のリストを展開する。
(アイリス。対象の防壁を貫通可能な最低火力を算出せよ)
『了解。対象の装甲を貫徹するには、最低でも「口径12.7ミリ以上の徹甲弾(AP)」、もしくは「指向性爆薬」クラスの運動エネルギーが必要です。しかし――』
アイリスの声が、咎めるように一段トーンを下げた。
『現在の陣形での使用は、交戦規定(ROE)第一項「非戦闘員および味方への危害防止」に抵触します』
俺の視界に、幾重もの赤い警告アラートが浮かび上がる。
巨獣の周囲には、無策で突っ込んだガレルとリックが文字通り「張り付いて」いる状態だ。
(……わかっている。もし俺がこの位置から『徹甲弾』を撃てば、巨獣の装甲を貫通した後、射線上にいる後衛のミレナを肉片に変えてしまう。かといって、範囲制圧用の『榴弾』を放てば……)
『はい。爆風の有効殺傷半径内にガレルとリックが完全に含まれています。対象を排除するのと同時に、味方も消し飛びます。生存確率はゼロです』
これが、俺が武器を抜けない最大の理由だ。
俺の顕現させる兵器は、単一の標的を小突くような都合の良い魔法ではない。圧倒的な質量と物理法則の暴力で、空間ごと「更地」にするための破壊の権化だ。
前衛が敵と密着して泥臭い乱戦を繰り広げている今の状況下で、俺にできる援護射撃など存在しない。
俺が攻撃に参加するということは、すなわち「S級パーティごとミンチにする」ということと同義なのだ。
「おい、クソポーター! そこでボーっと見てんじゃねえ! 俺の気を引くために、少しは囮くらいになりやがれ!」
息を切らし、巨獣の攻撃から逃げ回るガレルが、血走った目で俺を怒鳴りつけた。
自身の手におえない状況に対する八つ当たりだ。視聴者の手前、彼らに「撤退」という選択肢はないらしい。
『おいおいガレルさん、あんな無能に期待すんなってww』
『囮にすらなれねーよあのおっさん』
『さっさとクビにしろ!』
視界を埋め尽くす赤い警告アラートと、罵倒のコメント。
俺はただ、息を殺してその場に立ち尽くすことしかできない。俺が動けば、彼らは死ぬ。俺が動かなくとも、このままではいずれ全滅する。
最悪のジレンマの中、戦況は急速に致命的なフェーズへと移行しつつあった。
『マスター。対象の体内に、異常な魔力パルスの蓄積を検知』
アイリスの警告と同時だった。
巨獣の赤い眼球が、不気味な紫色の光を放ち始めた。その四本の腕が大きく振り上げられ、周囲の魔素が竜巻のように巨獣の口元へと収束していく。
それは明らかな、広範囲殲滅攻撃の予備動作だった。
「な、なんだあの光……!?」
「ま、待って! あんなの聞いてない! 防御魔法なんて間に合わないわよ!」
ガレルとミレナが、ようやく事の重大さに気づき、絶望に顔を歪める。
しかし、遅すぎる。すでに致死量のエネルギー充填は完了間近だった。
『警告。超高密度の範囲魔力攻撃が来ます。現在の「紅蓮の剣」の防御力では防ぐことは不可能です。彼らの生存率、現時点で「3%」を割りました』
アイリスの無機質な宣告が脳内に響く。
巨獣の喉の奥で、紫色の絶望が圧倒的な熱量を持って渦巻いていた。
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次回お楽しみに。




