第八十八話 最後の願い、その瞳は怪物ではなく
私は体を引きずりながら、少しずつ戦場へ近づいていた。
足は重い、全身が痛い。
それでも止まれない。
ケンジさんの姿を見失わないように、必死に前へ進む。
その時だった。
「……なぁ、ケンジ」
声が聞こえた。
ギャンだ。
血だらけのまま立つ男。
剣を握り締めながら、ケンジさんを見ている。
「お前はエーテルディアを壊した」
低い声だった。
「ドナルドと、マスターの命を奪った……」
怒り、悲しみ、後悔。
色んな感情が混ざった声。
「他にも多くの人達を殺した。今度は王都まで壊した」
周囲を見れば分かる、燃える街。
瓦礫、死体、泣き声。
地獄だ。全部、私たちが作った地獄だった。
隣の大柄な女も、険しい顔でケンジさんを睨んでいる。ああ、怒っているんだ。
当然だ。
家族を失ったかもしれない。
仲間を失ったかもしれない。
あんな顔になるのも当たり前だ。
なのに、ギャンは続けた。
「でも……でもよォ……」
私は思わず顔を上げた。
何だろう、その声は。
どうしてそんな声を出すの。
どうしてそんなに苦しそうなの。
ギャンは唇を噛み締めた。
そして。
「俺は……お前を殺したくなくなってんだ」
その言葉に、私の足が止まった。
「……え?」
理解できなかった。
何を言っているの。
だって、お前たちは敵だろう。
ずっと戦ってきたんだろう。
仲間を殺されて、街を壊されて、滅茶苦茶にされて。
それなのに、どうして?
どうしてそんな顔をするの?
私はギャンを見た。
その男の頬を、一筋の涙が伝っていた。
「…………」
泣いていた。
あの男は、泣いていた。
憎い相手を前にして。
倒さなければならない敵を前にして。
苦しそうに、泣いていた。
私には分からない。
何が見えているのか。
何を知ったのか。
何を思ったのか。
でも、ただ一つだけ分かった。
ギャンは今、四天王ケンジを見ていない。
その向こうにいる誰かを見ている。
怪物ではない。
悪人でもない。
もっと別の何かを。
まるで、救えなかった友達を見るみたいな目で。
「…………」
私は視線をずらした。
そこには大盾を持った女。
おそらく、アリシアの忠臣。
きっと誰よりも怒っているはずの女。
「私は許しません」
静かに言った。
その声には迷いがなかった。
私は少しだけ安心した。
そうだ、それが普通だ。
それが正しい。
ケンジさんは許されない。
私だって分かっている。
「大切な王都を壊した、アリシア様を傷付けた。あなたがやったことは絶対に許されない」
そうだ、その通りだ。私もそう思う。
ケンジさんは沢山の人を殺した。
取り返しのつかないことをした。
許されるはずがない。
なのに。
「…………」
私は違和感を覚えた。
何かがおかしい。
声は怒っている。
確かに怒っている。
でも、それだけじゃない。
私は目を凝らした。
そして気付いた。
「あ……」
思わず声が漏れた。
彼女の頬を、一筋の涙が流れていた。
私は目を見開いた。
どうして?どうして泣いているの。
あなたは被害者側だろう。
怒る側だろう。
憎む側だろう。
ケンジさんを倒す理由なんて山ほどあるだろう。
なのに、どうして?どうしてそんな顔をしているの。
私は分からなかった。
ギャンの気持ちも。
盾の女の気持ちも。
分からない、本当に分からない。
だって私は知っている。私達がどれだけ酷いことをしてきたか。
それなのに、目の前の二人は。
まるで怪物を見る目をしていなかった。
化け物を見る目じゃない。
悪人を見る目じゃない。
もっと別の何かを見る目だった。
「……何なの」
声が震える。
「何なんだよ、お前ら……」
分からない。
本当に分からない。
許せないと言いながら泣く女も。
殺したくないと言いながら泣く男も。
何一つ理解できない。だけど、それでも、私は一つだけ気付いてしまった。
ギャンも、盾の女も。誰一人として、今のケンジさんを怪物として見ていない。
彼らが見ているのは、人だった。
救われなかった一人の人間を。
まるで見送るみたいな目で見ていた。
だから私は、余計に分からなくなった。
どうして?どうして二人とも――
泣いているの?
「…………」
ふいに、ケンジさんの視線が動いた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
その目が私を見つけた。
「あ……」
目が合った。
血だらけの顔。
ボロボロの体。
もう立っていることすら奇跡みたいな姿。
それでも、その顔は少しだけ穏やかだった。
「サトコ……」
かすれた声。
私は慌てて前へ出ようとした。
だけど足が動かない。
痛みじゃない。
嫌な予感がしていた。
胸の奥が警鐘を鳴らしていた。
やめて。
やめてください。
そんな顔をするな。
そんな声を出すな。
まるで、別れの挨拶みたいじゃないか。
ケンジさんはギャン達へ視線を向けた。
そして。
「お前ら……」
小さく笑った。
「一つだけ……頼みがある」
誰も口を挟まない。
ただ聞いていた。
「サトコを……許してやってくれないか」
世界が止まった気がした。
「……え」
何を言っているの?
何で?何で今そんな話をするんだ。
「こいつは……悪くねぇ。俺に巻き込まれただけだ」
違う、違う。
そんなことない。
私は自分で選んだ。
自分でここまで来た。
勝手に決めるな。
「だから……」
ケンジさんは笑った。
本当に、馬鹿みたいに優しく。
「生きていいって……言ってやってくれ」
やめて…
やめて……
やめて……!
「ケンジさん……」
声が震えた。
視界が滲む。
その時、私は気付いた。
ケンジさんも泣いていた。
血に塗れた顔。
その頬を、一筋の涙が流れていた。
「…………」
そして、私はもう一つ気付いた。
私も泣いていた。
いつからだろう。
分からない。
でも涙が止まらなかった。
嫌だった。
認めたくなかった。
胸の奥で何かが叫んでいた。
終わるな、行くな、置いていくな。
そんな言葉にならない叫び。
その時だった。
バチッ――
空気が震えた。
「……っ!?」
私は目を見開いた。
ケンジさんの左手。残された唯一の腕。
そこへ、目で見えるほど濃密な魔力が集まり始めていた。
黒い雷、黒い振動。
世界そのものが悲鳴を上げているみたいだった。
嫌な予感がした。
違う、予感じゃない。
確信だった。
ダメだ。
その体で、そんな力を使ったら。
ダメだ。
「やめて!!」
私は叫んだ。声が枯れるほど。
「ケンジさん!!」
叫んだ。でも、届かない。
ケンジさんは前を向いた。
最後まで、四天王として。
最後まで、私の知る最強の男として、笑った。
「――黒の」
魔力が弾ける。
大地が軋む。
空気が裂ける。
「鳴動ぉおおおおおおおッ!!」
黒い奔流が、戦場の一点へ向かって走った。
瞬間、ケンジさんの左半身が吹き飛んだ。
血が舞った。
骨が砕けた。
肉片が散った。
あまりにも凄惨で。
あまりにも一瞬だった。
「――あ」
声が出なかった。
理解が追い付かなかった。
ただ、目の前で。好きな人が……好きになってしまった人が、崩れ落ちていく。
その光景だけが、やけに鮮明に見えていた。
そして私は、崩れ落ちるその姿へ向かって。
誰にも届かない声で、ただ一言だけ呟いた。
「……ケンジさん」
その名は、燃え盛る王都の空へ消えていった。




