第八十話 父上の娘であるこの私が、たった二人の魔人にここまで追い詰められている
私の名前はアリシア=ローキンス。
激しく揺れる大地の上で、私は膝をついていた。
あり得ない光景だ。
私が。
父上の娘であるこの私が、たった二人の魔人にここまで追い詰められている。
だが、問題はそこではない。
違和感があった。
何かがいる、見えない何かが。
身体に触れている。
「――っ」
反射的に身を捻る。
だが遅かった。
何かに掴まれた感覚。
見えない、姿もない、気配すら感じない。
それなのに、確かにそこに存在していた。
理解する。先程から私を狙っていた、あの女の能力。
奪取の幽手。
ついに届いたのだ。
心臓か。
脳か。
肺か。
一瞬で警戒する。
だが、来ない。
死が来ない。
私は自分の身体を確認する。
呼吸はできる。
意識も明瞭。
心臓も動いている。
「狙いが……逸れた?」
皮肉な話だった。
王都を崩壊寸前まで追い込んでいるこの大地震。
黒死無双。
その災厄こそが私を救ったのだろう。揺れ続ける世界では、正確に臓器を奪うことは難しかった。
だから致命傷には至らなかった。
だが、無傷ではない。
身体の内側から嫌な音が響く。
鈍い痛み。次の瞬間、激痛が脇腹を貫いた。
「――――っ!!」
肺から空気が漏れる。
呼吸が止まる。
視界が白く染まった。
肋骨。
折られた。一本や二本ではない。何本もまとめて圧し折られている。身体の内側へ見えない腕を差し込み、握り潰したかのような破壊。
私は思わず、苦悶の声を上げた。
戦場で、真正面から力で傷付けられたのはいつ以来だったか。
遠くで、あの女が笑う。
「捕まえました」
その声が聞こえた。
私は脇腹を押さえながら、初めてその女を見た。
ただの補助役ではない。
ただの従者でもない。
この女もまた、紛れもない怪物だった。
そう認識した直後だった。
大地の揺れが徐々に弱まっていく。崩れ続けていた建物も、ようやくその動きを止め始めた。
黒死無双。
あの男の奥の手は終わったらしい。
「残念ですわ」
甘ったるい声が響く。私は顔を上げた。
血月の夜、ユラ。漆黒のローブを揺らしながら、こちらを見下ろしている。
その瞳には愉悦しかなかった。
「本当ならケンジ様以外には興味がありませんのに」
ユラがゆっくりと右手を掲げる。
闇が集まる。嫌な魔力だった。
本能が警鐘を鳴らす。
危険だ、あれを受ければ終わる。
しかも、今の私では防げない。
「ですが、邪魔者は消えていただきませんと」
闇が膨れ上がる。放たれた黒い光線が一直線に私へ迫った。
避けられない。
「アリシア様ぁぁぁぁ!!」
轟音、影が割り込んだ。
鋼鉄の壁。
巨大な盾。
マリベルだった。大きな体にもかかわらず、その動きは信じられないほど速い。
盾が地面へ叩き付けられる。
直後、闇の奔流が激突した。
爆発、衝撃、土煙。
それでも盾は砕けない。マリベルは歯を食いしばりながら叫んだ。
「アナタは絶対に死なせません!!」
その声には迷いがなかった。
忠誠。覚悟。
それだけがあった。
私は思わず目を見開く。マリベルは震える足で踏みとどまりながら、それでも私の前から退かなかった。
「ほう?」
ユラが興味深そうに首を傾げる。
だが次の瞬間。
「ユラァァァ!!」
怒声が響いた。
イベルタだ。
弓が引き絞られる。
放たれた矢は一直線にユラへ向かう。
命中、そう見えた。
だが、矢はユラの身体を通り抜けた。
まるで幻影を射抜いたように、空中で爆発だけが起きる。
「また……!」
イベルタの表情が歪む。
以前から報告されていた。
血月の夜ユラには攻撃が通じない。
実体があるはずなのに、斬れない。射抜けない。触れられない。
ユラはくすくすと笑った。
「だから申し上げていますでしょう?」
赤い瞳が細められる。
「貴方達の相手は、私ではありませんわ」
その言葉と同時だった。
空気が変わった。
父上……殲鬼シュレイド。
その姿を見た瞬間、違和感を覚えた。
動きがおかしい。まるで、糸で操られる人形のように。
次の瞬間、父上が消えた。
いや、速すぎて見えなかっただけだ。
気付いた時には、その剣はイベルタの首へ向かって振り下ろされていた。
「っ!?」
イベルタの顔が凍り付く。
避けられない。
間に合わない。
そう思った瞬間、黒い影が走った。
蛇のようにうねる黒。
コルディの黒鞭だった。鞭はシュレイドの身体へ巻き付き、その腕と胴を強引に拘束する。
剣筋が僅かに逸れ、斬撃はイベルタの頬を掠めるだけで終わった。
鮮血が散る。だが首は落ちない。
「コルディ!」
イベルタが息を呑む。コルディは歯を食いしばりながら黒鞭を握り締めていた。
「何だよ……これ」
その額から汗が流れる。
「まるで暴れる怪物を縛ってるみてぇじゃねぇか……!」
だが、シュレイドは止まらない。
無言のまま。
感情のない瞳のまま。
拘束された身体を強引に動かそうとしていた。
まるで誰かに操られているかのように。




