第七十四話 血月の夜
俺の名はシュレイド=ローキンス。
改めて名乗る趣味は無いが、最近は周囲が勝手にそういう肩書きを付けたがる。
殲鬼。
王国最強。
化け物。
好きに呼べばいい。俺にとって重要なのは、斬るべき敵を斬ることだけだ。
この夜、俺は嫌な予感がしていた。理由は分からない。だが俺は、そういう勘で何度も生き残ってきた。
血の匂い。
死の気配。
戦場の歪み。
それを察知する感覚は、もはや本能に近い。
「…………」
騎士団本部の廊下を歩きながら、俺は眉をひそめた。
王都は今、祭りみたいな空気だ。
数日前、ベヒーモスを討伐したレオナルドの凱旋。
いつも以上に眩い夜。
誰もが浮かれている。
だからこそ気味が悪かった。
「シュレイド様?」
部下の騎士が恐る恐る声を掛けてくる。
「顔色が優れませんが……」
「元からだ」
「は、はぁ……」
俺は窓の外へ目を向けた。
王都バルミナム。
巨大な城壁。
人々の灯り。
笑い声。
守るべき国。
その時。
――ドゴォォォォォン!!!
轟音、建物全体が揺れた。
「ッ!?」
窓ガラスが砕け散る。
悲鳴、絶叫、空気が変わった。
俺は走り出す。騎士達も慌てて続いた。
嫌な予感は、最悪の形で当たった。
現場へ到着した瞬間、騎士達が足を止めた。
「な……」
誰もが言葉を失う。
血。
肉。
砕けた石畳。
中央広場は地獄だった。
そして、その中心に立つ男を見て、全員が凍り付く。
「レオ……ナルド様……?」
金獅子レオナルド。
王国の英雄。
だが様子がおかしい。
目が死んでいる、そして人形のような動き。
「…………」
俺は黙って観察する。
騎士達は混乱していた。
当然だ、英雄が騎士を殺している。
理解が追いつくわけがない。
だが俺は一瞬で理解する。
もう壊れている、あれはレオナルドではない。
死体だ。
「逃げろ」
低く呟く。
「え……?」
「全員下がれと言った」
声に殺気を混ぜる。
騎士達が反射的に後退した。
次の瞬間、レオナルドが動く。
爆発的な踏み込み。
常人なら見えない速度。
だが。
「悪く思うな、友よ」
一閃。レオナルドの右腕が宙を舞った。
血飛沫が舞う。
「シュ、シュレイド様!?!?」
「何を……!」
英雄を斬った。
王国最強が、王国の英雄を。
だが。
「ガァァァァァァァァ!!」
止まらない。
腕を失ってなお、レオナルドは突っ込んでくる。
痛覚も、理性も、恐怖も無い。
ただ命令だけで動いている。
俺は目を細めた。
死霊術。……いや、違う。
違和感があった。
肉の動きが生きている。
心臓も動いている。
つまり。
「生きたまま乗っ取ったか」
その瞬間、脳裏に浮かぶ。ベヒーモス戦の報告の際、目撃情報があったあの魔女。
血月の夜・ユラ。
「……なるほどな」
俺は静かに剣を構えた。
「趣味の悪い女だ」
レオナルドが咆哮する。
地面が砕けるほどの踏み込み。
だが、俺の姿が消える。
次の瞬間。
左脚。
右脚。
胴。
首。
騎士達ですら目で追えない。
俺は淡々と、英雄を解体していく。金獅子レオナルドの身体が、完膚無きまでに切り裂かれていった。
それでも、それでもなお、止まらない。
「…………」
俺の眉が僅かに動く。
レオナルドの眼光。
それだけがまだ、護石へ向かっていた。
怨念のように、命令のように。
「チッ」
レオナルドの目から、漆黒の光線が放たれた。
そしてそれは、護石を砕いた。
瞬間、空気が変わる。
王都を覆っていた結界が消える。
空が赤黒く染まっていく。
騎士達の顔から血の気が引いた。
「う、うそだろ……」
「護石が……」
そして、空間が裂ける。
無数の魔物が、王都へ雪崩れ込む絶望
その中心、赤い月を背に、一人の女が降り立った。
俺は剣を握り直す。
ユラは笑っていた。まるで子供が宝物を見つけた時のように。
王都が燃えている。魔物が人を喰らい、悲鳴が響き、騎士達が次々と倒れていく。
だが彼女の興味は、そんなものには無かった。
「こんばんは、騎士様達」
赤い月を背に、優雅に一礼をするその姿だけ見れば、美しい女だった。だが。
「……」
俺は剣を握る手に力を込めた。
戦場では何度も怪物を見てきた。
魔王種も。
古龍も。
理性を失った狂戦士も。
だが目の前の女は違う。
何かがおかしい。
人の形をしているだけだ。
中身はもっと別の何か。
「血月の夜……ユラ」
低く名を呼ぶ。ユラは嬉しそうに振り返った。
「あらあら。殲鬼様に名前を覚えていただけるなんて光栄ですわ」
「何が目的だ」
「目的?」
ユラは小首を傾げた。まるで本当に意味が分からないと言いたげに。
「もちろん世界征服とか王国滅亡とか、そういうのも嫌いではありませんけれど」
唇が吊り上がる。
「今はもっと大切な用事がありますの」
そう言って彼女は歩き出した。
俺の横を。まるでそこに誰もいないかのように。
「止まれ」
殺気を叩きつける。普通の人間なら、その場で失禁して気絶するほどの圧力。
だがユラは止まらない。
楽しそうに鼻歌すら歌っている。
「聞こえなかったか」
俺が一歩踏み出した時だった。
ユラが振り返る。
そして、初めてその顔を見た。
「まずは――」
笑顔だった。だが笑っていない。
顔だけが笑っている。
感情が存在しない仮面のような笑み。
「ケンジ様と」
一歩。
「サトコのクソ女狐に」
一歩。
「お仕置きをしないと」
その瞬間、背筋が凍った。
俺だけじゃない。
周囲の騎士達も。
魔物達ですら。
一瞬だけ動きを止めた。
ユラの目。
その瞳には憎悪があった。
いや、憎悪など生温い。
嫉妬。
執着。
支配欲。
独占欲。
そして、狂気。
人間が抱える負の感情を煮詰め、腐らせ、何百年も奈落の底で熟成させたような闇。
底が見えない。
覗き込めば魂ごと引きずり込まれそうな黒。
そして表情。
怒っているわけでもない。
笑っているわけでもない。
泣いているわけでもない。
能面。
ただ貼り付けられた仮面。
感情だけが瞳の奥で狂ったように渦巻いている。
俺は理解した。
この女は人間じゃない。
そして、魔族ですらない。
もっと根源的な何かだ。
愛という名の呪い。
執着という名の災害。
嫉妬が形を持った怪物。
「サトコ」
ユラは優しく名前を呼ぶ。
まるで親友を呼ぶように。
「大丈夫ですよぉ」
声だけは甘い。
「ちゃんと仲良くして差し上げますから」
ゾクリ、と。
王都中の空気が冷えた気がした。
その声を聞いた誰もが確信する。
仲良くなどしない、それは地獄の宣告だ。
ユラは再び前を向く。
魔物の軍勢が自然と道を開けた。
まるで王を迎える臣下のように。
いや違う、王ですらない。
あれは災厄そのものだ。
赤い月の下。
血月の夜は静かに歩き出す。
その背中を見送りながら、俺は生まれて初めて確信した。王都を滅ぼす存在がいるとすれば、それは魔王や四天王ではない。
あの女だ。
血月の夜ユラ。
人の姿をした魔物。嫉妬と支配欲で出来た、奈落の底よりなお暗い怪物だった。
俺は剣を構える。
王国最強。
殲鬼。
好きに呼べばいい。
だが今だけは、その名に意味がある。
あの怪物を斬れるのは――俺しかいない。
俺は、その首を落とすために歩き出した。




