第八話 霧の向こうの里
王都を離れてしばらくすると、道の両側に畑が広がり始めた。
風に揺れる作物の向こうで、農作業をしていた人が顔を上げる。馬に乗った俺たちを見送り、やがてまた手元の仕事へ戻っていった。城の窓から眺めるのとは違って、人も景色も次々と後ろへ流れていく。
なかなか悪くない。
今のところ、運んでくれているのは馬だし。
「ディアルは、里に行くの何回目?」
隣へ声をかけると、ディアルは少し考えた。
「何度か」
「うん。その何度かを聞いたんだけどね」
「覚えていない」
どうやら、細かな回数を気にするほど珍しい場所ではないらしい。
前を進むイーサックにも尋ねてみると、肩越しに振り返った。
「俺も行ったことはあるぞ。アリソンもウルスナもな」
「じゃあ、初めてなのはぼくだけ?」
「そうなるな」
案内役が四人もいる。迷子になる心配はなさそうだ。
「里って、何があるの?」
「家と畑と鍛冶場。それから、稽古をする場所だな」
「……王都にもあるね」
「里だからな」
旅先の紹介としては、ずいぶんと地味だった。
もう少し何かないのかと思っていると、アリソンが横から口を挟む。
「武器の扱いを学ぶには、よい場所ですよ。フィル様も、楽しみになさってください」
「その楽しみって、稽古のこと?」
「もちろんです」
景色を見て浮かれていた気持ちが、少しだけ落ち着いた。
そうだった。今回は遊びに行くわけではない。
腰の刀へ目を落とす。馬の動きに合わせて鞘が揺れ、時々、脚へ触れていた。まだこの位置に武器がある感覚にも慣れないが、目に入るたび、つい柄へ手を伸ばしたくなる。
ちゃんと扱えるようになりたい。
ただ、稽古が楽しみかと聞かれると、そこは別の話だった。
◇◇◇
最初の夜は、街道から少し外れた場所で過ごすことになった。
イーサックが周囲を確かめに行き、アリソンが荷物を下ろす。ディアルは馬をつなぎ、ウルスナはもう夕食の準備を始めていた。
俺も馬から降り、何をすればいいかと辺りを見回す。
仕事を探している間に、皆の仕事が進んでいく。
「何か手伝うことある?」
「では、こちらにお水をお願いいたします」
ウルスナに差し出された鍋へ手を向ける。底を覆った水が徐々に増えていき、ちょうどよさそうなところで魔法を止めた。
少しだけ、水面が跳ねた。
ウルスナは濡れた鍋の縁を布で拭き、何も言わずに受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。火もつける?」
「お願いできますか」
組まれた薪の下へ、小さく火を灯す。乾いた枝が音を立てて燃え始めると、薄い煙が夕方の空へ上っていった。
やることが分かれば、俺だって役に立つのだ。
もっとも、城でも同じくらい素直に手伝えば、ウルスナから小言をもらう回数も減るのかもしれない。
鍋が火にかけられる頃には、イーサックも戻ってきた。
「問題なし。今夜はここで大丈夫だ」
荷物のそばへ腰を下ろした彼は、俺が刀を膝に置いているのを見ると、口元を緩めた。
「まだ眺めてるのか」
「まだってほど、見てないよ」
「さっきも見てたろ」
「さっきとは、光の当たり方が違うから」
「そうかい」
納得していない声だった。
仕方がないじゃないか。自分の刀をもらったばかりなのだ。しかも、持ち主に合わせて形が変わるという、前世なら画面の中にしかなかった代物である。
焚き火の明かりを受けた鞘の模様を眺めていると、イーサックが小枝を火へ放り込んだ。
「眺めても上手くはならんぞ」
「親しみを深めてるんだよ」
「なら、明日は素振りを増やすか。もっと仲よくなれる」
「今の話は忘れて」
余計なことを言った。
隣では、ディアルが旅の荷物を整理していた。こちらのやり取りを聞いているはずだが、助けてくれる気配はない。
鍋から湯気が上がり、煮込んだ食材の匂いが漂い始める。ウルスナに器を渡され、俺はようやく刀を脇へ置いた。
「熱いので、お気をつけください」
「うん」
まずは一口、慎重に飲む。
ちょうどその時、隣でイーサックが勢いよく口へ運び、動きを止めた。
「……熱いな」
「申し上げました」
ウルスナが静かに答える。
王都を離れても、この辺りはいつもどおりだった。
◇◇◇
翌日も、その次の日も、俺たちは馬で進んだ。
畑の多かった景色は、次第に林や草地へ変わっていった。集落を通ることもあれば、長い間ほかの旅人とすれ違わないこともある。道が曲がるたびに先をのぞき込み、何も変わらないと少しがっかりする。
そのうち、曲がる前からイーサックが教えてくれるようになった。
「この先も道だぞ」
「分かってるよ」
「なら、何を探してるんだ?」
「何か面白いもの」
「稽古する場所なら、あの辺がよさそうだな」
それは探していない。
五日目、街道を離れた先に、小さな建物が見えてきた。
家に接するように柵が巡らされ、その奥には屋根の低い厩舎がある。こちらに気づいた男が手を止め、建物から出てきた。
アリソンが馬を下りて言葉を交わすと、男はディアルへ頭を下げる。それから厩舎の方へ向かい、入口を大きく開けた。
「馬は、こちらへ預けてまいります」
ウルスナに言われ、俺も鞍から降りた。
「ここから歩き?」
「はい。里との行き来に使わせていただいている場所です」
馬の首を撫でてから、手綱を渡す。五日間も運んでもらったのだ。あと少し頑張ってほしいところだが、どうやらここからは俺の足の出番らしい。
イーサックは、すでに自分の荷物を背負っていた。アリソンも必要な物をまとめ、建物の男と最後の確認をしている。
「フィル」
ディアルに呼ばれ、俺は荷物を持ち上げた。肩へ掛け直し、刀の位置も確かめる。
「持てるか」
「持てるよ。ずっと持ちたいかは別だけど」
「なら、行くぞ」
後半は聞かなかったことにされた。
◇◇◇
森へ入ると、空が狭くなった。
頭上で枝が重なり、日の光が葉の隙間から落ちている。街道と違って地面は平らではなく、木の根があちこちに顔を出していた。
前を行くイーサックは、足元を確かめている様子もなく歩いていく。ディアルも同じだ。俺は二人が通った場所をたどりながら、飛び出した根をまたいだ。
「里を作る時に、もう少し来やすい場所にしようって話は出なかったのかな」
「五歳児が来るとは思わなかったんじゃないか」
イーサックが前を向いたまま答える。
「今からでも移していいと思うよ」
「里を丸ごとか?」
「せめて、もう少し平らなところに」
「里長に言ってみろ」
何でもおじいさんに任せればいいわけではないと思う。
道を塞ぐように倒れていた木へ手をつき、向こう側へ飛び降りる。刀が引っかからないように押さえ、先へ進むディアルを追いかけた。
少しすると、今度は上り坂になった。
足を置く場所が狭く、枝を避けるたびに体を傾けなければならない。歩けないわけではないのだが、歩きやすくもない。
「道を作る魔法とか、ないの?」
「土魔法で整えることは可能でしょう。ただ、この距離となりますと、それなりの手間になりますね」
後ろからアリソンが答えた。
「じゃあ、少しずつ」
「フィル様の修行として取り入れますか?」
「今日はいいです」
危なかった。話の進め方を間違えると、歩くどころか道を作らされる。
坂の上に出ると、少し開けた場所があった。先に着いていたイーサックが木へ片手をつき、俺たちを待っている。
「どうだ。疲れたか?」
「五歳児に優しくない道だとは思う」
「疲れたかって聞いたんだが」
「今のところは平気」
「だろうな」
なぜか笑われた。
後ろを振り返ると、アリソンとウルスナもすぐに追いついてきた。二人とも、王宮の廊下を歩いている時と大して変わらない顔をしている。
俺だって、まだ余裕はある。
ただ、木の根や石を避けるたびに足元を確かめている俺と、何事もないように話しながら歩く皆とでは、どうにも差がある気がした。
「皆、こういう道に慣れてるんだね」
「何度か通れば覚える」
ディアルが言う。
「できれば、帰りはもっと歩きやすい道を覚えたいな」
「来た道を帰る」
知っていたけど、聞きたくはなかった。
イーサックが手を離し、また歩き始める。休憩するほどの場所でもなかったらしい。
俺も肩紐を直し、その後へ続いた。
◇◇◇
森の中でもう一晩を過ごし、六日目の朝を迎えた。
出発してしばらくすると、木々の間に細くまっすぐな幹が混じり始める。見覚えのある節と葉の形に気づき、俺は顔を上げた。
竹だ。
進むにつれて、その数が増えていく。いつの間にか周りは竹ばかりになり、頭上で揺れる葉の音も、森の中とは違って聞こえた。
「竹もあるんだ」
思わず呟くと、ディアルがこちらを見た。
「知っているのか」
「うん。見たことはある」
どこで、とは聞かれなかった。
風に押された竹がしなり、どこかで乾いた音を立てる。その向こうを白い霧が流れていた。初めは地面の近くだけだったものが、進むうちに目の高さまで広がってくる。
少し前を歩くイーサックの姿が、薄くかすんだ。
「これ、道を間違えない?」
「一人なら間違えるかもな」
「今のは安心させるところじゃない?」
「ついてくれば大丈夫だ」
その言葉どおり、イーサックの足取りに迷いはなかった。
細道が二つに分かれたところでも立ち止まらず、竹の根元に半ば埋まった石を見て、右へ進む。俺もその石を見たが、周りに転がっている石との違いが分からない。
少し先では、まっすぐ続いて見える道を外れ、竹の間へ入っていった。
「そっちなの?」
「ああ」
振り返れば、さっきの道がまだ見える。どう考えても、あちらの方が道らしかった。
ところが何歩か進むと、足元に人が通った跡が現れた。落ち葉の下へ隠れていた細道が、そのまま霧の向こうへ続いている。
なるほど。初めて来た人には分からないわけだ。
俺はディアルとの間を少し詰めた。
「迷ったら、どこに出るの?」
「出られればいいな」
イーサックの返事に、思わずその背中を見る。
今のは冗談だよね。
確認しようとしたところで、隣のディアルが口を開いた。
「もう近い」
それを聞いて、アリソンが上着の裾を払った。ウルスナも袖口を確かめている。長く森を歩いてきたのだから、身だしなみを整えるのは分かる。
ただ、イーサックまで襟元へ手をやったのが気になった。
「……そんなに気をつけないと駄目なの?」
「何がだ?」
「ハーバード様に会う時」
イーサックは襟から手を離し、俺を振り返った。
「前国王陛下にお会いするんだ。失礼があっちゃいけないだろ」
もっともな答えだった。
王都でその人の話が出た時から、何となく歯切れが悪いことを除けば。
俺はウルスナへ顔を向ける。
「ぼくも、服を直した方がいい?」
ウルスナは足を止め、肩に付いていた細い葉を取ってくれた。続いてフードの位置を確かめ、小さく頷く。
「これで結構です」
「ありがとう」
これで服装を理由に怒られる心配はないだろう。
あとは本人に会ってみるだけだ。
ディアルは、相変わらず平然と歩いていた。
◇◇◇
竹の間を抜けたところで、ふいに視界が開けた。
両側に石の柱が立ち、その間に木の門が開いている。向こうには道が続き、霧の切れ間から家々の屋根が見えた。
水の流れる音がする。
もっと奥からは、人の掛け声と、何かを打ち合わせる音も聞こえた。さっきまで竹の葉がこすれる音ばかりだったので、それだけでずいぶん賑やかに感じる。
「着いたぞ」
イーサックが言った。
俺は門の向こうへ目を凝らした。道の脇には水路があり、小さな橋が掛かっている。その先を誰かが歩いていったが、こちらを気にした様子はなかった。
ここが、始まりの里アストール。
まずは荷物を下ろせる場所があると嬉しい。
そう思って足を進めた時、門の脇から一人の少年が出てきた。
暗い赤色の髪をした、俺よりずっと年上の少年だった。ディアルよりも年上に見える。きちんと整えられた服に、腰には武器。こちらを見た顔には、どこか自信が感じられた。
その目がディアルを捉える。
少年の足が止まった。
「……ディアル殿下」
「久しぶりだ」
ディアルが答えると、少年は背筋を伸ばして頭を下げた。顔を上げたあとも、視線はディアルから離れない。
知り合いらしい。
それにしては、再会を喜ぶような雰囲気でもなかった。
「ヴィルツじゃないか。元気にしてたか」
イーサックが声をかける。
「はい。お久しぶりです」
ヴィルツと呼ばれた少年は、ようやくほかの顔ぶれへ目を移した。アリソン、ウルスナと順に見て、最後に俺のところで止まる。
フードの下から見上げると、わずかに眉が寄った。
「殿下。そちらの子供は?」
「フィルだ。俺の弟だ」
いつもの紹介だった。
俺が訂正するより早く、ヴィルツの視線が腰へ下がる。刀を見ているらしい。少しの間、何も言わずに眺めてから、彼はディアルへ向き直った。
「……その子も、里へ入れるおつもりですか」




