第四十四話 最初の仕事
内務卿のベルガンは、机の端を占領していた書類を抱え、別の山の上へ移した。
今日からディアルの教育が始まる。
だからといって、普段の仕事が減るわけではない。王子へ仕事を教える時間だけ、一日が長くなってくれれば助かるのだが、今のところその予定もなかった。
書類を一枚読むたびに説明し、王子への言い方にいちいち気を遣うことになれば、自分の仕事は夜へ押し出される。才のある王子だという評判は聞いていたが、評判は書類を片づけてくれない。
空けた場所へ椅子を一つ置かせたところで、扉が叩かれた。
「ディアル殿下がお見えです」
入ってきたディアルは、机の前で足を止めた。
「今日から世話になる」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ベルガンは立って礼を返し、先ほど空けた席を示した。
王子を迎えたからといって、心得を並べるつもりはない。本物の仕事を一つ進めた方が、互いに分かることは多い。
「午前は、市場に隣接する広場を見に参ります」
広場では最近、盤を使った遊びが人気になり、人が集まっていた。近くの店は客が増えたと喜ぶ一方、荷車が通りにくくなったという訴えも来ている。
「遊びをやめさせるかどうかではなく、広場の使い方を確かめる仕事です」
「分かった」
ディアルは渡された書類へ目を通した。
評判どおりに覚えが早いかより、書面の外にいる相手をどう見るか。ベルガンが知りたいのは、そちらだった。
◇◇◇
市場へ近づくと、広場の方から笑い声が聞こえた。
盤を囲む子供たち。その後ろから口を出す大人。順番を待ちながら、近くの店で飲み物を買う者もいる。
そして、輪の真ん中には、フードを目深にかぶった小さな姿があった。
「そこへ置いたら、次に取られるよ」
「言ったら駄目だって!」
「俺、今は相手じゃないから」
「さっきまで相手だっただろ!」
フィルが笑うと、盤を囲んでいた者たちも笑った。
注意された子供は石を置きかけた手を戻し、フィルから盤を隠すように体を寄せる。
近くの店から「器は返してね」と声が飛ぶと、フィルは盤を見たまま片手を上げた。足元には飲み終えた器が置かれている。
返事が遅いと、今度は子供がフィルの代わりに「忘れないよ」と答えた。
何度か遊びに来ただけの客には見えなかった。
ディアルに気づいた者が、慌てて頭を下げる。笑い声が引き、盤へ伸びていた手も止まった。
その中でフィルだけは、置かれた石を覗き込んでから顔を上げた。
「ディアル。仕事?」
「ああ。広場を見に来た」
「俺は遊びに来た」
「見れば分かる」
「まだ一回しか勝ってないけどね」
「それは見ても分からない」
フィルが少し不満そうな顔をする。
王子と家臣の会話というより、普段から続いている話の途中を聞いたようだった。
「フィルが広めた遊びだと伺いました」
ベルガンが声をかけると、フィルはこちらへ向き直って礼をした。
「はい。こんなに集まるようになるとは思ってませんでした」
礼を終えると、すぐ隣の子供から「次はフィルの番」と袖を引かれる。
「ディアルは仕事だから、邪魔しないよ」
そう言いながら、フィルの目は盤へ戻っていた。
ディアルが小さく息を吐く。
叱るでも、帰すでもない。今は別のことをしに来たと互いに分かっているらしい。
ベルガンは、二人が近いとは聞いていた。
これだけ馴染んだ遊びをどう扱うのか、一瞬だけ気に留める。
その時、広場の入口で車輪が止まった。
荷を積んだ車の前に、見物人が広がっている。
運び手が声を上げても、勝負の行方を見ていた者たちはすぐには動かなかった。ようやく気づいた者から振り返り、慌てて脇へ寄る。
「盤、持って」
フィルが子供たちへ声をかけた。
子供が石を崩さないよう盤を両手で持つ。フィルが見物人へ声をかけながら端へ寄ると、人の輪もそちらへ動いた。空いたところを、荷車がゆっくり通った。
フィルは通り過ぎるまで待つと、子供たちと一緒に盤を置き直した。
手慣れている。
ただ、それで問題がなくなったわけではない。次の荷車が来れば、また同じように声をかける必要がある。
ディアルはフィルへ近づいた。
「いつも、こうして動かしているのか」
「荷車が来た時はね。でも、見てる人が増えると、気づくのが遅くなることもあるよ」
フィルは、今空けた道を指した。
「この辺を空ければ通れると思う」
ディアルは指された先を見た。
それからフィルへ答える前に、荷車を店先へ寄せた運び手の方へ歩いていく。
「一番困るのは、今のように人が広がることか。それとも、卓があることか」
運び手は荷台へ手をかけたまま、広場を振り返った。
「人ですね。卓だけなら避けられます。ただ、荷が続く時にこの道を塞がれると、次の車が入れません」
「荷が続くのは、一日中ではない?」
「はい。集中する時があります」
ディアルが頷く。
ベルガンが気に留めたことは、それで必要なくなった。
ディアルは広場を歩き、運び手が指した道を目で追った。卓を壁際へ寄せられそうな場所で一度足を止める。
しかし、その先には別の店の荷を入れる口がある。
店の者がそこを示すと、ディアルはすぐに向きを変えた。
遊んでいた子供たちは、盤を抱えたまま空いている場所を指し合っている。店の者は客が減らない場所を望み、運び手は車が続けて入れる道を示した。
話は長くなかった。
ディアルは指された場所を一つずつ見て、時々ベルガンへ確かめるように顔を向けた。最初に立ち止まった壁際へ戻ろうとはしなかった。
フィルも盤を抱えた子供と一緒に場所を移り、そこで本当に遊べるか確かめている。
「ここなら、後ろから見ても道へ出ないよ」
「店の入口は塞いでいないか」
ディアルに聞かれ、フィルは振り返った。
「少し近いかも」
「では、もう一つ下げる」
「そうすると、こっちの盤とぶつかるよ」
子供が言う。
「置ける数を減らすしかないな」
「順番で使えばいいよ」
子供たちは、誰が先に座るかで早くも話し始めた。
ベルガンは広場の中央に立ち、皆の動きを見直した。
荷車の通る筋を残す。卓と見物人は店の出入りを塞がない側へ寄せる。荷が集中する間だけ、通路に近い場所をさらに空ける。
決めるべきことは、その程度まで絞れていた。
「まず、この形で短い期間試しましょう」
ベルガンが告げる。
「運ぶ方と店の方には、広場を使う方へ荷が増える時を伝えていただきます。こちらからも最初の説明を手配します。使いにくいところが残れば、また直しましょう」
運び手と店の者が、それぞれ広場を見てから頷いた。
大きな歓声は上がらない。
子供たちは移した盤の続きを始め、運び手は荷を下ろしに戻る。店の者は、入口までの道に物が出ていないか確かめていた。
試すなら、それぞれにすることがある。
「公務って、遊ぶ場所も見るんだね」
フィルが石を持ったまま言った。
「遊びだけを見に来たわけではない」
「でも、俺より広場を見てた」
「お前は盤しか見ていなかっただろう」
「荷車も見てたよ」
「来てからだ」
フィルは言い返そうとして、近くの子供に「早く置いて」と急かされた。
「続きは帰ってからね」
「負けた言い訳を考えるな」
ディアルはそう返し、ベルガンの隣へ戻った。
ベルガンは笑いそうになる口元を、咳払いで隠した。
◇◇◇
役所へ戻った後の手配は、長くかからなかった。
ベルガンが最終的な内容と担当を決め、部下へ伝える。ディアルには、試している間にもう一度広場を見て、運ぶ側と遊ぶ側の両方から様子を聞くよう頼んだ。
「分かった。明日、伝達が届いたかも確かめる」
「お願いいたします」
ディアルは広場で見たことを短く書き留め、最初の日の仕事を終えた。
「明日も世話になる」
「お待ちしております」
扉が閉じる。
ベルガンは息を吐き、肩を少しだけ下げた。
机の上には、朝に移した書類がそのまま残っている。外へ出ていた間に増えた分まであった。
王子の教育が始まっても、やはり仕事は減らない。
ただ、付ききりで答えを教え続ける必要もなさそうだった。
今日だけで安心しきるほど楽観はしていない。それでも、書類の山が一つ増えたという朝の気分よりは、少しだけましだった。
ベルガンは、明日渡す予定だった一枚を山へ戻した。
代わりに選んだのは、書面だけでは決められず、相手へ話を聞く必要のある仕事だった。
今日より少しだけ、任せてみてもよい。
そう思いながら、明日の書類を机の端へ置いた。
フィルはディアルとアリスの仕事が増えて、暇な時間が増えました。




