第四十三話 明日の予定
目を開けると、窓から朝の光が入っていた。
天井は高い。
手を伸ばしても岩に当たらないし、どこかで水が滴る音もしない。
自分の寝台だと分かっているのに、少しの間だけ、ぼんやり天井を見ていた。
「よく寝た」
声にして、体を起こす。
洞窟から戻って三日が過ぎた。
最初の日は、風呂と食事の後、寝台へ入ってからほとんど覚えていない。気がつくたびに部屋の明るさが変わっていて、その間に何度食事へ呼ばれたかも怪しかった。
昨日までは歩くだけで脚の奥に重さが残ったけれど、今朝はかなり軽い。
立ち上がり、窓を開ける。
冷たい空気が入り、庭から人の声が聞こえた。
静かすぎる洞窟とは違う。
今日は、普段の暮らしへ戻る日だ。
着替えて食堂へ行くと、ディアルとアリスはもう席に着いていた。
「おはよう」
「遅い」
「寝坊はしてないよ」
「私たちより遅い、という意味です」
アリスにまで言われた。
席へ着くと、すぐに朝食が運ばれてくる。温かいパンの匂いだけで、ここへ帰ってきたのだと実感した。
「本日から、通常の活動へお戻りいただいて問題ございません」
アリソンが言う。
「ただし、疲れが残っていると感じた場合は、予定を中断してお休みください」
「普通に動いていいけど、無理はするなってこと?」
「そのように申し上げました」
「ディアルにも言っておいてね」
「お前にもだ」
すぐに隣から返された。
アリスが満足そうに頷く。
「今日は、国王陛下へ詳しいご報告をするのでしょう?」
「はい。体調が戻るのを待っていただいていましたから」
帰還した日のうちに、試練へ合格したことと、洞窟内で崩落が起きたことは伝わっている。
けれど、十三日間の詳しい報告は、俺たちが休んでから行うことになった。
「卵のことも、今日決めるの?」
「扱いについてご相談いたします」
許可が出たとは、まだ言われていない。
卵は今も布に包まれ、扱いが決まるまで保管されている。昨日見せてもらった時にも、特に変わったところはなかった。
「洞窟の報告より、そっちが気になる顔をしているな」
ディアルが言った。
「どっちも気になってるよ。少しだけ卵の方が多いけど」
「少しですか?」
「少しくらいかな」
アリスの視線が厳しくなったので、パンを口へ運んだ。
洞窟の中で朝を迎えた時には、次に何を食べられるかも分からなかった。
今は朝食の後にすることまで決まっている。
そのことが、少し嬉しかった。
◇◇◇
報告の場には、国王陛下であるバスク様のほか、今回の件に関わる少数の貴族が集まっていた。
マルティン様、カラフィ様、ハリエット様もいる。
アリソンは俺たちの後ろに控え、机の上には洞窟周辺の簡単な図が広げられていた。
バスク様の顔は、誕生日の宴で見た時より少し疲れて見えた。
「体調は戻ったのか」
「はい。今日から普段の活動へ戻ってよいと判断されました」
ディアルが答える。
「フィルもか」
「はい。食事も普段どおりです」
「聞いている。食事の心配はいらぬようだな」
朝食を多めに食べたことまで伝わっているのだろうか。
バスク様の口元が少し緩み、すぐに王の顔へ戻った。
「戻ったとの知らせを受けた時は、安心した。二人とも、よく帰ってきた」
「ご心配をおかけしました」
ディアルが頭を下げ、俺も続いた。
「詳しい話を三日待ったのは、まず休ませるためだ。遅れを責めるために呼んだのではない」
机の上には図が広げられているのに、バスク様はまだディアルの顔を見ていた。
やがて、一つ頷く。
「では、聞かせてくれ」
報告は、試練の三日目から始めた。
床が崩れ、いくつもの層を落ちたこと。元の道がなくなり、掘り上がろうとすればさらに崩れる状態だったこと。
残った空洞から上へ戻る道を探し、十一日目にガルドロックと遭遇したこと。その後にも魔獣の群れや落石があり、上層へ戻ってから鉱石を得たこと。
ディアルと交互に話し、入口で待っていた側の様子はアリソンが補った。
洞窟で交わした二人だけの話は、ここでは口にしなかった。
説明が終わると、部屋はしばらく静かになった。
「本来の試練で、そこまで深部へ落ちることはない」
バスク様が図へ目を落とした。
「例年どおりの試練だったとは言えまい。崩落した場所も、戻るまでに通った道も、確かめる必要がある」
声は落ち着いている。
けれど、俺たちが無事に戻ったから終わりにするつもりはないことが分かった。
「洞窟と周辺を確認する。崩落の原因と、魔獣の様子も調べよ」
バスク様がマルティン様を見る。
「マルティン。お前に任せる」
「承知しました」
返事はすぐだった。
マルティン様は、王命を受けて他国との話し合いや、国内で起きた重要な問題の調査と調整を担っている。
「まず、現地の状態を少人数で確かめます。必要な者は、その後に加えます」
マルティン様は俺たちへ顔を向けた。
「二人に、もう一度洞窟へ入って案内させることはしない。今日の報告と、入口で待機していた者たちの話をもとに確認する。分からないところがあれば、後で尋ねる」
「分かりました」
また洞窟へ入れと言われても困るところだったので、少し安心した。
「もし道が残っていても、しばらく遠慮したいです」
「当然だ」
マルティン様は短く笑い、すぐに図へ視線を戻した。
「兄上。よろしければ、私も同行いたします」
カラフィ様が一歩前へ出た。
「試練の洞窟で起きたことです。私にも何かお手伝いできるかもしれません」
マルティン様は少し考えてから答えた。
「まずは、人数を絞って現場を確認する。調べる範囲が決まれば、必要に応じて頼む」
「分かりました」
カラフィ様は素直に頷いた。
「出発は、いつ頃をお考えですか」
「準備が整い次第だ。今日中に同行者を選ぶ」
「必要になりましたら、いつでもお声がけください」
それで二人の話は終わった。
マルティン様は図を引き寄せ、俺たちが落ちた場所と戻った経路をもう一度確かめる。
今度は、バスク様がディアルへ向き直った。
「試練は終えた。予定どおり、内務卿のもとで副官として学べ」
「はい、父上」
「体調に問題がなければ、明日からだ。最初から一人でできると思うな。見て、聞いて、分からないことは尋ねよ」
「承知しています」
ディアルの返事はいつもどおり短い。
洞窟へ入る前から決まっていた仕事が、明日から本当に始まる。
「俺もついていこうか?」
小声で尋ねると、ディアルがこちらを見た。
「来て何をする」
「分からないことを一緒に尋ねる」
「増やすだけだろう」
近くにいたハリエット様が、声を立てずに笑った。
◇◇◇
「最後に、フィルが持ち帰った卵についてです」
アリソンの言葉で、机の端に置かれていた包みへ視線が集まった。
布を開くと、中から卵が現れる。
洞窟で見つけた時と同じで、両手で包めるくらいの大きさだ。
ハリエット様が席を立ち、卵のそばへ来た。
顔つきは、洞窟の前で俺たちを抱きしめた時とも、誕生日の夜に笑っていた時とも違う。
卵を動かさず、外から確かめていく。
「今の段階では、何の魔獣かは分かりません」
しばらくして、ハリエット様が言った。
「分からないものを、安全だと言うつもりもありません。ただ、分からないからこそ、状態を見ながら判断する必要があります」
卵を見つけたピレスをはじめ、ハリエット様は何体もの魔獣を従えている。
魔獣について、ハリエット様以上に詳しい人は、この場にはいなかった。
「フィルに、当面の世話をさせたいと考えています。私がこまめに状態を確認し、扱い方も相談します。必要なら、カヌにも手伝わせましょう」
「ですが、正体の分からない魔獣です」
同席していた貴族の一人が口を開いた。
「王子のおそばへ置き、万一のことがあれば、確認の間隔だけでは防げないのではありませんか」
もっともな心配だった。
卵の中に何がいるのか、俺にも分からない。
育てたいのは俺の都合で、それだけでは心配する人を納得させられない。
「では、毎日来てもらいましょう」
ハリエット様は迷わず答えた。
「毎日、ですか」
「ええ。それなら変化があっても、早く気づけます。フィルから世話の様子も詳しく聞けますし、私から必要なことを直接伝えられます」
貴族の口が開きかけ、閉じた。
回数の話ではなかった気もするが、もう毎日になっている。
「それに、フィルもディアルも、危険を前に何もできずにいる子ではありません。二人の実力は、私も承知しています」
ハリエット様は俺とディアルへ目を向け、それから貴族へ視線を戻した。
「もちろん、それを理由に二人へ任せきりにはしません。状態が変われば、フィルの部屋へ置き続けるかも含めて見直します。分からないまま放っておくつもりはありません。成長してからも、その時の様子を見て判断します」
明るい声だったが、卵を見る目は真剣だった。
俺だけに任せて終わり、という話ではないらしい。
「毎日こちらから伺います」
俺が言うと、ハリエット様がすぐに振り返った。
「そうして。相談はお茶の時間でも構わないわ」
急に機嫌がよくなった気がする。
「卵の相談ですよね?」
「もちろんよ。ほかの話をしてはいけないとは言っていないでしょう?」
やっぱり、少し別の楽しみも入っているらしい。
それでも、俺にはありがたい話だった。
前の世界にいた頃も、動物を飼ってみたいと思ったことがある。
けれど、自分一人の生活費で精一杯だった。餌や病気の時の費用まで責任を持てないのに、欲しいという理由だけで飼うことはできなかった。
だから、ずっと諦めていた。
この卵から生まれるものが何かは分からない。
それでも、今度こそ自分で世話をしたい。
一人で何でもできるとは思わない。分からないことを相談できる人がいるなら、なおさらだった。
餌も寝床も、まだ何が必要なのか分からない。卵を拾った勢いだけで、全部うまくできるわけではないだろう。
それでも、世話をして、少しずつ大きくなっていくところを見たい。困ったら誰かに聞けばいいと思えるのが、今は嬉しかった。
「俺も、分からないまま勝手に世話はしません。毎日連れてきて、気づいたことは全部話します」
ハリエット様が、満足そうに頷いた。
「ええ。そうしてちょうだい」
「陛下」
ハリエット様がバスク様を見る。
「当面は私の監督のもとで、フィルに世話をさせていただけませんか。何か変化があれば、すぐに置き場所も扱いも改めます」
バスク様は、ハリエット様と卵を順に見た。
「よい。ただし、許可を出したのは今の状態での世話だ。分からないことを、都合よく決めつけるな」
「はい」
「分かりました」
俺とハリエット様の声が重なった。
「では、今日から毎日ね」
ハリエット様が念を押す。
「今日もですか?」
「今日から、と言ったでしょう」
俺へ向けた笑顔だけは、誕生日の夜に見たものと同じだった。
「分かりました。午後に伺います」
俺が答えると、ハリエット様は満足そうに頷いた。
◇◇◇
報告を終え、俺とディアルは並んで廊下を歩いていた。
アリソンは卵を俺の部屋へ運ぶ手配のため、先に離れている。
「明日から仕事だね」
「ああ」
「緊張してる?」
「していない」
「ちょっと楽しみ?」
「質問が多い」
いつもの返事だった。
角を曲がったところで、ディアルが歩みを少し緩めた。
「フィル」
「うん?」
「調べることについて、考えていた」
何を、とは聞かなかった。
周りに人がいないことだけを確かめ、ディアルの次の言葉を待つ。
「当時の記録を見たい。何が残っているか、どこで見られるか。それを確かめるところから始めるつもりだ」
「何を調べてるか、気づかれないように?」
「ああ。誰かに尋ねるにしても、聞き方は考える」
以前なら、ここまで自分から話さなかっただろう。
長い相談ではない。
それでも、俺に聞かせるために足を緩めている。
「何を探すか、俺にも聞かせて」
「そのつもりで話した」
「よかった。全部聞いた後に、やっぱり一人でやるって言われたらどうしようかと思った」
「言わない」
短い答えだった。
俺も、それ以上約束を確かめ直さなかった。
「今日の午後は?」
「明日からの仕事の準備がある。昼食の後なら、少し時間を取れる」
「俺も午後にハリエット様のところへ行くから、その前なら大丈夫」
「もう卵の予定が入ったのか」
「毎日だからね」
「姉上が嬉しそうだった」
「やっぱり、そう見えた?」
「分かりやすい」
俺たちは顔を見合わせ、少し笑った。
母親のことを調べる相談も、ディアルの仕事も、卵の世話もある。
稽古や勉強も、たぶん今までどおり続く。
洞窟の中では、歩けるうちに次の道を探さなければならなかった。
王宮へ戻れば、やることは一つではない。
けれど、何をするかを自分たちで決め、終わったら食事をして、また次の日を迎えられる。
そういう忙しさなら、嫌ではなかった。
「昼食の後に、少し話そう」
俺が言うと、ディアルが頷いた。
「分かった」
「その後は仕事の準備。俺は卵の相談」
「忙しいな」
「洞窟で迷ってるよりは、予定が分かるだけ楽だよ」
「比べるものではない」
「そうかな」
話しながら、俺たちはそれぞれの予定へ向かった。
今日の昼には、二人で話すことがある。
明日はディアルの仕事が始まる。
帰ってきた毎日は、もう次へ動き始めていた。
兄姉は末っ子の双子が可愛くで仕方ありません。




