第四十二話 三人で帰る
十三日目の朝、アリスは洞窟へ入ろうとしていた。
「お待ちください」
入口の前に立ったヴィルツは、道を譲らなかった。
「どいてください」
「できません」
返事は固い。
その隣では、小さな魔獣がハリエットを見上げていた。
ハリエットが従える魔獣の一体、カヌだ。人の言葉を話し、普段は彼女の身の回りの世話をしている。
「ハリエット様も、今一度お考えください」
「十日目にも、そう言われて待ったわ」
ハリエットの声は低く抑えられていた。
だからこそ、ヴィルツの背筋がさらに伸びる。
「それから、もう三日よ」
あの日、イーサックに止められ、二人を信じて待つと決めた。
十一日目も、十二日目も、洞窟から誰も出てこなかった。
そして今朝も、入口は昨日までと同じように暗く開いている。
王宮へ戻るたび、明日こそはと自分へ言い聞かせた。
公務の間は目の前の相手に集中した。食事も取り、夜には寝台へ入った。
けれど、ふとした時に浮かぶのは、暗い洞窟と、戻ってこない二人のことばかりだった。
朝になれば、連絡が届いていないかを確かめる。
届いていないと分かるたび、胸に溜まる不安が少しずつ重くなった。
期限はまだ終わっていない。
それでも、アリスはもう外で待っていられなかった。
「ヴィルツ。中で何か起きているなら、待つだけでは助けられません」
「……私も、同じことを考えております」
ヴィルツの手が、体の脇で強く握られていた。
「ですが、まだ期限の内です。お二人が試練を続けておられる間は、待つと決めました」
「続けられているかどうかも、分からないではありませんか」
答えがない。
ハリエットが一歩進もうとすると、カヌがその足元へ回った。
「どこをお捜しになるおつもりですか」
「中へ入ってから確かめるわ」
「今は、お二人がどちらへ進まれたかも分かりません。どうか、ここで足を止めてください」
誰も、何もせずにいたいわけではない。
ヴィルツもカヌも、心配している。
分かっていても、アリスは引き下がれなかった。
「私も行きます」
「なりません」
「お兄様とフィルが――」
言いかけた時、洞窟の奥で石を踏む音がした。
全員が口を閉じる。
聞き間違いかもしれない。
アリスは息を止め、暗い奥を見つめた。
もう一度、音がした。
一つではない。
二人分の足音が、ゆっくり近づいてくる。
「お兄様……?」
灯りの届かない闇の中で、何かが動いた。
先に見えたのは、小さな火だった。
その後ろから、二つの影が現れる。
防具も髪も土で汚れ、足取りは重い。頬も、洞窟へ入った時より細くなっている。
それでも、二人だった。
ディアルが先を歩き、その半歩後ろにフィルがいる。
フィルが何か言うと、ディアルが横目で見た。声までは聞こえない。けれど、いつもの二人の動きだった。
夢でも、待ちすぎて見えた幻でもない。
胸を押さえつけていた力が、一度に抜けた。
「お兄様! フィル!」
ヴィルツの横を抜け、アリスは駆け出した。
先に手が届いたディアルの腕を掴み、すぐ隣のフィルにも手を伸ばす。
「二人とも、怪我はありませんか。どこか痛むところは。きちんと歩けますか」
「ただいま、アリス」
フィルが笑った。
いつもの笑顔より力がない。
それを見たら、胸の奥に押し込めていたものが一気に上がってきた。
「遅いです……」
「すまなかった」
ディアルが、掴んだままのアリスの手へ自分の手を重ねた。
冷たく、硬い手だった。
「崩落で、元の道へ戻れなくなった」
「今、説明しなくてよいです」
声が震えた。
無事だと分かったのに、涙が浮かぶ。
フィルの手も掴んだまま、二人が本当にここにいることを確かめる。
「戻ってきてくれれば、それで……」
最後まで言えなかった。
ディアルがアリスの背へ腕を回した。
フィルも反対側から、そっと肩へ触れる。
三人で身を寄せると、防具が当たって硬い音がした。
それさえ、今は嬉しかった。
「ディアル。フィル」
ハリエットの声が近くで聞こえた。
二人を見つめる目が潤んでいる。
「よく、戻りましたね」
「心配をかけました」
ディアルが言うと、ハリエットは二人をまとめて抱き寄せた。
「ええ。本当に」
答える声は優しかったが、腕はなかなか緩まなかった。
「少し、苦しいです」
「もう少し我慢なさい」
「俺もですか?」
「フィルもです」
フィルが困ったようにディアルを見る。
ディアルは助けず、わずかに口元を緩めていた。
その顔を見て、アリスはようやく息を吐けた。
◇◇◇
「まず、お座りください」
天幕の前へ戻ると、アリスは二人を並べて椅子へ座らせた。
言われる前に従ったことで、余計に不安になる。
普段の二人なら、どちらかは大丈夫だと言うはずだった。
アリソンもすぐそばに膝をつき、二人の顔色を確かした。
「詳しいご報告は後ほど。今は体の状態を先に確認いたします」
「鉱石だけ先に見せる」
ディアルが腰元から、鈍い光を帯びた鉱石を取り出した。
アリソンは受け取り、表面を確かめる。
「間違いございません。期限内ですので、試練は合格となります」
「それでは、もうお休みになれますね」
アリスが言うと、アリソンはいつもの笑みを少し深くした。
「ええ。ご報告は、十分に休まれてから伺いましょう」
怪我はあったが、急いで治療しなければならないものではなかった。
問題は、長い間きちんと食べられず、休めてもいなかったことだ。
手の甲には細かな傷があり、袖口からのぞく腕にも擦り傷が残っている。
大きく息を吸うように言うと、二人とも素直に従った。呼吸は乱れていないが、立ち上がって歩かせる前に休ませる必要がある。
「今日は、王宮へ戻ってからも休んでください」
「分かった」
「お兄様だけではありません。フィルもです」
「返事する前に言われた」
「先に言わなければ、別のことを始めるでしょう」
フィルは否定せず、ディアルも何も言わなかった。
二人とも思い当たるのだと、アリスには分かった。
水と、胃に負担の少ない食事が運ばれてくる。
フィルは器を受け取ると、すぐに一口飲んだ。
「おいしい」
「ゆっくり召し上がってください」
「上でも食べたから、大丈夫だよ」
「上?」
「深いところから戻るまで、ずっと食べ物がなかったんだ。上の方まで来たら、食べられる魔獣がいたから」
軽く言われたが、何日食べていなかったのかを考えると、軽く受け取れない。
ディアルも食事へ手をつけながら、アリスを見た。
「崩落して、下へ落ちた。元の道がなくなったから、別の空洞を通って戻った」
「崩落……」
「二人とも落ちた時の怪我はないよ。風で止めたから」
フィルがすぐに付け足す。
「本当に?」
「うん。その後の方が大変だったかな」
「フィル」
ディアルが止めるように名を呼んだ。
「隠したら、アリスはもっと心配するよ」
「では、何があったのですか」
二人は顔を見合わせた。
先に答えたのはディアルだった。
「ガルドロックがいた」
「腹を空かせたまま、岩鎧獣とやり合ったのか」
近くにいたイーサックの表情が変わる。
「倒したのですか」
「ああ」
ディアルは短く頷いた。
「二人でね。あれが一番大変だったよ」
フィルが言う。
「その後にも魔獣の群れとか、落石とかはあったけど」
「それは十分に大変です」
「ガルドロックの後だったから、少し楽に感じたんだよ」
感じ方がおかしくなっています、と言いかけて、アリスは二人の顔を見た。
疲れている。
けれど、話す声はどこか楽しそうだった。
「上へ戻ってからも、お兄様は問題なく歩けたのですか」
「問題ない」
「天井へ頭をぶつけそうになってたけどね」
「当たっていない」
「俺が言わなかったら、当たってたよ」
「お前が横から話しかけるからだ」
「前を見てって言っただけだよ」
「その前には、脇道が気になると言っていただろう」
「だって、あんなところに道があったら気になるでしょ」
「帰るのが先だと言った」
「ちゃんと戻ったでしょ」
何日も帰れなかった二人とは思えない話だった。
アリスが呆れていると、ハリエットのそばに伏せていたピレスが顔を上げた。
ゆっくり立ち上がり、フィルへ近づく。
「どうしたの、ピレス」
ハリエットが呼んでも、ピレスはフィルから目を離さなかった。
長い毛を揺らして顔を近づけ、防具の胸元へ鼻先を寄せる。
「何もないよ」
フィルが上体を引いた。
ピレスも一歩進む。
「フィル」
アリスが名を呼ぶと、フィルは目を逸らした。
隣で、ディアルが食事を続けている。
「お兄様」
「俺は何も隠していない」
「フィルは隠しているのですね」
「隠してるというか、安全に運んできたというか」
フィルはしばらくピレスと見つめ合った。
先に諦めたのはフィルだった。
防具の内側へ手を入れ、両手で包めるほどの卵を取り出す。
「洞窟で見つけたんだ」
「先ほど話していた、脇道でですか」
「うん。少し入ったところにあった」
「どうして、卵を持ち帰っているのですか」
「育てたいから」
迷いのない答えだった。
卵を抱える手つきは慎重で、大事な物を見せるようにアリスへ向けている。
「お兄様もご存じだったのですか」
「帰る途中で見せられた」
「止めなかったのですか」
「アリソンなら、見つけた場所へ戻せと言うかもしれないとは言った」
「だから、防具の中に隠したのですか」
「揺れないように、布で包んであったよ」
「そういう問題だけではありません」
アリソンが、卵とフィルを交互に見た。
いつもの笑顔は消えていない。
「私が必ずお戻しすると、決まったわけではございません」
「本当?」
「まずは卵の状態を確認いたします。こちらで判断できないことも含め、持ち帰って相談しましょう」
フィルの顔が明るくなる。
「では、育ててもいい?」
「まだ決まっておりません」
明るくなった顔が、少しだけ戻った。
「ですが、お二人を洞窟へ戻すような話を、今ここでするつもりもございません。食事を終えたら帰りましょう」
「うん」
フィルは素直に頷き、卵を抱え直した。
ピレスは卵へ鼻先を向けたが、それ以上近づかなかった。ハリエットの隣へ戻り、静かに座る。
その場で、卵が何の魔獣なのかを答える者はいなかった。
育てるかどうかも、まだ決まっていない。
それでもフィルが嬉しそうに卵を見るので、アリスまで少しだけ先を楽しみに思った。
フィルが食事の続きを口へ運ぶ。
その隣では、ディアルが空になった器を膝の上に置いていた。
いつも見ていたはずの光景に、また胸が詰まった。
「お兄様、フィル」
二人がアリスを見る。
「私は、本当に心配したのです」
胸の前で、両手を握る。
「毎日ここへ来て、入口を見ていました。十日目には中へ入ろうとして止められて、今朝はもう、何を言われても行くつもりでした」
フィルが、抱えた卵から顔を上げた。
「ごめん、アリス」
軽口のない声だった。
「俺たちも、早く帰りたかった。帰ったらアリスに何を言われるかなって、話してたんだ」
ディアルも器を置く。
「心配をかけた。すまない」
「もう二度と心配させない、とは言わないのですね」
「それは約束できない」
ディアルらしい答えだった。
アリスは眉を寄せたが、隣でフィルも困ったように笑っている。
「でも、俺たちも帰りたいと思ってたよ。アリスのいるところへ」
フィルは困ったような顔のまま、そう言った。
「……それなら、よいです」
アリスは一度、唇を結んだ。
「今は、です。帰ったら、まだお話ししたいことがあります」
「聞く」
ディアルが頷いた。
「俺も」
フィルも、アリスの顔を見て頷いた。
心配が全部消えたわけではない。
怒っていることも、帰ってから伝えたいことも残っている。
それでも、二人が言葉を軽く流さず受け止めてくれたことは分かった。
◇◇◇
食事と確認が終わる頃には、朝の光が森の奥まで届いていた。
帰城の支度が整い、皆が歩き始める。
疲れの残る二人に合わせ、いつもより遅い歩調だった。
アリスは、ディアルとフィルの間に並んだ。
「帰ったら、何がしたい?」
フィルがディアルへ尋ねた。
「風呂に入りたい」
「俺も。髪の中に、まだ砂がある気がする」
「気のせいではないだろう」
ディアルがフィルの頭へ手を伸ばし、髪に絡んでいた小さな欠片を取った。
「ほら」
「それ、いつから入ってたんだろ」
「知らん」
二人が笑う。
アリスも、少し笑った。帰ってから話したいことばかり考えていたが、まずは二人をさっぱりさせて、寝台へ送り出さなければならない。
「その後は、お休みくださいね」
「寝るよ。ちゃんと寝台で」
「フィルは、まだお話の途中で寝てしまいそうです」
「そうなったら、起きてから続き聞くから」
「約束ですよ」
「うん」
木の根が張り出したところで、ディアルが足を止めた。
フィルがそれを跨ぐまで待ち、アリスにも手を差し出す。
その手を取って越えると、今度は少し先へ進んだフィルが振り返っていた。
「ディアル、こっちの方が歩きやすいよ」
「ああ」
二人とも、疲れている。
それでも、相手を待つ時の顔まで苦しそうではなかった。名前を呼び、返事をして、また並ぶ。それだけのことが、アリスには少し違って見えた。
洞窟へ入る前から、二人は仲がよかった。
何が変わったのかは、うまく言えない。
中で起きたことも、まだ全部は聞いていなかった。
「二人で先へ行かないでください」
アリスが言うと、フィルが足を止めた。
「待ってるよ」
ディアルも振り返り、隣を空けてくれた。
アリスは二人の間へ戻った。
前を歩くカリーナがこちらを確かめ、歩調を緩める。ハリエットもピレスの傍らから振り返った。
急ぐように言う者はいなかった。
三人は皆と一緒に、朝の森を王宮へ向かった。
ハリエットの魔獣2体目です。
カヌは小さいイタチのような魔獣で、ハリエットの執事です。
従えてる魔獣のリーダー的存在でもあります。




