第四十一話 一人にしない
ぽたり、と水が落ちた。
少し間を置いて、また一滴。
小さな火は、さっきと同じ場所に浮かんでいる。薄い光の中で、ディアルは静かに座っていた。
俺も動けなかった。
何かを言わなければと思う。
でも、急いで選んだ言葉で返してはいけない気がした。
膝の上で手を組み、火を見る。
母親を殺した者を見つけて、自分の手で討つ。
それが生きる意味だと、ディアルは言った。
目の前にいるのは、いつもの兄だ。
空腹で疲れ切っていても、先に立ち上がって俺へ手を差し出す。帰ればまた稽古をして、食事をして、俺のくだらない話にも付き合ってくれる。
そのディアルが、俺の知らないところでずっと一人で抱えていた。
「あのさ」
ようやく声を出すと、ディアルがこちらを見た。
「復讐しないっていうのは、駄目なの?」
ディアルの表情は変わらなかった。
「今の暮らしを続けるのも、俺はいいと思う。皆と一緒にいて、これからも普通に暮らしていくの」
言ってから、少し違う気がした。
普通に暮らしているように見えた今までにも、ディアルは復讐のことを考えていたのだ。
「やめるつもりはない」
返ってきた声は静かだった。
怒ってもいないし、俺を責めてもいない。
ただ、動かない。
「母上を殺した者がいる。それを知りながら、何もせずに生きていくつもりはない」
「……そっか」
それ以上、やめた方がいいとは言えなかった。
復讐してもシーナ様が帰ってくるわけではない。そんなことは、ディアルだって分かっているはずだ。
それでもやると決めている。
俺が何か正しいことを一つ言えば変わるような、軽い決意ではなかった。
では、俺に何ができるのか。
復讐はよくないから、忘れて皆と幸せに暮らそう。
そう言って終われたら簡単だ。でも、ディアルだけを置いて、俺が先にいつもの暮らしへ戻るような気がした。
ディアルは、相手が誰であっても届くように強くなると言った。
誰にも気づかれないように調べて、一人で見つけて、一人で討とうとしている。
それが終わるまで、この人はきっと先へ進めない。
なら、俺も手を貸して、少しでも早く終わらせたい。
帰ってからの話をする時、ディアルにも、やりたいことを考えてほしい。仇を見つけるための準備だけじゃなく、その次の日のことも。
終わらせれば全部うまくいくとも思えない。相手が簡単に見つかる保証も、ディアルの望む通りになる保証もない。
それでも、独りで抱えたまま歩かせたくはなかった。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
ディアルの眉が、わずかに動いた。
「まずは調べるところから。誰がシーナ様を殺したのか、何があったのか。一緒に探そう」
「駄目だ」
断られるとは思っていた。
でも、思っていたよりずっと早かった。
「まだ最後まで言ってないよ」
「聞かなくても分かる」
「分からないかもしれないでしょ」
「お前は手伝うと言った」
「そこは合ってる」
ディアルは小さく息を吐いた。
怒っているのではなさそうだ。困っている時の顔に近い。
「お前を巻き込むつもりはない」
「もう聞いたけど」
「聞くことと、関わることは違う」
「ディアルのことなら、俺にだって少しくらい関係あるよ」
「これは俺の問題だ」
「兄の問題は、弟には関係ないの?」
「そうは言っていない」
「じゃあ、どういうこと?」
ディアルはすぐには答えなかった。
「俺一人なら、何があっても自分で選んだ結果だ。だが、お前に何かあれば、そうは思えない」
「俺も自分で選ぶよ」
「危険を分かっていない」
「相手も分からないんだから、どのくらい危険かは分からないよ。でも、安全じゃないことくらいは分かる」
怖くないとは言えなかった。
ディアルが届くために強さを求める相手だ。何も知らない今でも、簡単ではないことだけは想像できる。
だからこそ、一人で行かせたくなかった。
「聞いたのに、何も知らない顔をして待ってるのは難しいよ」
ディアルは返事をしなかった。
火の明かりが揺れ、目元の影が少し動く。
「話せば、お前は手伝うと言うと思っていた」
「俺のこと、よく分かってるね」
「だから話さなかった」
軽く返した言葉が、そこで止まった。
ディアルは俺を遠ざけたかったわけではない。
自分がしようとしていることへ、俺を近づけたくなかったのだ。
「それも、隠していた理由の一つだ」
母親を殺した相手を探す。
その先で、討つ。
何が起きるのか分からない。相手さえ分かっていないのだから、安全だと言えるはずもなかった。
俺に黙っていれば、ディアルは全部を一人で背負うことになる。
俺を守ろうとしているのは分かる。
でも、それで頷くつもりはなかった。
さっき、拾ってくれた礼を言うと、ディアルは自分でそうすると決めたのだと答えた。
なら、今度は俺が決める番だ。
助けてもらったから返さなければならない、という話でもない。貸し借りを数え始めたら、俺の方がずっと多く借りている。
それを全部返せるとも思っていない。
ただ、俺はディアルの弟でいたい。
守られる時だけ弟になって、大変なことは兄一人へ任せる。それでは、あまりにも都合がいい。
「俺は、聞いたから手伝うんじゃないよ」
「何?」
「聞いて、自分で手伝いたいって決めたの」
ディアルが黙る。
俺は一度息を吸った。
空腹のせいか、胸の辺りまで重い。それでも、今は目を逸らしたくなかった。
「調べるところから俺も手伝う。一人で探すより、二人で探した方が早いかもしれないでしょ」
「見つけるまでの話ではない」
「分かってる。仇を討つんだよね」
口にすると、重かった。
犯人を見つけて、よかったねと終わる話ではない。ディアルはその先まで話した。そのうえで、俺を関わらせたくないと言っている。
「それも含めて、手伝うよ」
ディアルが俺を見た。
「お前まで背負う必要はない」
「必要かどうかじゃなくて、俺がそうしたいの」
手伝えば、もうディアルだけのしたことではなくなる。
何も知らなかった頃と同じ顔では、いられないだろう。終わった後に何が残るのかも、今の俺には分からない。
それでも、調べるところだけ付き合って、後は兄に任せるつもりはなかった。
「ディアルが一人で終わらせるのを待ってるより、一緒に終わらせたい。その後も、俺は隣にいるよ」
ディアルの指が、膝の上でわずかに動いた。
まだ何か言おうとしている。
「半分持てるかは分からないけど、端っこくらいは俺にも持たせてよ」
ディアルは何も言わなかった。
断る言葉を探しているのかもしれない。
俺は待った。
水が落ちる。
一滴。
また一滴。
やがて、ディアルの肩がわずかに下がった。
大きく変わったわけではない。
張ったままだった糸が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「危険だ」
「うん」
「何が起きても、お前を守れるとは限らない」
「それも分かってる」
「お前は、自分のことを後回しにする」
「ディアルにだけは言われたくないなあ」
今度は、すぐに返事が来なかった。
ディアルの口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「……そうだな」
声も、さっきよりわずかに柔らかい。
それだけで、断るための話ではなくなったと分かった。
「フィル」
「うん」
「手を貸してくれ」
「もちろん」
ようやく、頼んでくれた。
俺も肩の力が抜けた。
火の向こうで、ディアルが長く息を吐いた。
少しだけ顔を上げ、暗い天井を見る。
俺には、その横顔が先ほどまでより楽になったように見えた。
これから考えることは、きっと増える。
けれど、ディアルが次に何かを見つけた時、俺には話してくれる。
そう思うと、少し嬉しかった。
また水が落ちた。
俺たちはしばらく何も言わず、その音を聞いていた。
話し終えたからといって、すぐに立ち上がる気にはなれなかった。
腹は空いたままだし、脚の重さも消えていない。
「まずは、ここから帰らないとね」
「分かっている」
「戻ったら、まず食事だよ。調べ物はその後」
「お前に言われなくても食べる」
「二人分の仕事を一人で始めそうだから、念のため」
「まだ何もしていないだろ」
「だから、先に言ってるの」
いつもの答えだった。
俺は岩へ手をつき、立ち上がろうとした。
腕に力を入れて、途中で止まる。
「今のは?」
「立つ準備」
昨日から使っている言い訳を返すと、ディアルが手を差し出した。
「準備が長い」
「慎重なんだよ」
その手を掴み、互いの動きに合わせて立ち上がる。
今度は、俺から手を離さなかった。
ディアルが不思議そうにこちらを見る。
「端っこを持つ練習」
「歩きにくい」
「それは困るね」
手を離し、小さな火を前へ送った。
薄暗い通路を、また二人で歩き始める。
◇◇◇
しばらく進むと、細かった通路が左右へ広がった。
火を先へ送る。
光が届いた場所で、低い岩山のようなものが動いた。
最初は、壁から崩れた岩の塊に見えた。
けれど、その下から太い脚が一本、ゆっくり前へ出た。
岩と鉱物の板を重ねたような外殻。大きな四足の体は、俺たちが二人並んだ幅より広い。頭を低くしたまま、こちらへ向き直る。
通路の両側には隙間がある。けれど、あの前脚が一度横へ動けば届きそうな幅しかなかった。
気づかれずに端を抜けるには、もう近すぎる。
脚の付け根には、厚い殻が途切れる細い継ぎ目があった。体の下側も、背中ほど硬そうには見えない。
硬い前脚が床を擦り、耳に障る音が響く。
「ガルドロックだ」
ディアルが声を落とした。
「知ってるの?」
「岩鎧獣だ。重くて、頑丈だ」
見れば分かる、とは言わなかった。
普段なら、突っ込んでくるところを避け、横へ回ればいい。
今の脚で、いつもと同じように動けるなら。
ガルドロックの向こうにも、空間は続いていた。引き返すことはできる。だが、前へ進むなら、あの巨体のそばを抜けなければならない。
「食べられそうにはないね」
「見れば分かる」
「言うと思った」
ガルドロックが、重い体を沈めた。
前脚が床を踏むたび、細かな石が震えた。
持ち上がった頭の外殻が、火を鈍く反射する。
分厚い殻を正面から砕こうとすれば、魔力をかなり使いそうだ。
倒せればそれで終わりではない。その後も、俺たちは歩いて帰らなければならない。
俺は腰の刀へ手をかけ、ゆっくり抜いた。
隣で、ディアルも剣を抜く。
刀を持つ手に、いつもより力が要った。
ディアルも足元を確かめ、一歩ずつ構えを整えている。
「行ける?」
「誰に聞いている」
「俺の兄に」
ディアルはガルドロックから目を離さなかった。
「行くぞ、フィル」
「うん」
俺たちは並んで武器を構えた。




