第四十話 同じ日々の中で
十日目になっても、元の通路には戻れていなかった。
五日目に見つけた上向きの道は、確かに俺たちを少しずつ上へ運んだ。
ただし、まっすぐではない。
斜めに上った先で下り坂へ変わり、広い空洞を抜けたら、三つの行き止まりが待っていた。戻って別の穴へ入り、また風の向きを確かめる。
つけた印は増えた。
上へ進んだ距離も、たぶん増えている。
外までの距離は、まだ分からない。
崩落してから、一度も食べ物を口にできていなかった。
水は飲める。けれど、それだけで歩き続けるのは、思っていたよりずっとつらい。
脚が重かった。
道が上り坂へ変わるたびに、またか、と思う。上へ進みたいのに、足を持ち上げることが億劫だった。
休めば少しは楽になる。
それでも、立ち上がった時には、さっきまでの疲れがまだ体に残っていた。硬い岩に寄りかかって眠っても、すっきり目が覚めることはない。
「少し休もうか」
俺が言うと、ディアルはすぐに頷いた。
以前なら、あと少し進んでからと言ったかもしれない。
壁際へ腰を下ろす。
岩へ背を預け、膝を伸ばした。もう少し楽な姿勢を探したかったが、座り直すのも面倒だった。
先を照らしていた火を引き寄せる。
明かりは、魔法で出したこの火だけだ。
洞窟へ入った時より、ずっと小さくしていた。まだ魔法は使える。けれど、あと何日ここにいるのか分からない以上、照明にも余計な魔力を使いたくなかった。
移動する時は足元と、その少し先が見えるだけ。
座っている今は、俺たちの膝と、すぐそばの岩がぼんやり浮かんでいる。その外側は、暗く沈んでいた。
水を作り、二人で飲む。
喉は潤った。
空腹も、体のだるさも、そのままだった。
「次は、俺が先を見るよ」
「さっきも、お前だった」
「そうだっけ」
「俺が行く」
ディアルは立とうとして、一度膝へ手をついた。
そのまま、少し待つ。
「大丈夫?」
「問題ない」
「今の間は?」
「立つ準備だ」
「それなら、俺も毎回してる」
少し笑うと、ディアルの口元もわずかに緩んだ。
ディアルがゆっくり立ち上がり、こちらへ手を差し出した。
差し出された手を掴み、俺も立ち上がる。
ディアルは足を踏ん張り、俺が体を起こすのに合わせて引いてくれた。立ってからも、手を離すまでに少し時間がかかった。
冗談を言ったところで、脚は重いままだ。
それでも、黙って立ち上がるよりはよかった。
火を前へ送り、照らされた足元を確かめる。
歩く速さは落ちた。休む回数も増えた。
分かれ道では二人で相談し、不安定な足場は確かめてから進む。先を急ぎたい気持ちはあったが、道を間違えて引き返す方が、今はこたえる。
そうして十日目も、少しずつ進んだ。
◇◇◇
十一日目。
上へ続く細い道を抜けた先で、俺たちは足を止めた。
天井は高くないが、二人で並んで座れるくらいには広い。壁際の岩も乾いている。
今日はここへ来るまでに、何度も休んでいた。
ディアルは何も言わず、壁へ背を預けた。
俺も隣へ座る。
防具が岩に擦れる音がやむと、洞窟は静かになった。
ぽたり、と水の落ちる音がした。
少し間を置いて、また一滴。
火の届かない奥のどこかで、水が滴っている。俺たちが動かずにいると、その音だけが暗がりに響いた。
小さな火を、二人の前へ浮かべる。
ディアルの横顔が薄く照らされた。目元には影が落ちていて、目を閉じているのか、俯いているだけなのかは分からなかった。
俺も頭を岩へ預けた。
疲れた。
口にするのも今さらなくらい、疲れていた。
腹は空いているし、肩も背中も痛い。座っただけでは楽にならず、かといって、また歩き出す気にもなれなかった。
しばらくは、二人とも何も言わなかった。
水音を聞きながら、ぼんやり火を見ていた。
王宮の食卓なら、こんなに長く誰も喋らないことはない。
そう思うと、あそこに集まる顔が一人ずつ浮かんできた。
「今頃、みんな何してるかな」
しばらくしてから尋ねた。
「俺たちを待っている」
「だよね」
アリスは、入口まで来ているかもしれない。
五日で戻ると言った覚えはないけれど、普通ならそれくらいだとは知っている。きっと、初めのうちは大人しく王宮で待とうとしていただろう。
今も大人しく待っているかは、ちょっと怪しい。
「アリス、怒ってるかな」
「怒るより先に治療しようとする」
「怪我はないって言っても?」
「確認するまで信じない」
その姿が簡単に浮かんだ。
フィルは平気だと言って無理をするから駄目です。そんなことを言いながら、頭から足まで確かめるのだろう。
「カリーナは、泣きそうだね」
「先に抱きつく」
「俺にも?」
「たぶん」
「それは覚悟しておこう」
ウルスナは、表情をあまり変えない。
でも今頃は、洞窟の入口を何度も見ているかもしれない。
イーサックは、俺が寄り道をしていると言うかもしれない。アリソンは笑顔で予定を組み直しながら、帰った後の報告を増やしそうだ。
ヴィルツは、俺たちが出てくるまで姿勢を崩さず待っていそうである。
「ハリエット様も、来てるかな」
「話を聞いていれば」
「また抱きつかれるね」
「お前もだ」
「俺、誕生日じゃないんだけどなあ」
誕生日の夜にも、同じことを言った。
あの時は、翌日にこんなに長く洞窟へいるとは思っていなかった。
それでも、帰った後の光景は変わらず思い浮かぶ。
食卓ではアリスが俺たちを叱る。ウルスナとカリーナが食事を運び、アリソンが次の予定を持ってくる。
イーサックには、どうして予定より遅くなったのか聞かれる。
稽古も、勉強も、仕事も待っている。
何もしないで寝転がる時間は、あまり長くなさそうだ。
「帰ったら、忙しいね」
「嫌なのか」
「全然」
すぐに答えた。
「寝転がる時間はほしいけど、皆がいる方がいいよ」
朝になれば、同じ食卓へ集まる。
予定が違えば別々の場所へ行き、終わればまた顔を合わせる。街へ出れば話しかけてくれる人がいて、帰れば自分の部屋がある。
遠くへ行っても、最後には王宮へ戻る。
今まで、わざわざ一つずつ数えたことはなかった。
どれも、もうそこにあって当然のものだったからだ。
「帰ったら、アリスに叱られて、皆に質問されて。それが終わったら、また次の日が来るでしょ」
「そうだな」
「俺、そういうのがいい」
ディアルは火の向こうを見たまま、黙っている。
話していると、帰りたい気持ちが強くなった。
同時に、言っておきたいことが浮かんだ。
今でなければ言えない、という話ではない。
ただ、帰った後のことを並べたら、その全部の始まりにディアルがいたことを思い出した。
「ディアル」
「何だ」
「俺を拾ってくれて、ありがとう」
ディアルがこちらを見た。
「急にどうした」
「帰った後のことを考えてたら、言いたくなった」
俺がこの国で暮らしているのは、ディアルが街道の脇で見つけてくれたからだ。
言葉の分からなかった俺を連れて帰り、国王陛下に頼み、家臣としてそばへ置いた。
いつの間にか、それが普段の暮らしになっていた。
「礼を言われることではない」
「どうして?」
「俺がそうすると決めた」
「だからだよ」
ディアルが決めてくれなければ、今の暮らしはなかった。
本人にとって当然の選択だったとしても、俺にとっては感謝する理由になる。
「俺が言いたいから、受け取っておいて」
「分かった」
ディアルは少しだけ視線を外した。
「王宮で暮らして、皆と食事して、街にも行って。稽古は、もう少し優しくてもいいと思うけど」
「嫌なら減らすか」
「それは、それで困るかな」
「どっちだ」
「痛くないくらいに強くなれたら、一番いい」
「無理だな」
「やっぱり?」
少し笑った。
笑った後で、続ける。
「俺、この国での暮らしが好きだよ。今、すごく幸せだと思ってる」
声にすると、思っていたより簡単だった。
感謝を伝えたかっただけで、最後の別れをするつもりはない。
俺たちは帰る。その後も、同じ食卓で食事をする。
その前に、今まで言っていなかったことを言っただけだ。
ディアルは膝へ置いていた手を見た。
指が一度、ゆっくり開く。
「そうか」
返ってきたのは、短い言葉だった。
けれど、聞き流した声ではなかった。
「うん」
「不満があるとしたら、ディアルが何か隠してることくらいかな」
俺は続けて、隣を見た。
「……俺が?」
「うん。弟にくらい、教えてくれてもいいんじゃない?」
少し笑って言った。
ディアルは笑わなかった。
「何の話だ」
「それが分からないから、気になるんだよ」
レアリードにいた時から、時々感じていた。
倒れた魔物へ、いつまでも風を送り続けていたこと。帰ってから、稽古が前より厳しくなったこと。
強くなりたいのは、俺も同じだ。
けれど、ディアルが何を見ているのかは、隣にいても分からない時があった。
「何かあるんでしょ?」
ディアルは膝の上へ目を落とした。
俺は水を少し飲んで、返事を待った。
いつもなら、とっくに何か返ってきている。
器代わりにしていた氷を足元へ置いた頃、ディアルがこちらを見た。
「フィル」
「うん?」
「母上は、殺された」
手を引くのが止まった。
「……シーナ様が?」
「ああ」
ディアルは俺を見ていた。
聞き間違いではなかった。
俺は手を膝へ戻した。
「誰に?」
「まだ分からない」
「何があったの?」
「そこまでは、分かっていない」
母親が亡くなっていることは知っていた。
けれど、誰かに殺されたのだとは思っていなかった。
「自分で気づいたんだ。母上は、ただ亡くなったのではないと」
ディアルは正面へ目を戻した。
「父上なら、何か知っているかもしれない」
「陛下には、聞いてないの?」
「聞いていない」
「どうして?」
ディアルの視線が、火の向こうで止まった。
「俺が気づいたことを、悟られたくない」
声は低かった。
けれど、言葉に詰まる様子はなかった。
「何を調べるつもりなのかも、その先で何をするつもりなのかも、知られずにいたい」
「その先……?」
「母上を殺した者を見つける」
ディアルは、膝の上で手を重ねた。
「そして、俺の手で討つ」
火が揺れ、壁に映った影も動いた。
俺はディアルの横顔を見ていた。
「そのために、強くなろうとしてたの?」
「ああ」
短い返事だった。
「相手が誰であっても、届くように」
倒れた魔物へ吹き続けた風を思い出した。
あの時、俺はもう倒したのだと思っていた。なのに、ディアルは止めなかった。
「試練を終えたら、本格的に調べ始めるつもりだ」
「帰ってから?」
「ああ。十歳になれば、任されることも増える。今までより、自分で動けるようになる」
誕生日の夜、皆が二人を祝っていた。
ディアルは礼を言い、次々に声をかけてくる人たちへ応じていた。
あの日を、俺とは違う意味でも待っていたのだ。
「誰にも気づかれないように?」
「そのつもりだ」
知っているかもしれない相手にも尋ねず、自分で探すと決めている。
その先で何をするのかまで、隠したまま。
ディアルがこちらを向いた。
「母上を殺した者を見つけて、討つ。それが、今の俺が生きる意味だ」
何か言おうとして、言葉が出なかった。
膝へ置いた自分の手を見る。
昨日、立ち上がる時には引っ張ってもらった。こんな場所でも、俺のことは気にかけてくれる。
その手を借りながら、俺は兄が誰にも頼らずにしようとしていることを、何も知らなかった。
俺は顔を上げた。
ディアルはもう話し終えたように、静かに座っていた。




