第三十九話 入口で待つ
洞窟の入口は、森の奥で黒く開いていた。
アリスはカリーナと並び、その前に用意された天幕へ向かった。
王宮から歩いて二時間。
いつ二人が出てきても迎えられるよう、公務を終えてから来たのだ。
「まだ、お戻りではないのですね」
入口近くにいたウルスナが、静かに頷いた。
「はい。中からの物音もございません」
アリスは洞窟を見る。
奥は暗く、外からでは何も分からない。
「今日で五日目ですよね」
カリーナが言った。
「普通なら、そろそろでしょうか」
「あの二人なら、朝のうちに出てきてもおかしくなかったけどな」
イーサックは、入口の脇へ座ったまま答えた。
「フィルが中で面白いものでも見つけたんだろ。ディアル様を連れ回してるんじゃねえか?」
「お兄様が、止めると思います」
「一緒に見に行ってるかもしれねえぞ」
そんな二人を想像すると、少しだけおかしかった。
フィルなら、気になるものを見つければ足を止めそうだ。何をしているのかとディアルが覗き込み、結局、二人で確かめている姿まで浮かんだ。
「では、今日中には戻りますね」
アリスが言うと、イーサックは笑った。
「そう思いますよ。腹を空かせて出てくるでしょうから、食事でも用意して待ちましょう」
期限は二週間ある。
五日は、これまで試練を受けた王子たちが戻る、おおよその日数に過ぎない。
アリスは、カリーナと一緒に迎える準備を始めた。
食事は温かいものをすぐ出せるようにしてもらう。水と布を並べ、怪我があった時に使う物も確かめた。
「お二人なら、治療の必要はないかもしれませんね」
カリーナが言う。
「なくてもよいのです。でも、戻ってから用意していては遅いですから」
「お二人とも、戻ったらすぐにお休みになるでしょうか」
「その前に、お話を……」
言いかけて、アリスは口を閉じた。
「食事と、休息が先ですね」
「お話を聞く椅子も、用意しておきます」
カリーナは笑いながら、並んだ布の端を整えた。
アリスも少し笑った。
フィルなら、自分は元気だから食事だけでいいと言うかもしれない。ディアルは必要がないと判断すれば、そのまま報告を始めようとするだろう。
二人とも、まず座らせなければならない。
帰ってきた時に言うことまで考えながら、入口の見える場所へ椅子を移した。
アリスはもう一度入口を見てから、天幕へ入った。
◇◇◇
昼を過ぎ、森の影が長くなっても、二人は戻らなかった。
自分の夕食にも手をつけた。隣でカリーナが食べ始めてから、ようやく匙を取った。
温かかったはずなのに、何を食べたのかはあまり覚えていない。
食事が済むと、アリソンが翌日の予定を確かめに来た。
「明朝、王宮へお戻りになる手配でよろしいでしょうか」
「はい」
返事をしてから、アリスは入口へ顔を向けた。
「私が休んでいる間に二人が戻りましたら、すぐに知らせていただけますか」
「もちろんです」
「王宮に着いた後でもです」
「最も早い手段でお伝えいたします」
いつもの笑顔で答えられ、アリスは頷いた。
暗くなってからは、入口の前に灯りが増やされた。
出てきた二人の顔も、足元も、すぐに見える。アリスは椅子を少し入口の方へ寄せた。
アリスはその光が揺れるたび、何かが動いたのではないかと顔を上げた。
風で葉が鳴っただけだった。
「……やはり、遅くありませんか」
近くにいたイーサックへ尋ねると、彼も一度入口を見た。
「まだ五日目です。フィルの寄り道に付き合ってたら、一日くらいはすぐでしょう」
「お兄様に、早く戻ろうと言ってほしいです」
「帰ってきたら、二人に言ってやってください」
アリスは頷いた。
そういう話なら、いつもの二人と変わらない。危ないことがあったのではなく、何かに夢中になっているだけ。
昼間には笑えた想像を、今は何度も頭の中で繰り返した。
「アリス様」
カリーナが、肩へ上着を掛けた。
「今夜はこちらでお休みください。私も一緒におります」
「眠れるでしょうか」
「横になっているだけでも違いますよ」
「カリーナも、ですよ」
「はい」
二人で天幕へ戻る。
入口から離れすぎないところへ、寝台が用意されていた。
横になって目を閉じても、外の足音が聞こえるたびに耳が向く。
「フィルが、寄り道をしているだけでしょうか」
小さく尋ねると、カリーナも天幕の入口へ目を向けた。
「何かを見つけて、お二人で確かめているのかもしれません」
「そうですね。お兄様も一緒ですから」
アリスは自分へ言い聞かせるように頷いた。
明日の朝には、入口から二人の声が聞こえるかもしれない。
そう思って、もう一度目を閉じた。
◇◇◇
朝になっても、入口に変化はなかった。
アリスは朝早くに支度を整え、カリーナと王宮へ戻った。出発前にもう一度だけ振り返ったが、ウルスナが静かに見送っているだけだった。
公務を休むことはしなかった。
予定されていた面会を終え、医療施設ではセシリアの話を聞いた。廊下で足音がするたびに顔を上げそうになったが、話している相手へ目を戻した。
ここで待っているのも、人だ。約束して来てもらったのに、自分の心配だけを優先するわけにはいかない。
聞き取れなかったところは尋ね直し、次に必要なことを一つずつ確かめた。
用事が終わると、セシリアが机の端へ温かい飲み物を置いた。
「今日は、もうお休みください」
「ですが……」
「明日もお仕事がございます」
アリスは口を閉じ、両手で器を包んだ。
その日は、洞窟へ戻らなかった。
行こうと思えば行ける。
けれど、もう一度往復すれば、それだけで四時間かかる。昨日は寝台に横になっていても、外の物音ばかり聞いていた。
カリーナに促され、早めに部屋へ戻った。
眠る前に、連絡が来ていないかを一度だけ確かめた。
まだだった。
◇◇◇
次の日から、アリスは必要な公務を終えてから洞窟へ通った。
カリーナも一緒だった。
王宮で予定を整え、歩いて入口へ向かう。二人が戻っていないことを確かめ、その日の様子を聞く。
最初のうちは、待つ側にもまだ余裕があった。
「戻ったら、何を見てきたか、たっぷり聞いてやりましょう」
イーサックが言うと、そばにいたヴィルツも頷いた。
「私も伺いたいです」
「フィルのお話は、長くなりそうですね」
「ディアル様にも聞けば、半分くらいで済むでしょう」
その話を聞くと、アリスも少し笑えた。
七日目は午後になってから王宮を出て、入口へ着いた頃には、帰るまで二時間ほどしかなかった。
翌日は一時間早く着いた。
その次の日は、さらに一時間。
公務は削らなかった。カリーナや家臣と予定を相談し、空いた時間を入口で過ごすようにした。
同じ道を歩き、昨日と同じ椅子へ座る。待てる時間が長くなった分だけ、洞窟を見る時間も増えた。
待機している家臣たちも、冗談だけでは話さなくなった。
入口から音がしなかったか。森の中に別の出口がないか。過去の試練で、この日数までかかった者はいたか。
確かめられることは確かめても、洞窟の中だけは分からない。
内部を監視する仕組みはなく、二人がどこにいるのかも、何を選んでいるのかも見えなかった。
それでも、期限はまだ残っている。
帰りの時刻だけは、変えなかった。夕方にここを出れば、王宮で夕食を取り、次の日に備えて休める。
それはアリス自身も、カリーナと約束したことだった。
最初の日は、そのとおりに立ち上がれた。
次の日には、入口へ近づいてから、もう一度だけ中を見た。
さらに次の日は、帰り支度を始める声がしても、すぐには椅子から立てなかった。
「アリス様。もうすぐ、お約束の時刻です」
「……はい」
返事をしながら、洞窟を見る。
そこから一歩離れるまでに、また少し時間がかかった。
カリーナは腕を引かなかった。王宮へ着いてから休めるよう、帰り道の歩調だけを整えてくれた。
王宮へ戻る道では、後ろを振り返る回数が増えていった。
◇◇◇
十日目は、昼頃に入口へ着いた。
少しして、森へ続く道からハリエットの姿が現れた。
従える魔獣の背から降りると、ハリエットはその首元へ手を添えた。
「ありがとう、ピレス。急がせてごめんなさい」
ピレスはその手に鼻先を寄せた。
ハリエットはこちらを見つけると、すぐに歩いてきた。ピレスも、その隣へ静かについてくる。
あの魔獣となら、王宮とここを往復しても一時間かからない。
「まだ戻っていないと聞いたの。本当なのね」
挨拶より先に、そう尋ねられた。
その顔から、誕生日の夜の笑みは消えていた。
ハリエットはアリスの前で足を止めた。
「あなたも、今日来たの?」
「公務を終えてから参りました」
「昨日は」
「昨日も、その前もです」
ハリエットの視線が、アリスの靴へ落ちた。
毎日歩いた土が、きれいに落としきれず残っている。
「休んでいるのね」
「六日目は王宮におりました。その後も、夜は戻っております」
「そう」
短い返事だった。
それ以上は言わず、ハリエットは入口にいる家臣たちへ向き直った。
「状況を説明してください」
声は丁寧だった。
けれど、入口にいた者たちの姿勢が一斉に正される。
眉の寄せ方も、答えを待つ視線も、ラヤーナに似ていた。母親を前にすると緊張していた姉が、今はその母親と同じ顔をしている。
イーサックが立ち上がる。
「出発の日から、二人はまだ戻っていません。こちらで確認できた異変もありません」
「中の様子は」
「分かりません」
「誰も、確認へ入っていないのですね」
「はい」
短い返事の後、沈黙が落ちた。
ハリエットは洞窟へ目を向けた。
「期限まで、あと四日です」
アリソンが静かに告げる。
「知っています」
返事は早かった。
アリスも入口を見た。
試練が始まってから、一度も中の様子は分からないままだ。
二人を信じている。
フィルもディアルも、簡単に倒れるような人ではない。
それでも、無事であることを自分の目で確かめたい。
「お姉様」
呼びかけると、ハリエットがこちらを見た。
「私、中へ入ります」
「アリス様」
カリーナの声がした。
「入口で待っているだけでは、何も分かりません。お兄様たちを探しに参ります」
「私も行くわ」
ハリエットは迷わなかった。
アリスがカリーナへ向き直り、支度を頼もうとした時、イーサックが口を開いた。
ハリエットとアリスを、順に見ている。
「待ってください」
「止めるのですか」
ハリエットの声が低くなる。
「止めます」
イーサックは、いつもの軽い調子で笑わなかった。
「まだ期限の中です。あの二人が、自分たちで続けると決めて進んでる可能性もある」
「何か起きて、戻れない可能性もあります」
アリスが言う。
「あります」
否定されなかった。
「だから、俺も心配です。今すぐ入って確かめたい気持ちは、同じですよ」
イーサックは洞窟を見た。
「ですが、こちらから入れば、試練へ手を出すことになる。中で二人が何を判断して、どの道を進んでるのかも分からない。追えば、すぐ会えるとも限りません」
「では、何もせず待つのですか」
「今は」
短く答える。
「あの二人の力も、判断も知っています。だから、俺は期限までは待つと決めています」
「無事だと言い切れるのですか」
ハリエットが尋ねた。
イーサックは、すぐには答えなかった。
「言い切れません」
森の風が、洞窟の前を抜ける。
「言い切れないから、ここにいます。戻ってきた時、すぐ迎えられるように」
アリスは入口へ目を戻した。
暗い奥から、二人の姿は現れない。
信じることと、心配しないことは同じではなかった。
「……分かりました」
声に出すまで、少し時間がかかった。
ハリエットが何か言いかけ、唇を閉じた。洞窟へ視線を戻したまま、それ以上は命じなかった。
アリスは、支度を頼みかけたカリーナへ小さく首を振った。
待とうとは決めた。けれど、胸につかえているものは、そのままだった。
アリスは杖を両手で握り、洞窟の入口から目を離さなかった。
ハリエットは魔獣を従えています。
残りの4体も早く登場させたいです。




