第三十六話 十歳の夜
第3章、幕開けです。
「十歳のお誕生日、おめでとうございます」
ディアルとアリスが、揃って礼を返した。
王宮の広間には、二人を祝うために王族や貴族が集まっている。
俺はディアルの少し後ろに立ち、挨拶を終えた人と、次に来る人が入れ替わるのを見ていた。
今日だけで、もう何度おめでとうと言われたのだろう。
ディアルは相手の名前を間違えないし、アリスも笑顔を崩さない。主役というものは大変だ。
「フィル。安心していませんか」
次の人を待つ間に、アリスが小声で尋ねてきた。
「何を?」
「自分のお誕生日ではなくてよかった、と」
「顔に出てた?」
「少しだけ」
隣のディアルがこちらを見る。
「かなり出ていた」
「増えたね」
俺も七歳になったけれど、今日は家臣として二人の後ろにいればいい。
レアリードから戻って、二年。
稽古は前より厳しくなった。それぞれの仕事も少しずつ増えた。それでも、食事をして、学んで、稽古で痛い目に遭う毎日は変わっていない。
ただ、明日はディアルが王子の試練へ挑む。
連れていける家臣は一人。選ばれたのは俺だった。
「三人とも、楽しんでいますか」
よく通る声がして、アリスの背筋が伸びた。
金色の髪を整えた女性が、こちらへ歩いてくる。
第一王妃、ラヤーナ様だ。
今日も怒っているように見える。
会うたびに思うけれど、本当に怒っている時との見分け方が難しい。
「本日は、おめでとうございます」
「ありがとうございます、ラヤーナ様」
アリスが礼を返し、ディアルも頭を下げる。
ラヤーナ様は二人を順に見た。
「アリス。十歳になったからといって、すぐにすべてが変わるわけではありません。あなたは、これから何を続けますか」
急に難しい質問が来た。
けれど、アリスは少し考えただけで顔を上げた。
「医療施設へ通います。私一人でできることではありませんから、セシリアたちに教えてもらいながら、もっと多くの方を助けられるようになりたいです」
「自分一人でできないと分かっているなら、周りの言葉もよく聞きなさい」
「はい」
アリスの返事を聞き、ラヤーナ様は一つ頷いた。
「ディアル。あなたは明日ですね」
「準備は終えています」
「そうでしょうね」
確認するような視線を向けられても、ディアルの声は変わらない。
「形式ばかりが残った試練だとしても、自分の目で確かめるまでは決めつけないことです」
「はい」
ディアルの横顔を見て、稽古の時のことを思い出した。
レアリードから戻って以来、兄の中で何かが少しずつ強くなっている気がする。いつもと変わらず話していたはずなのに、ふと、こちらを見ていないように感じることがあった。
何を考えているのか、聞けないまま二年が過ぎていた。
今は、ラヤーナ様の言葉を聞いているだけだ。俺もそちらへ顔を戻す。
「フィル」
今度は俺が呼ばれた。
「はい」
「同行するのは、あなたですね」
「はい。ディアルと二人で行ってまいります」
「何をしに?」
「試練を終えて、二人で戻るためです」
少し考えてから答えた。
ディアルを守るため、と言えば聞こえはいい。でも、俺だけが守るつもりで行ったら、たぶん本人に怒られる。
ラヤーナ様は、俺からディアルへ視線を移した。
「あなたも同じ考えですか」
「そのためにフィルを選びました」
「よろしい」
冷たい声のまま、短く答える。
「では、二人で戻りなさい。アリスを待たせすぎないように」
「私ですか?」
「待つのでしょう」
「はい。もちろんです」
アリスが迷わず答えた。
ラヤーナ様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
見間違いかもしれない。
「今夜はあなたたちの祝いです。話を聞くばかりではなく、楽しみなさい」
そう言い残し、次の客人の方へ向かっていく。
アリスが息を吐いた。
「やはり、少し緊張します」
「怒ってなかったよね?」
「怒っていない」
ディアルが答えた。
「どうして分かるの?」
「分かるように話していた」
俺とアリスには、まだ少し難しい話し方らしい。
◇◇◇
しばらくして、マルティン様とカラフィ様が一緒にやってきた。
二人が並んで進むと、広間にいた人たちが自然に道を空ける。
「ディアル、アリス。十歳の誕生日、おめでとう」
マルティン様が先に言った。
「ありがとうございます、兄上」
「ありがとうございます」
「挨拶ばかりで、まだ何も口にしていないんじゃないか」
卓の方へ目を向けられ、アリスが少し困った顔をした。
「後ほど、いただきます」
「なら、次の方が来る前に行った方がいい。祝いの日に、主役が空腹で倒れては困るからな」
「そのようなことにはなりません」
否定しながらも、アリスの目が卓上の菓子へ向いた。
俺も同じものを見たので、たぶん食べたい気持ちは一緒だ。
「兄上はお優しすぎます」
カラフィ様が言った。
黒い髪をきれいに整え、いつもより胸を張っている。
「明日には王子の試練があるのです。祝いの席でも、その自覚を持たせた方がよいでしょう」
「自覚がないように見えるか?」
マルティン様に尋ねられ、カラフィ様はディアルを見た。
「いえ。ディアルなら、今の試練で苦戦するとは思いません。兄上も、そうお考えでしょう?」
「無事に戻ると思っている」
「ええ。私も同じです」
すぐに頷く。
同じようで、少し言葉が変わっている気がする。
「ただ、同行する家臣はずいぶん幼い。もっと経験のある者を選んでもよかったのではないか」
今度は俺へ視線が向いた。
「七歳になりました」
「年齢を確かめたのではない」
「幼いと言われたので、つい」
笑顔で返すと、カラフィ様の眉が寄った。
ここで怒らせるとアリスの誕生日まで台無しになる。俺はそれ以上、口を挟まなかった。
「フィルの実力は知っているだろう」
マルティン様が言った。
「ディアルが家臣として選んだ。それで十分だ」
「もちろんです。私も、選択そのものへ異を唱えたわけではありません」
カラフィ様はすぐに答えた。
そのまま、ディアルへ顔を向ける。
「だが、簡単な試練で余計な時間をかければ、周囲へ心配をかける。王子らしく振る舞うことだ」
「必要なことをして戻ります」
ディアルは短く返した。
声を荒らげたわけでもないのに、そこで話は終わったように感じた。
カラフィ様が何か続けようとした時、別の貴族からマルティン様へ声がかかった。
「兄上、次の方がお待ちです」
「ああ」
マルティン様は返事をしてから、もう一度こちらを見た。
「アリス。きちんと楽しめ。ディアルとフィルは、明日に備えて今夜は早く休むことだ」
「はい」
三人で答える。
カラフィ様も満足そうに頷き、マルティン様の隣へ並んで離れていった。
「最後は、マルティンお兄様のお言葉だったのですけれど」
アリスが小声で言う。
「一緒に返事をしたかったんじゃない?」
「そのようなものでしょうか」
ディアルは何も言わなかった。
俺たちは今度こそ卓の方へ向かった。
◇◇◇
宴が終わる頃には、足より顔の方が疲れていた。
同じ笑顔を長く続けるのも、案外大変である。
俺たちは人の少なくなった廊下を、部屋へ向かって歩いていた。
「お兄様、フィル。明日は早いのですから、すぐにお休みくださいね」
「アリスも主役だったんだから、休んだ方がいいよ」
「私は試練へ参りません」
「その代わり、待つんでしょ」
「当然です」
ラヤーナ様への返事と同じだった。
角を曲がろうとしたところで、柱の陰から金色の髪が覗いた。
「もう誰もいない?」
声を潜めて尋ねてきたのは、ハリエット様だ。
宴の間は、少し離れた場所から正式な祝いの言葉をもらった。その時の近づきがたい王女の顔は、もう消えている。
「片づけの方々はいらっしゃいます」
アリスが答える。
「母上は?」
「先ほど、お戻りになりました」
「そう。なら大丈夫ね」
何が大丈夫なのだろう。
尋ねる前に、ディアルが抱きしめられた。
「お誕生日おめでとう、ディアル!」
「姉上、先ほども聞きました」
「あれは第一王女として。今のは姉としてよ」
「違いは、抱きしめるかどうかですか」
「よく分かってるじゃない」
ディアルの声が少し苦しそうだ。
ハリエット様がようやく腕を緩める。
解放されたディアルが服を直している間に、次は俺と目が合った。
「フィルも、明日はよろしくね」
「はい。ディアルと一緒に――」
言い終わる前に抱きしめられた。
「俺は誕生日じゃないです」
「七歳も小さくて可愛いからいいの」
「よくありません。二人を離してください」
アリスが俺たちの間へ入ってくる。
ハリエット様は俺を放し、今度は両腕をアリスへ向けた。
「アリスも、お誕生日おめでとう」
「言葉だけで十分です」
「主役なのに?」
「主役だからです」
アリスが一歩下がる。
ハリエット様が一歩進む。
また一歩下がったアリスの背中が、壁に当たった。
「お姉様」
「冗談よ」
たぶん、全部ではない。
ハリエット様は笑って足を止めた。
「改めて、二人ともおめでとう。十歳になっても、私の可愛い弟と妹でいてね」
「それは、私たちが決めることではないのですか」
「私が決めることよ」
きっぱりと言われ、アリスがディアルを見る。
ディアルは反論を諦めた顔をしていた。
「次は、こんなに大勢を呼ばずにお祝いしましょう」
「お姉様は、宴がお嫌いなのですか」
「嫌いではないわ。王女として必要なら、きちんと出るもの」
ハリエット様は、誰もいない廊下を見回した。
「でも、好きな人たちと静かに過ごす方が、ずっと楽でしょう。本当は田舎で、のんびり暮らしてみたいくらい」
「何もしないで過ごすのって、いいですよね」
俺が頷くと、嬉しそうに腕を取られた。
「フィルなら分かってくれると思っていたの」
「仲間を増やさないでください」
アリスがすぐに引き離す。
「アリスは、のんびりしたくないの?」
「皆で過ごすのは好きです。ですが、お仕事も大切です」
「真面目ねえ」
「お姉様も、お仕事はきちんとなさっています」
「そこは否定しないわ」
ハリエット様が笑った。
明るいだけではなく、自分がやるべきことから逃げる人ではない。それをアリスも知っているから、田舎の話を本気で叱らないのだろう。
「帰ってきたら、また皆でお茶にしましょう。今日の話も聞きたいわ」
「今日の話ですか?」
アリスが首を傾げた。
「私もずっと見ていられたわけではないもの。母上と何を話したのかとか」
「お姉様が直接お聞きになっては?」
「あなたたちから聞きたいのよ」
少しだけ返事が速かった。
俺とアリスが顔を見合わせる。どうやら、ラヤーナ様の話し方を難しいと思っているのは俺たちだけではないらしい。
「フィル。今、何か思ったでしょう」
「皆でお茶、楽しそうだなって」
「本当に?」
「アリスもそう思うよね」
「はい。お茶は楽しみです」
そこだけ丁寧に答えたアリスを見て、ディアルが小さく笑った。
ハリエット様は俺たちを順に見てから、仕方なさそうに肩をすくめた。
「二人とも、十歳になったら口まで達者になったのね」
「俺は七歳です」
「あなたは前からよ」
それには反論しにくかった。
ハリエット様と別れ、俺たちはそれぞれの部屋へ向かう。
明日は、ディアルと二人で洞窟へ行く。
「フィル」
振り向くと、アリスがまだ廊下に立っていた。
「明日の朝、寝坊しないでくださいね」
「分かってるよ。おやすみ、アリス」
「はい。お二人とも、おやすみなさい」
手を振ってから、自分の部屋の扉を開ける。
ようやく笑顔を作らなくてよくなったのに、口元はまだ少し緩んだままだった。
王族が一気に出てきましたね。
私はハリエットが好きです。




