幕間 眠りのあとで
帰路について最初の夜、一行は街道沿いの宿へ入った。
夕食の席で、フィルは早く寝るようにと言われるより先に立ち上がった。今夜は何もしないという大切な用事があるらしい。
その用事を邪魔する者はなく、三人が部屋へ引き上げたあと、ウルスナも水差しを手に廊下を進んだ。
ディアルの部屋には、まだ灯りがついていた。
「お休みの前に失礼いたします」
卓には、エスティアで受け取った報告の控えが広げられている。
ディアルは顔を上げ、水差しを見てから、窓の外へ目を向けた。
「もう、そんな時間か」
「明日も早くに発ちます。続きは馬車の中になさいますか」
「あと一枚だ」
「では、お水を替える間に」
ウルスナが卓の端を整えている間に、紙をめくる音がした。振り返ると、報告はひと束にまとめられていた。
「これで終わりだ」
「はい。お預かりいたします」
受け取った束の角を揃える。上着を掛け、窓が閉まっていることを確かめたところで、背後から呼ばれた。
「体は、もう問題ないのか」
「普段の務めには差し支えございません。長く歩き続けることは、まだ控えておりますが」
「なら、お前も休め」
「フィル様のところを確かめましたら」
「もう寝ていると思う」
「私も、そう思います」
ディアルの口元がわずかに緩んだ。
灯りを落とし、隣の部屋へ向かう。
こちらは扉を叩いても返事がなかった。静かに開けると、フィルは寝台へ斜めになって眠っていた。片足が掛け布から出て、布の端は床まで垂れている。
確かに、何もしていない。
ウルスナは水差しを置き、落ちかけた布を引き上げた。フィルが小さく身じろぎする。しばらく待ったが、目を覚ます様子はなかった。
枕元には刀がある。
レアリードへ向かった頃、フィルはこの刀の反応に首を傾げていた。今は、戦いの話をする時にも、当たり前のように刀のことが出てくる。
ディアルもフィルも、いずれこうした経験を重ねると思っていた。新しい力を覚え、それを使う場所を知っていく。二人がそこへ進んだことに、驚きはない。
ただ、その話を聞く時間は楽しかった。
馬車の中でフィルが身振りを交えて話し、ディアルが短く訂正する。するとフィルは、そこは大した違いではないと抗議する。聞いているうちに、ウルスナもつい続きを促していた。
掛け布を肩まで戻し、寝台の下で片方だけ裏返っていた靴を揃える。
明日の朝は、ディアルよりこちらを先に起こした方がよさそうだった。
ウルスナはもう一度寝顔を確かめ、扉を閉めた。
◇◇◇
「もう一度だけ、見せていただいてもいいですか」
カリーナが両手を差し出すと、アリスは抱えていた杖を見下ろした。
「今日、三度目です」
「はい」
「覚えていらしたのですね」
「でも、明るいところと暗いところでは、違って見えるかもしれません」
アリスは卓上の灯りを見たあと、小さく息をついて杖を渡してくれた。
カリーナは椅子へ腰を下ろし、顔を近づける。
捻れた枝が球体を支えている。柄を両手に載せ、少し傾けると、見慣れていた木目が灯りの下を通った。
自分が贈った時とは、随分違う姿になった。
「やっぱり、変わるところを見たかったです」
「それも、三度目です」
「何度でも思います」
アリスが笑った。
カリーナが目を覚ました時には、戦いは終わっていた。黄金色の光が広がったことも、杖が形を変えたことも、あとから聞いた話だ。
もっと詳しく聞こうとすると、アリスは自分のことより、助かった人たちの話をする。誰が歩けるようになったとか、誰に礼を言われたとか。その話を聞くのも嬉しくて、カリーナは途中から一緒に喜んでしまう。
結局、杖のことはまた聞きそびれるのだった。
「カリーナは、そんなに嬉しいのですか」
「嬉しいですよ。アリス様は違いますか?」
「私も嬉しいです。ですが、カリーナは、ずっと……」
アリスが自分の頬を指した。
カリーナも片手で頬へ触れてみた。確かに、緩んだまま戻っていない気がする。
「仕方ありません。大事に使ってくださっていたのを、知っていますから」
形が変わらないままでも、アリスは杖を手放さなかった。自分には認めてもらえないのかと悩みながら、それでも贈り物だから使いたいと言ってくれた。
カリーナはそっと杖を返した。
「それに、あの時、ご自分から戦士の方の手を取られたでしょう」
そこは、覚えている。
留まってほしいと頼んだのに、アリスは目の前の苦しんでいる人へ手を伸ばした。
「何かできると思ったのです」
「はい」
「二人が倒れた時も。私が代わりに支えなければ、と」
アリスは柄を撫でた。
「この子も、手を貸してくれました」
「では、この子にもお礼を言わないといけませんね」
杖へ向かって頭を下げると、アリスが慌てて持ち直した。
「そこまでしなくても……」
「アリス様と、私たちを助けてくれたのですから」
顔を上げると、アリスは杖を抱えたまま照れくさそうにしていた。
ああ、やはり嬉しい。
カリーナは膝に手をつき、立ち上がった。
「これからは、私ももっとお役に立ちますね」
「十分、助けていただいています」
「もっとです」
言い切ったところで、足が少しもつれた。
椅子の背に手を置いて立て直す。何事もなかったように顔を上げたが、アリスはこちらを見ていた。
「カリーナ」
「今のは、椅子が少し近くて」
「座っていらした椅子です」
「……そうですね」
「今日は休んでください」
アリスは杖を寝台の脇へ置き、掛け布を引き寄せた。
「明日の朝も、見せてあげますから」
「本当ですか?」
「きちんと休まれたら、です」
今度はカリーナが、素直に頷く番だった。
◇◇◇
宿の裏手で、イーサックは剣の手入れをしていた。
布を滑らせた刃に、窓から漏れる灯りが映る。
森での戦いを聞いてから、妙に気分がよかった。
ディアルが強いことなど、今さら確かめるまでもない。幼い頃から剣を合わせてきたのだから、そこらの者よりよく知っている。
それでも、戦士たちを動かし、退く者にまで目を配っていたと聞いた時は、思わず詳しく話を求めた。
自分一人が勝つだけなら、あの子にはもっと簡単なやり方があったはずだ。
だが、そうはしなかった。
「大したもんだ」
布を持つ手が止まる。
稽古場で何度転がされても、ディアルは剣を拾って向かってきた。負けず嫌いで、強くなることに貪欲で、そのくせ褒められてもあまり顔には出さない。
今度の話も、本人に聞けば必要なことをしただけだと言うのだろう。
その澄ました顔が目に浮かび、イーサックは笑った。
可愛げがないようで、ある。こちらが感心している間にも、本人は話の続きを待っているようなところが、昔から変わらない。
フィルなら、もう少し分かりやすい。
褒めれば喜ぶし、調子にも乗る。稽古がきつければ、口を動かす余裕だけは最後まで残している。どこからそんな言い分が出てくるのかと、呆れたことも一度や二度ではなかった。
それが、あの森では火を敵へ絞り、周囲へ燃え移らせずに戦ったという。
普段の軽い調子だけを知る者には、結びつかないかもしれない。
イーサックには、分かる気がした。
あれは、考えていないから軽口を叩いているわけではない。こちらの説明に首を傾げたかと思えば、思いもよらない使い方を持ち出す。ふざけているのか確かめると、本人は至って真面目だったりする。
面白い奴だ。
そして今度の戦いで、その面白さに頼もしさが加わった。
自分の教えた二人が、あの森で人を助けて帰ってきた。
そのことが、ただ嬉しかった。
剣を鞘へ収め、宿の窓を見上げる。子供たちの部屋がある辺りは、もう暗い。
夕食を終えたフィルは、何もしないために寝るのだと言っていた。
「そりゃ、ご苦労なことだな」
独り言に、自分で笑ってしまった。
◇◇◇
裏口から戻ってきたイーサックを見て、アリソンは杯を置いた。
「随分、ご機嫌ですね」
「そう見えるか」
「ええ」
イーサックは向かいの椅子を引き、腰を下ろした。
「あいつらの話を思い出してた」
「森でのことですか」
「ああ。二人とも、よくやった」
珍しく、何も付け足さない褒め方だった。
アリソンも頷いた。
「そうですね」
上位の魔法を見せた時、二人はその場で使ってみせた。
才能は知っている。それでも、分かっていたつもりのことを、何度も確かめ直す羽目になる。
だが、ディアルに仕えていて嬉しくなるのは、そうした時ばかりではなかった。
助けた者や自分のそばへ置いた者を、ディアルは気に掛ける。言葉が少ないため見落とされやすいが、周囲をよく見ている。
フィルへの接し方にも、それは表れていた。
弟だと言いながら、ただ庇って手元に置くわけではない。意見を聞き、任せ、時には言い合いにもなる。
アリソンには、そのやり取りが好ましかった。
「ディアル様は、人に任せたことでも、ご自分には関わりがないという顔をなさいませんね」
「ああ。自分の分は済んだ、とはならねえな」
「ええ。お仕えしていて、誇らしく思います」
イーサックが、少し意外そうにこちらを見た。
「お前が言うと、本人に聞かせてやりたくなるな」
「普段から、お伝えしていますよ」
「その顔じゃ、何か裏があると思われるぞ」
「心外ですね」
アリソンは笑みを崩さず、杯を持ち上げた。
ディアルへの言葉に、偽りはなかった。
だからこそ、その隣にいるフィルのことも、単に優秀な子供としては見ていない。
ディアルが相手でも、納得できなければ首を傾げる。言うべきことを飲み込まず、それでいて、相手の話を聞かないわけではない。
ずっとそばで見ていても、時折、何を考えているのか分からなくなる。
そのくせ、妙に分かりやすいところもあった。
「フィル様も、口ではあれこれ仰いますが」
「文句は多いな」
「その割に、アリス様のお手紙を手伝うお話からも、お逃げにはなりませんでした」
「逃げる隙がなかったんじゃねえか?」
「本当に嫌なら、もっと上手に理由をお考えになるでしょう」
イーサックが声を立てて笑った。
アリソンも、馬車の中でのやり取りを思い出す。
フィルは巻き込まれたような顔をしていた。けれど、あれでアリスを突き放すことはない。
ディアルにも、そうだ。
面倒だと言いながら付き合っている時と、本当に嫌がっている時では、言い訳の熱心さが違う。本人はうまく隠しているつもりかもしれないが、長く見ていれば、それくらいは分かる。
「お前、分かってて聞いてたのか」
「ええ。どこまで仰るのか、少し気になりまして」
「いい性格してるな」
「フィル様にも、時々そういうお顔をされます」
「顔で済ませてもらってるうちが花だぞ」
アリソンは杯を置いた。
理屈を重ね、こちらの言葉の隙間を見つけては、するりと抜けようとする。手の掛かるところは確かにある。
だが、あの軽口も含めて、アリソンはフィルを気に入っていた。
「お二人とも、もうお休みでしょうか」
「フィルは寝てるだろ。今夜は大切な用事があるらしいからな」
「何もしない、でしたね」
「ああ」
「それでしたら、邪魔はできませんね」
「お前が言うと、妙に不穏なんだよ」
ただ頷いただけなのに、イーサックは最後まで疑わしそうな顔をしていた。
次の話からは、第3章となります。
よろしくお願いします。




