第三十五話 帰る朝に
「帰ったら、まず何をしますか」
出発の日の朝。
食卓につくなり、アリスがそんなことを尋ねてきた。
「荷物を片づける」
ディアルが答える。
「そうではなくて。お城へ戻ってから、楽しみにしていることです」
「報告がある」
「お兄様」
アリスの眉が下がった。
帰った直後から仕事の予定を立てるとは、さすがである。俺なら馬車を降りる前から休むことを考える。長い旅の後には、何もしないという大切な用事が待っているのだ。
「フィルは?」
「んー。自分の部屋で寝転がりたいかな」
「それは、馬車の中でもできるのではありませんか」
「揺れないところで寝転がるのがいいんだよ」
もっとも、戻れば戻ったで、稽古も勉強も待っている。俺が何もしないで済む時間は、考えているほど長くないかもしれない。
「アリスは?」
聞き返すと、彼女は少し考えた。
「セシリアたちへ、こちらで教わったことをお話ししたいです。それから、医療施設の皆さんにも」
「結局、アリスも仕事じゃん」
「仕事だけではありません。皆さんにも、お会いしたいですから」
それなら、ディアルの報告ともちょっと違うらしい。
アリスはパンをちぎりながら、ここ三日間で聞いた話を並べ始めた。
回復部隊には、あの日から毎日通った。
最初は寝台から起きられなかった戦士も、昨日には自分で椅子まで歩いていた。腕を吊ったままの者や、まだ包帯を替え続けている者もいる。毒が消えたからといって、傷まで一緒になくなったわけではない。
アリスはクリティアと一緒に負傷者を診て、話を聞いた。家族の話も、初めて魔物を見て逃げた話も、次はもっと上手く動くと言い合う声も。
俺はその間、箱や桶や寝台を運んだ。
どうやら俺は、回復部隊で荷物を運ぶ人として立派に認められたらしい。行くたびに頼まれるものが増えた。最終日には、俺が入口へ立っただけで木箱の置き場所を指された。
何も言ってないんだけどな。
刀の扱いを見せる約束は、結局まだ果たしていない。
剣を振れるようになったと言い張る戦士はいたけれど、クリティアに一睨みされて大人しく寝台へ戻っていた。あの様子なら、次に会う頃には本当に元気になっていそうだ。
ウルスナとカリーナも、昨日からは俺たちの支度を手伝っている。
ただし、重いものを持とうとするたび、アリスがどこからともなく現れる。そのせいで二人とも、今朝は妙に慎重だった。
「フィル様。お飲み物をお持ちいたしましょうか」
壁際に控えていたカリーナが声をかけてきた。
一歩踏み出しかけて、アリスを見る。
アリスは何も言わなかった。
「……お持ちしてもよろしいでしょうか」
「はい。それくらいでしたら」
許可が必要になっている。
隣のウルスナが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その三日の間、ディアルも普段と変わらなかった。
食事をして、俺と話し、短い稽古では新しく覚えた魔法の使い方を確かめた。戦士団から被害と復旧の報告を受け、出発前にはフェリックス王とも話している。
いつものディアルだった。
だからこそ、時々思い出した。
倒れたヴェノフロールへ、風の刃が降り続けていたことを。
もう立てないのに。何がどこの部分だったのか分からなくなるまで、ディアルは止めなかった。
あの後、理由を聞く機会は何度もあった。
でも、今まで聞かなかったことを急に尋ねるのも違う気がして、結局そのままになっている。
ディアルがこちらを見た。
「何だ」
「え?」
「さっきから見ている」
気づかれていたらしい。
「帰ったら何するのかなって」
「もう言った」
「報告の後」
ディアルはすぐには答えなかった。
「お前が寝ていなければ、稽古をする」
「それ、楽しみにしてること?」
「嫌なら一人でやる」
「やるよ。寝転がる時間も残してくれるなら」
「フィル」
アリスに呼ばれ、顔を向けた。
「先ほどから、手が止まっています」
皿には、ちぎりかけのパンが残っている。
「考え事しながら食べるの、難しくない?」
「難しくありません。ほら、お兄様はもう召し上がっています」
見れば、ディアルの皿はほとんど空だった。
食べるのが速すぎるのではないだろうか。
俺は残っていたパンを口へ運んだ。
◇◇◇
荷物を載せ終えた馬車が、建物の前に並んでいた。
イーサックが御者と道順を確かめ、アリソンは積み込まれた荷物を一つずつ見ている。忘れ物があったとしても、あの二人の目を抜けたのなら、もう諦めるしかない。
ウルスナとカリーナも、今日は旅支度を整えていた。
カリーナは自分の荷物を持っている。アリスは横から何度も見ていたが、今のところ取り上げてはいない。
「そんなに見られると、緊張します」
「無理をされないか、見ているのです」
「もう大丈夫ですよ」
「昨日も、同じことを仰っていました」
カリーナが困ったように笑う。
これについては、たぶん王都へ着くまで続く。
玄関の前には、ヴァルベルドや副団長たち、クリティアの姿があった。戦士たち全員が見送りに来たわけではない。復旧の仕事も、負傷者の治療も、まだ続いているのだ。
フェリックス王は、そこから少し離れた木陰で俺たちを待っていた。
「ずいぶん賑やかに帰るんだな」
フェリックス王は並んだ馬車を見て言った。
「来た時と人数は変わっていませんよ」
「荷物が増えてる」
「いただいた物もありますから」
アリスが答えると、王は小さく笑った。
回復部隊や戦士たちから渡された物が、いくつか積まれている。保存の利く食べ物や、森で採れた薬草。アリス宛てのものが多いけれど、俺たち皆で食べるようにと言われた菓子もあった。
味見はまだしていない。
荷造りされた後で見つけたのである。とても残念だ。
「お祖父様」
アリスが、フェリックス王の前へ進んだ。
「お話ししたいことがあります」
フェリックス王は見送りの者たちへ一度目を向け、顎で建物の裏手を示した。俺とディアルもアリスに続く。声が玄関前まで届かないところで、王が足を止める。
「何だ」
王は腕を組み、続きを待った。
アリスは一度、後ろを振り返った。
建物の向こうから、木を打つ音が聞こえる。壊された壁はもう大きな穴ではなくなったが、以前と同じになるまでには、まだかかるらしい。
「私は、お祖父様が壁を壊されたことを、よかったとは思えません」
フェリックス王は表情を変えなかった。
「そうか」
「皆さんは、痛い思いをされました。今も、治療が必要な方がいらっしゃいます」
「ああ」
「ですが、次にお祖父様がいない場所で戦う時にも、皆さんが帰ってこられるようにするためだったことは、分かりました」
アリスの指が、杖の柄へ触れた。
球体の奥で、淡い光が揺れる。
「助けられる方がいても、いつでもその方に頼れるわけではありません。できなかったことをできるようになれば、次は誰かを連れて帰ることができます」
若い戦士の話を思い出しているのだろう。
最初は先輩についていくだけだった人が、今度は仲間を引っ張って帰った。
アリスは杖を握り直した。
「それでも私は、いつか、争いや魔物のために苦しむ方がいない世界になってほしいです」
難しい方法を説明する声ではなかった。
ただ、そうなってほしいのだと願う声だった。
「皆さんが強くなることも大切です。でも、強くならなければ帰れないことが、当たり前のままでは嫌です」
フェリックス王は、しばらくアリスを見ていた。
風が抜け、淡い緑色の髪を揺らす。
「欲張りだな」
「いけませんか」
「いいや」
王の口元が、わずかに上がった。
「忘れるなよ。今、自分で言ったことを」
「はい」
アリスはまっすぐ頷いた。
フェリックス王の視線が、隣にいたディアルへ移る。
「お前は」
「学ぶものは多くありました」
「それだけか?」
「必要であれば、次に来た時にお話しします」
王が喉の奥で笑った。
「言うようになったな」
ディアルは何も返さなかった。
けれど、目は逸らさない。
二人の間に何があるのか、俺にはよく分からなかった。
ただ、喧嘩をしているわけではなさそうだ。
「フィル」
「はい」
急に呼ばれ、背筋を伸ばす。
フェリックス王は、腰の刀へ目を向けた。
「そいつとは、少しはまともにやれるようになったか」
「少しどころか、だいぶ仲良くなりましたよ」
そう答えながら、柄へ手を置く。
刀から、掌へ細い魔力が返ってきた。
なんだろう。言い方が気に入らなかったのだろうか。
「たぶん」
「今、下げただろ」
「本人から違うって言われた気がして」
「本人、ね」
王の大曲剣が、鞘の中で微かに魔力を揺らした。
こちらの刀も反応しかける。
「今日はやめてよ。もう帰るんだから」
柄を軽く押さえると、魔力は渋々引っ込んだ。
フェリックス王が笑う。
「次に来るまでには、主人らしくなっておけ」
「俺じゃなくて、刀に言ってくれません?」
また指先がちくりとした。
今のは俺が悪い気もする。
◇◇◇
馬車へ向かう前に、アリスはクリティアのところへ駆け寄った。
「皆さんへ、よろしくお伝えください」
「はい。姫様も、どうかお元気で」
「次に参りましたら、またお手伝いさせてください」
「その時には、お仕事が残っていない方がよいですね」
クリティアが笑う。
アリスも笑い、頷いた。
ヴァルベルドはディアルへ頭を下げ、ベリンガルとエムバエルは俺たちの旅の無事を祈ってくれた。
「刀の件を気にしている者がいます」
エムバエルが言う。
「やっぱり覚えてる?」
「昨日も、いつ見せていただけるのかと聞かれました」
「まず治すように言っておいてください」
アリスが先に答えた。
エムバエルは真面目な顔で頷いた。
「そのように」
俺が言うより効きそうである。
馬車へ乗り込み、窓から顔を出す。
フェリックス王は同じ場所に立っていた。
その後ろでは、戦士たちがもう持ち場へ戻り始めている。見送りが終わっても、集落の一日は止まらない。
「また来ます」
アリスが大きな声で言った。
「今度は、もう少し静かな時に来ます」
俺も続ける。
「それは魔物に言え」
「王様からも言っておいてよ」
返事の代わりに、王が片手を上げた。
馬車が動き出す。
車輪が土を踏み、ゆっくりと集落を離れていく。
アリスは見えなくなるまで窓の外へ手を振っていた。
「帰ったら、皆さんへお手紙を書きます」
「何人分?」
「回復部隊の皆さんと、戦士の皆さんへ」
「それ、かなり多くない?」
「フィルも書きますか」
「俺は一枚にまとめようかな」
「駄目です。きちんと分けてください」
「もう手伝うことになってるの?」
向かいでは、ディアルが外を見ている。
「ディアルも書くよね」
「必要な相手には書く」
「では、三人で書けますね」
アリスは満足そうだった。
どうやら王都へ帰った後の用事が、さっそく一つ増えたらしい。
「ところで、いただいたお菓子はどの馬車にあるのかな」
「出発してすぐに食べるおつもりですか」
「すぐじゃないよ。もう少し進んでから」
「同じことです」
アリスが呆れた顔をする。
「保存が利くと仰っていました。皆さんにも持って帰りましょう」
「一つくらいなら分からなくない?」
「分かります」
「まだ何個あるかも知らないのに」
「フィルが食べた顔をしますから」
どんな顔だろう。
ディアルを見ると、こちらへ視線を向けないまま口を開いた。
「諦めろ」
味方はいなかった。
揺れる馬車の中で、俺は座席へ背中を預けた。
窓の向こうを、レアリードの森がゆっくり流れていく。
◇◇◇
連なる馬車が、木々の間へ消えていく。
フェリックスは、その姿が見えなくなってからも、しばらく道の先を眺めていた。
壁を直す音が戻ってくる。
誰かが材木を運び、別の誰かが指示を飛ばす。いつものエスティアの音だった。
「アリスは、お前にそっくりだな、シーナ」
返事はない。
フェリックスは、誰もいない隣へ話しかけるように続けた。
「ディアルは、少し危ういところがある」
一度、目を細める。
それから、口元を上げた。
「まあ、フィルがどうにかするだろ」
エルフの国編 完
ありがとうございました。
シーナという女性については次章以降わかってきます。
みなさんお楽しみにください




