第三十四話 明日も、ここへ
「俺は、お祖父様の判断が間違っていたとは思わない」
翌朝、食卓についたディアルは、そう言った。
アリスの皿には、まだ手をつけていないパンが載っている。眉の間に小さく皺を寄せ、向かいに座る兄を見つめていた。
「お兄様も、あのようにするのですか」
「同じことができるとは言っていない」
「では、どうして」
「あの方には、止められる力がある。俺たちや戦士たちがどこまで戦えるか、確かめる余裕もあった」
ディアルは一度言葉を切った。
「俺が真似をすれば、助けられない者が出る。そこは違う」
アリスの唇が、きゅっと結ばれる。
「フィルも、そう思いますか」
パンをちぎっていた手を止めた。
うーん。もう少し考えをまとめてから参加したかったんだけど。
「なんでああしたのかは、分かるよ」
「皆さんが苦しんでも、ですか」
「苦しんでいいってことじゃなくてさ。王様がいない時にも、自分たちで助からないといけないんでしょ。そのために、王様が助けられるところで戦わせたんだと思う」
昨日の戦場で、俺は目の前の魔物を倒そうとしていた。
フェリックス王は、その後にも同じような戦いが何度もあると考えていた。説明を聞けば、狙いは分かる。
「でも、アリスが嫌だったのも分かるよ。二人が倒れたところ、見てたんだし」
「嫌だった、だけではありません」
声が、少し強くなった。
「助けられる方がいたのです。誰も倒れずに済んだかもしれないのに、見ていらした。それが、私には分かりません」
向かいのカリーナが、膝に置いていた手を動かした。
今日はウルスナも、俺たちと同じ食卓についている。いつものように給仕を始めようとしたところを、アリスに止められたのだ。
「アリス様。私たちを助けてくださって、ありがとうございました」
カリーナが言った。
「こうして一緒に朝食をいただけるのは、アリス様のおかげです。ですが、お礼とは別に、お伝えしたいことがあります」
隣を見たカリーナに、ウルスナが頷く。
「私たちも、陛下のお考えが間違っていたとは思っておりません」
「二人とも、あんなに苦しかったのに」
「陛下にお仕えしていた頃から、あのような戦いは経験しております。今回は、自分たちの対処にも至らないところがございました」
ウルスナの声は普段どおりだった。
けれど、杯を持ち上げる時、カリーナがさりげなくその肘へ手を添えた。
「レアリードでは、森から来る危険を、毎回誰かが代わりに退けてくれるわけではありません」
「私たちも、最初は助けていただいてばかりでした」
カリーナが続けた。
「先輩に叱られて、教えていただいて。そうして、今度は私たちが助ける側になったんです」
「でしたら、今回も……」
「はい。今回は、アリス様に助けていただきました」
カリーナは、そこで微笑んだ。
アリスが何か言おうとして、やめる。
ウルスナはその間を待ってから、口を開いた。
「陛下が私たちを見捨てられたとは、考えておりません。ですが、アリス様にすぐ同じようにお考えくださいと、申し上げるつもりもございません」
アリスはパンへ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
「……二人が起きてくれて、よかったです」
カリーナが、もう一度お礼を言った。
俺は何も言わず、ちぎったパンを口へ入れた。
◇◇◇
「今日は、皆さんのところへ伺いたいです」
食事が終わる頃、アリスが言った。
「回復部隊へ、でしょうか」
「はい。まだ治療が必要な方がいらっしゃいますから。クリティアに、できることがないか聞いてみます」
昨日は言われたとおり休んだし、今朝は体も重くない。そう説明するアリスを見て、俺も立ち上がった。
「じゃあ、俺も行こうかな」
「フィルも?」
「何か運ぶくらいならできるし」
「俺も途中まで行く」
ディアルは戦士団で、被害と復旧の話を聞くそうだ。
せっかく稽古も休みなのに、よく次の用事が見つかるものである。
「では、私も支度を――」
「カリーナは、お休みです」
椅子を引きかけたカリーナが止まった。
「ですが、お世話を」
「着替えもできました。朝食もいただきました。忘れ物もありません」
一つずつ確かめてから、アリスがウルスナへ向き直る。
「ウルスナもです」
「私は、付き添う程度でしたら」
「その杯を持つ時、手が震えていました」
ウルスナが黙った。
見られていたらしい。
「今日は、私たちだけで行かせてください」
カリーナが助けを求めるようにこちらを向いたので、俺は肩をすくめた。
今回は、どう見てもアリスの方が強い。
◇◇◇
回復部隊の建物には、まだ多くの戦士が残っていた。
傷の重い者は寝台へ、起きられる者は椅子へ移り、食事を終えたばかりの部屋では器を片づける音がしている。
戦士団へ向かうディアルと別れ、クリティアを訪ねると、アリスはさっそく仕事を申し出た。
「では、一緒に回っていただけますか。疲れた時には、必ず仰ってください」
「はい」
アリスが頷く。その手の中で、杖に淡い光が通った。
やる気も十分らしい。二人、というか一人と一本とも。
俺は治療の邪魔にならないよう、入口へ寄った。すると、腕に布を巻いた戦士が声をかけてきた。
「フィル様。お手すきでしたら、こちらをお願いできませんか」
戸口には、布を詰めた木箱が置かれていた。
「奥へ運べばいい?」
「はい。私がやると、ひっくり返しそうで」
「それなら任せて。中身を拾う方が大変だしね」
箱を運び、戻ってきたら空の桶を頼まれた。
桶を片づけたら、次は寝台だった。
「うーん。俺が二人いたら便利そうじゃない?」
「大変助かります」
「そこは否定してくれてもいいんだけど」
笑いながら寝台をずらしていると、その上にいた戦士がじっと俺を見ていた。
「あの、東側で戦っておられましたよね」
「うん。エムバエルさんたちと」
「やはり。フィル様が二頭まとめて止めてくださった時、私、仲間を運んでいたんです」
どの二頭だろう。
だいぶ走り回ったので、全部は覚えていない。
「後ろから来られて、避けたら担いでいた奴を落としそうで。あの時は、本当に助かりました」
「そうだったの? こっちは、目の前のを倒すので精一杯だったんだけど」
「それで助かったんです。ありがとうございました」
真面目に頭を下げられて、持っていた寝台の脚をそっと置いた。
「どういたしまして。じゃあ、こっちも助かったかな。場所、これでいい?」
「はい。……あ」
相手が入口の方を見る。
木箱を頼んだ戦士が、気まずそうに立っていた。
「そんな方に、寝台まで運ばせていたのか」
「いや、俺から手伝うつもりで来たから。急に仕事を取り上げないでよ」
今さら見ているだけになる方が困る。
そう言うと、二人とも笑った。
入口にいた方が、少し迷ってから口を開く。
「最初は、髪の色を見て身構えました。申し訳ありません」
彼の目が、俺の白髪から顔へ戻った。
「戦場でも、勝手に驚いて……ですが、もう、それを理由に疑ったりはしません」
俺は頭をかきかけ、手を下ろした。箱の埃がついている。
代わりに、軽く頷いておいた。
「じゃあ、次からも普通に話してくれると助かるかな」
「はい」
「あと、フィル様って呼びながら謝り続けるのはなしね。何か壊したのかと思うから」
寝台の上の戦士が吹き出した。
「では、一つ伺ってもよろしいですか」
「何?」
「あの刀で、硬い皮をどうやって斬っているんですか。私の剣は弾かれてしまって」
今度は刀に目が集まる。
うーん。すごく知りたそうだけど、ここで抜いたらクリティアに怒られる気がする。
「起きられるようになったらね。ここ、ちょっと狭いし」
「約束ですよ」
「そのために勝手に歩き回ったら、なしだからね?」
返事が少し遅かった。
この人たちも、案外分かりやすい。
◇◇◇
アリスは、奥の寝台で若い戦士の治療をしていた。
戦場で彼女が手を取った相手だ。今は落ち着いて話ができるらしく、そばにいたクリティアも別の寝台へ移っていた。
「どうして、戦士になろうと思われたのですか」
アリスの声が聞こえた。
戦士は、少し困ったように笑った。
「立派な理由ではないんです。待遇がよかったので」
「待遇?」
「はい。ここへ配属になれば、家にも多く入れられます。父が膝を悪くして、前ほど働けなくなったものですから」
アリスは静かに聞いていた。
治療の光が、話の間も途切れずに続いている。
「お父様も、こちらにいらっしゃるのですか」
「集落の西の方に。母と、妹もいます」
「ご家族でお暮らしなのですね」
「ええ。家に帰れるのも、よかったんです。妹は私が戦士になったら、毎日ご馳走が食べられると思っていたようですが」
それは、なかなか大きな期待だ。
俺もちょっと食べてみたい。
「ご馳走は、食べられましたか」
「最初の一度だけ。あとは、働く本人が食べすぎると母に叱られました」
アリスが笑った。
若い戦士も笑い、それから自分の脚へ目を落とす。
「昨日も、家の方が気になりました。避難したと聞いてはいたんですが、霧がどこまで行くか分からなくて」
アリスの笑みが薄れた。
「怖くは、ありませんでしたか」
「怖かったですよ。あの大きいのが出てきた時なんて、足が止まりました」
若い戦士は、少し声を落とした。
「でも、後ろに家がありますから。退くにしても、皆が逃げる時間くらいは稼ぎたかったんです」
アリスはすぐに返事をしなかった。
窓の向こうへ目を向ける。ここからは、彼の家までは見えない。
「……私も、後ろにいる皆さんが心配でした」
「はい。だから、助けてくださったんですよね」
アリスが頷いた。
少し離れた寝台から、声が飛んできた。
「そこで剣なんか拾おうとするから、退くのが遅れるんだ」
「分かってる。次はやらない」
「昨日も聞いたぞ」
「何度言えばいいんだよ」
さっき俺に刀の使い方を聞いた戦士だった。
なるほど。彼が運んでいた仲間というのは、この人か。
「あなたが、こちらへ連れてきてくださったのですか」
アリスが尋ねると、彼は頷いた。
「重かったですよ。鎧ごとですから」
「お互い様だろ。前の見回りでは、俺が肩を貸した」
「あれは歩いてただろ」
軽口に、周りの寝台からも笑いが起きた。
アリスはその間で、少しだけ戸惑った顔をしていた。
「お怪我をされていても、助けに行かれたのですね」
「置いていけませんから。それに、昔の私なら無理でした。自分だけで逃げるので精一杯で」
戦士が、自分の包帯へ視線を落とした。
「初めて大きな群れを見た時には、先輩の背中についていくことしかできませんでした。剣を振る場所まで、いちいち教えてもらって」
「この人にも、教えていらしたのですか」
「偉そうなことは言えませんよ。ようやく一人、引っ張って帰れただけです」
彼は笑った。
若い戦士の方は、今度は茶化さなかった。
「助かった。ありがとう」
短い礼に、片手が上がる。
アリスは二人を見ていた。
その手にある杖の光が消えてからも、少しの間、席を立たなかった。
◇◇◇
その後も、アリスは治療の合間に戦士たちの話を聞いた。
腕に自信があったという人もいれば、兄が戦士だったから、という人もいた。全員が最初から、この国を守ろうと決めていたわけではないらしい。
俺は何度か荷物を運びながら、途中から話に混ざった。
初めての見回りで迷子になった話は面白かった。本人はもう忘れてくれと言っていたけれど、たぶん無理だと思う。
昼を少し過ぎて、アリソンが迎えに来た。
「帰路の準備が整いつつあります。アセナルへ向けて出発するのは、三日後を予定しております」
アリスが顔を上げる。
「三日後、ですか」
「はい。詳しい日程は、戻ってからお伝えいたします」
部屋には、まだ多くの寝台が並んでいる。
今日の治療で動かせるようになった手もあれば、包帯を替えただけの傷もあった。帰る頃には、全員が歩けるようになるわけではないだろう。
「では、それまでは、こちらへ通ってもよいですか」
アリスが尋ねた。
クリティアが頷く。
「お体に無理のない範囲でしたら、私どもは助かります」
「かしこまりました。ほかのご予定と合わせて調整いたしましょう」
アリソンの返事を聞いて、アリスが息を吐いた。
「明日も、お願いしますね。姫様」
「はい。よろしくお願いします」
帰り際、若い戦士が治療を受けた手を上げた。
隣の部屋からは、刀の話を忘れないでくれと声がする。
「覚えてるよ。ちゃんと休んでてね」
返事をして、外へ出た。
壁を直す音が聞こえる。
アリスは足を止め、その方へ目を向けた。
「皆さん、また戦われるのですね」
「うん。そうみたいだね」
「ご家族がいるからと、仰っていました」
少し待ったが、その先はなかなか続かなかった。
「お祖父様は、あの方たちに、次も帰ってきてほしいのですね」
俺はアリスを見た。
彼女の視線は、直りかけた壁に向いたままだった。
「そうだと思う。王様がいなくても、仲間を連れて帰れるようにって」
「……はい」
返事の後、アリスは杖を抱き直した。
「でも、痛くなかったことには、なりません」
「うん」
そこまで否定する理由は、俺にもなかった。
アリスはしばらく壁を見つめ、それから歩き出した。
今朝のように眉を寄せてはいなかったが、笑ってもいない。
「フィル。明日も来ますか」
「んー。俺、寝台を運ぶ係になってない?」
「とても助かりました」
「アリスまで、それ言うんだ」
こちらを見る顔に、ようやく小さな笑みが戻る。
「それに、刀のお約束もありますから」
「そうだった。じゃあ、剣を振れるくらいまで治してもらわないとね」
「明日すぐは、駄目です」
「俺じゃなくて、本人に言ってあげて」
たぶん、ちょっと動けるようになったら頼んでくる。
そんな顔をしていた。
アリスが頷いた。
明日確かめることが、また一つ増えたらしい。




