第三十三話 守る者の距離
椅子へ預けかけた背中が、止まった。
「……壁を、壊したんですか」
「ああ」
フェリックス王は、あっさり頷いた。
「外で止めたままじゃ、あいつらの動きも見づらいからな。戦える場所まで入れた」
「わざと、ですか」
「そう言ってるだろ」
俺は窓の方を見た。
木を叩く音が聞こえる。腕に布を巻き、材木を運んでいた戦士を思い出した。
隣で、椅子が鳴った。
「皆さんが、どれほど苦しんだと思っているのですか」
アリスが立っていた。杖を握る指が、白くなっている。
「ウルスナも、カリーナも倒れたのです。ほかの方だって、まだ痛くて、歩くこともできなくて……」
「甘いな」
フェリックス王が言った。
アリスの言葉が止まる。
「安全な城にいれば、分からないのも当然か。だが、ここじゃあの程度のことは珍しくない」
「あの程度、ですか」
「そうだ。あの魔物なら、下の上ってところだな」
俺は思わず王を見た。
あれで、下の上。それより上が、まだいくつもあるらしい。
「魔物が来るたびに、俺が全部倒して終わらせると思うか? それで育った戦士が、俺のいない場所で何と戦える」
「だから、怪我をしてもよいのですか」
アリスの声が震えた。
フェリックス王は笑わなかった。椅子の背から体を起こし、アリスを見る。
「怪我をさせないことだけ考えて育てて、その先で死なせたら意味がないだろ」
俺も、すぐには何も言えなかった。稽古で痛い目には遭う。けれど、あれも同じだと言われると、簡単には頷けない。
ディアルが口を開いた。
「どこまで、把握されていたのですか」
「戦っていた場所も、退く道も、回復部隊もだ」
フェリックス王が窓の外へ顎を向けた。
「霧がどこで止まってたか、見たか」
「後ろまでは……」
俺が答えると、王は頷いた。
「回復部隊より後ろへは流してない。風で止めてた」
「避難した人たちの方へは、行っていないのですね」
「ああ」
ディアルの確認に、短く答える。
「副団長たちも、自分の対処はできてた。あいつらが逃げ回ってたように見えたか?」
思い返す。
エムバエルは部下を退かせ、毒霧が出た後も指示を出していた。ベリンガルも、最後までディアルの近くにいた。
「酷くやられたのは、戦士になって日が浅い連中だ。経験のある奴は、退く場所も助ける相手も選んで動いてた」
「ウルスナとカリーナは、違います」
アリスが言った。
「二人とも、とても強いです。それでも――」
「お前がいたからだろ」
アリスが息を止めた。
フェリックス王は、彼女から目を逸らさなかった。
「自分の身だけ守るなら、あいつらは倒れてない。大勢を支えながら、シーナの娘を守ろうとした。自分たちを後回しにするに決まってる」
アリスの手が、杖を抱き寄せる。
目を覚ましたカリーナが、真っ先に確かめたのもアリスの怪我だった。
「それが分かっていたのに、助けなかったのですか」
フェリックス王は、少しだけ顎を引いた。
「お前が動いたからな」
「私が?」
「あいつらが倒れる前に、お前は自分で治療を始めただろ。止められても引かなかった。その時には、魔力の流れも変わり始めてた」
王の指が、アリスの杖を指した。
「だから見てた。お前が何もしなければ、俺が片づけてた」
「もし、できなかったら」
「俺がやる」
間もなく返ってきた答えに、アリスが口を閉じる。
「俺の目の前で、あの程度の魔物に誰かを殺させるつもりはない。致命傷になる前に止める。その余地を残して任せた」
窓を閉めるとか、椅子を動かすとか。そのくらい当然のことを話す声だった。
「お前たちの力も見たかった。フィルが刀とどこまでやれるか。ディアルが周りを使って戦えるか。アリスが、自分から手を伸ばせるか」
「そのために、皆さんを……」
アリスが俯いた。
「助けられたのなら、助けてほしかったです」
小さな声だった。
フェリックス王はアリスを見たまま、しばらく黙っていた。
「座れ。立ってても、話は変わらない」
アリスは顔を上げなかった。
それでも、ゆっくり椅子へ戻った。
◇◇◇
扉の向こうへ声をかけると、ほどなくアリソンとイーサックが入ってきた。
フェリックス王は、二人を見るなり尋ねた。
「まだ、上の扱い方は教えてなかったのか」
「はい。ディアル様たちが十歳になるまでは、基礎を優先するつもりでした」
アリソンが答えた。
「もう使えるだろ」
「使えることと、扱わせることは別かと」
いつもの笑顔だった。
相手がフェリックス王でも、そこは変わらないらしい。
王は鼻で笑い、俺たちへ目を戻した。
「魔法にも、まだ先がある。普段使ってるものだけで、全部だと思うなよ」
「もっと強い火が出る、とかですか」
「それだけじゃない。見た方が早いな」
王が立ち上がった。
案内されたのは、建物の裏の空き地だった。資材の運ばれる場所とは離れていて、端には大きな岩がいくつか転がっている。
アリスも、黙ってついてきた。俺の隣へ立ち、杖を両手で持つ。
「その元素に適性があること。それから、魔力を十分に操れること。まず必要なのは、その二つだ」
フェリックス王が言った。
「生まれつき、特別な人だけじゃなくて?」
「ああ。鍛えて届く奴もいる。誰でも簡単に、とは言わないがな。お前たちは、その時間をかなり飛ばせる側だ」
王が俺たちを見てから、イーサックへ顎を向けた。
「見せてやれ」
◇◇◇
イーサックは空き地の端へ歩き、大きな岩に手を置いた。
「少し離れて見とけよ」
表面に細い亀裂が入る。砕くのかと思ったが、大きな破片は落ちてこなかった。崩れた角から、さらさらと砂が流れ出す。
それが地面へ届く前に曲がり、彼の腕へ巻きついた。
「おお」
岩が見る間に小さくなる。その分だけ、宙を巡る砂の帯が長くなった。
「土を盛り上げるだけじゃねえ。こういう扱い方もある」
帯の先が、俺の前へ伸びてきた。思わず指を出すと、砂はその指を避けて一周する。一粒も当たらない。
俺は足元の石を拾った。
さっき見た魔力の動きを思い返し、手の中の石へ流す。表面がほどけるように崩れ、指の間から砂がこぼれた。
落とさないように引き上げると、小さな輪になって手のひらの上を回る。
「……こう?」
隣では、ディアルがしゃがんでいた。地面に埋まった岩の一部が砂へ変わり、帯になって持ち上がる。さっきの手本と違い、それは途中で三つに分かれた。
それぞれ別の方向へ伸びた先端が、同時に止まる。
「分けても、動かせるな」
「うん。こんなこともできるよ」
俺の砂を細長く伸ばし、ディアルの三本の間へ通してみる。向こうが少し動かしたので、こちらも曲げた。
「絡まるぞ」
「砂だから大丈夫じゃない?」
二人分が交差して、妙な編み物みたいになった。
「お前らな」
イーサックが、まだ自分の砂を浮かべたまま腰へ手を当てる。
「説明くらい、最後までさせろよ」
「駄目だった?」
「駄目じゃねえから、言ってんだ」
どちらなのだろう。
とりあえず砂を戻すと、ディアルも同じ場所へ落とした。二人分が混ざって、小さな山になる。
アリソンがそのそばへ屈み、指先で砂をすくった。
「粒も揃っていますね」
「そっちも一回だったぞ」
「ええ。見ておりました」
イーサックに答えながら、アリソンの目は俺たちの手を見ていた。
「そのくらいはできるだろ。次だ」
フェリックス王が、当たり前のように言った。
「水の槍は使ってたな」
「はい」
「どうしてる」
「水を集めて、細くして、回してます。形が崩れないように」
王が頷くと、頭上に小さな雲が生まれた。
数歩で通り抜けられるほどの雲から、雨が降り始める。俺たちには一滴もかからない。
「雷を扱う、その先にはこういうこともできる」
指が上がった。
雨粒が宙で寄り集まり、細長く伸びる。その表面が白く曇ると、何本もの氷の槍になった。
「凍らせる方は、水の扱いだ。お前の槍は、回し続ける必要があるだろ」
「こっちは、固まってるからいらない?」
「ああ。凍らせる力は使うが、その後まで同じ手間をかける必要はない」
俺も頭上へ魔力を伸ばした。
さっきと同じくらいの雲ができ、雨が落ちる。慌てて少し横へずらした。
危ない。自分で降らせた雨に濡れるところだった。
その水を集め、固める。
できあがった槍には、ちゃんと尖った穂先がついていた。指で触れると、ひんやりする。
「本当にできた」
隣にも、氷の槍が一本浮かんでいた。ディアルの頭上で、役目を終えた雲が薄れていく。
「先端だけではなく、全体を固めるのですね」
「使い方次第だな」
「なら、柄を残して作り直すことも」
「試せばいい」
ディアルの槍から穂先だけが溶け、もう一度形を変える。今度は少し幅が広かった。
俺も真似たくなったが、これ以上並べたら危ない。自分の分を水へ戻しておいた。
「次はお前だ」
指名されたアリソンが立ち上がり、服についた砂を払った。
「では。凪の帳」
片手を胸へ上げる。
何も起きなかった。そう思ったところで、彼の口が動いた。
声が聞こえない。
「アリソン?」
また口が動く。俺の名前を呼んだように見えたが、やはり声は届かなかった。
アリソンが自分の耳を指し、首を振る。向こうにも聞こえていないらしい。
やがて手を下ろすと、急に声が戻った。
「今は、外との間を遮断しておりました」
「俺が使ったものより、隔てるものが多いのか」
「はい。ディアル様は風で空気を隔てていらっしゃいました。さらに扱いを進めれば、このようなこともできます」
ディアルが一度頷き、自分の周りへ目を向けた。
「範囲は――」
途中で、声が切れた。
唇はまだ動いている。こちらを見たので、俺は自分の耳を指して頷いた。
試しに俺も、同じようにしてみる。
木槌の音が消えた。木々のざわめきも、誰かの足音も。
すぐそばに皆がいるのに、自分の呼吸だけがやけに大きい。
「うわ、静か」
俺の声に、誰も反応しなかった。
なるほど。内緒話には便利そうだけど、これで歩いていたら呼び止められても気づかないな。
解くと同時に、外の音が戻った。
ディアルも終えたらしく、アリソンへ向き直る。
「隔てるものは、選べるのか」
「ええ。たとえば、このように」
今度は、アリソンの姿が消えた。
「……それも?」
後ろの木も地面も、そのまま見える。
先ほど魔力が広がった場所を目で追い、俺も周囲へ手を加えた。隣を見た時には、ディアルまでいなくなっていた。
「フィル」
「いるよ。ディアルも消えてる」
「お前もだ」
声だけが隣から届く。
「ちゃんとできてる?」
姿を戻したアリソンが、俺のいる場所を見た。
「はい。お見事です」
笑顔はいつもと変わらない。
ただ、隣のイーサックは、片手で口元を覆っていた。
「……こいつらに、かくれんぼはさせられねえな」
「稽古を抜け出す際にも、役立ちそうですね」
「それはやらないよ?」
思いつく前に釘を刺された。
姿を戻すと、アリソンが満足そうに頷く。ディアルはまだ、自分の指先を見ていた。
フェリックス王は、そんな俺たちを眺めて笑った。
「俺が上に浮いてたのも、風の先の使い方だ。今見せたのは、どれも基礎だぞ」
「これで?」
「使えたからって、そこで終わるなよ」
俺は自分の手を開いた。
砂も、雨も、音のない場所も。さっきまでは、できるとさえ思っていなかった。
明日の稽古で試したいことが、もういくつか浮かんでいる。
◇◇◇
「アリス。お前が使ったものも、そうだ」
フェリックス王に呼ばれ、アリスが顔を上げた。
「私も、今のようなことをしたのですか」
「回復の先に届いた。傷を塞ぐだけじゃなく、体そのものを支えるところまでな」
アリスが、杖へ目を落とす。
「ウルスナとカリーナも?」
「ああ。お前が真似ようとした、あの光がそうだ」
アリソンがそばへ立った。
「杖が変わる前から、お使いになっていたのですね」
「はい。最初は、二人と同じような色でした」
フェリックス王が頷く。
「先に、お前が使った。それを見て、そいつが応えたんだ」
アリスの指が、柄を撫でた。木目に沿って、ほんの少し光が走る。
「でも、黄金色になったのは」
「あれは別だ。浄化と言う」
王の声に、俺も顔を上げた。
「回復を鍛えれば誰でも使える、というものじゃない。使えるかどうかは、その者の素質による」
「では、二人は」
「使えない。だから、毒に侵される体を支え続けてた。お前は、その毒そのものを消した」
アリスは黙った。
誰かが体を治してくれただけでは、外の空気は吸えないままだった。
あの光は、周りごと変えたのだ。
「アリス、すごいことしたんだね」
声をかけると、彼女はこちらを見た。
「……はい」
返事はあった。
でも、杖が変わったことを話していた時の顔とは違っていた。
フェリックス王が、空き地の向こうへ目を向ける。離れた場所で、修復用の材木が運ばれていた。
「今日はここまでにしろ。特にアリスは、もう魔法を使うな」
「分かりました」
アリスが頭を下げた。
俺はもう一度、砂の山を見た。
さっき作った輪を、もう少し複雑に動かせないだろうか。あの氷の槍も、刀と組み合わせたら面白そうだ。
隣では、ディアルがアリソンへ何か尋ねている。指で小さく範囲を示し、さっきの魔法について確かめているようだった。
アリスは、二人の話へ加わらなかった。
その視線の先には、壊れた壁があった。木槌の音が、規則正しく響いている。
「戻ろうか」
俺が言うと、アリスは頷いた。
歩き出してから、少し遅れて口を開く。
「……助けられたのですね」
「え?」
彼女は、フェリックス王のいた方を見なかった。
「お祖父様なら。最初から、二人とも」
俺は返事を探した。
氷の槍が、簡単に並んだ光景を思い出す。毒霧を止めていたという話も、今なら疑う気にはならなかった。
アリスは杖を抱き直し、前を向いた。
「それなのに、どうして」
その声は、誰に向けたものでもなかった。




