第三十一話 届いた光
水の向こうが、明るくなった。
紫色に濁っていた景色へ、黄金色の光が差し込む。
目の前のヴェノフロールが、大鎌を持ち上げかけた姿勢で止まった。
裂けた体から溢れる霧が、光に触れて消えていく。
押し流されているのではない。その場で色を失い、向こうの木材まで見えるようになっていた。
少し離れた場所で、膝をついていた戦士が顔を上げる。
俺は顔の前の水を開いた。
息を吸う。
喉が痛くない。
もう一度、大きく吸い込んだ。
胸へ空気が入ってくる。それだけで、泣きたいくらいありがたかった。
……助かった。
本当に。水の中で頑張るのは、もうやめよう。
体を包んでいた水を落とす。
足元で弾けた水滴が、黄金色を映して散った。
光は、回復部隊のいる方から来ている。
誰が使っているのかは分からない。けれど、今なら動ける。
俺は刀を握り直した。
ヴェノフロールの顔が、こちらを向く。
開いた花の奥から、また紫色のものが溢れた。
まだ、出すつもりらしい。
これ以上、後ろへ流させるわけにはいかない。
俺は一歩、踏み込んだ。
◇◇◇
刀へ火を流す。
刃に沿って、細い炎が走った。
外へ膨らませず、刀身へまとわせる。
柄から、強い魔力が返ってきた。
もう少し、と言われた気がした。
うん。
今は、俺もそう思う。
求められる分だけ力を送る。
刃を覆っていた炎が厚みを増し、熱が頬へ触れた。
前には魔物。
その向こうには木の壁があり、足元には折れた枝が散らばっている。
燃やすのは、こいつだけだ。
大鎌が動いた。
傷ついた腕では持ち上げきれず、刃先が地面を引っ掻く。
俺はその柄の内側へ入った。
木の皮に似た胸が、すぐ目の前にある。
狙う場所は見えていた。さっき自分でつけた、肩から胸へ続く傷だ。
そこへ刀を重ねる。
「焔牙・灰燼」
刃が通った。
手応えが抜けると同時に、斬り口の奥で炎が膨らんだ。
枝のような筋を伝い、胴へ、腕へ、花の形をした顔へ走っていく。
魔物が身を反らした。
その輪郭が赤く染まる。
俺は振り抜いた刀を返し、一歩退いた。
炎は、体の外へ広がらなかった。
噴き上がろうとした火さえ、魔物の輪郭で折り返し、その内側へ戻っていく。
大鎌を握る指が崩れた。
長い柄が地面へ落ちる。
その後を追うように、胴が傾いた。
倒れきる前に、脚が砕けた。
黒くなった体が、内側から崩れていく。
炎が消える。
後に残った灰が、地面へ落ちた。
そばにあった枯れ枝は、元の色のままだった。
俺はそこまで確かめて、ようやく息を吐いた。
「うん。今のは、よかったね」
刀を少し持ち上げる。
掌へ、短く魔力が返ってきた。
先ほどまでみたいに、もっと寄越せという感じではない。
なんとなく、得意そうだった。
「はいはい。君も頑張ったよ」
指先が、ちくりとした。
「……褒めてるんだけど?」
返事はない。
刀は、いつもの重さで手の中に収まっていた。
俺は小さく笑い、南東へ顔を向けた。
◇◇◇
ディアルは、まだ剣を構えていた。
周囲を隔てていた風は、もう見えない。
その代わり、剣の周りに細い筋がいくつも走っている。
向かい合うヴェノフロールが、槍斧を引いた。
欠けた指で柄を握り直し、前へ突き出す。
ディアルは半歩だけ体をずらした。
穂先が脇を抜ける。
剣が、静かに振り下ろされた。
「風葬」
魔物の腕が落ちた。
何が通ったのか、一瞬分からなかった。
次いで、胴の表面に斜めの線が走る。肩が裂け、花のような顔の端が散った。
風の刃だった。
一つではない。
前から、横から、斜め下から。幾重にも重なった刃が、魔物へ集中している。
槍斧が地面へ倒れた。
体が傾く。
支えようとした脚も切れ、膝から崩れた。
もう、立てない。
それでも風は止まらなかった。
倒れた胴が跳ね、表皮が剥がれる。
剥き出しになった根のようなものが、さらに細かく裂かれていく。
周りにいた戦士が、一歩下がった。
ベリンガルは槍斧から目を離し、ディアルの方を見た。
俺も、そちらを見た。
剣を握る手が、動いていない。
ディアルは倒れた魔物を見下ろしたまま、風を送り続けていた。
……もう、倒れてるんだけどな。
最後の刃が地面すれすれを走った。
細かな木片が散る。
そこでようやく、風が止んだ。
ディアルは剣を下ろした。
「ディアル」
呼ぶと、顔がこちらへ向く。
「そっちは」
「終わったよ」
俺が答えると、ディアルは頷いた。
灰になった魔物の跡へ目を向け、それから後ろの戦士たちを見る。
「負傷者は」
「搬送を続けています。歩ける者も増えました」
ベリンガルが答えた。
いつもの声だった。
いつものように、次にすることを確かめている。
俺は地面へ目を落とした。
何がどこの部分だったのか、もう分からなかった。
刀を持つ手へ、風が触れた。
今度のそれは、森から吹いてきた普通の風だった。
◇◇◇
終わった、と誰かが言うより先に、エムバエルが声を上げた。
「残っている個体を確認しろ。死骸にも触るな!」
戦士たちが動き始める。
盾を持つ者が前へ出て、槍を持つ者がその間から壁の穴を覗いた。
地面を照らしていた黄金色が、少しずつ薄れていく。
光が消えた後にも、戦士たちは自分の足で立っていた。横になった仲間へ肩を貸し、声をかけ合いながら歩き始めている。
ヴェノハウンドは、まだ何頭か残っていた。
けれど、もう群れの勢いはない。散らばっていた個体が、一頭ずつ追い詰められていく。
俺も近くの死骸を見た。
動かない。
でも、触って確かめる気にはならなかった。
あんな霧まで出された後だ。
倒れたから安心、とは思えない。
「フィル殿、お怪我は」
エムバエルが、こちらへ来た。
「たぶん、ないです」
「たぶん?」
「水に入ってたから、少し濡れたくらいかな」
自分の袖を見る。
水は払ったつもりだったが、肘の辺りから雫が落ちた。
エムバエルは俺の顔を見て、それから肩や腕へ目を走らせた。
「回復部隊で確認していただいてください」
「うん。そうする」
彼は頷き、灰の残った場所へ向いた。
「周囲へ火が移った様子はありません。あれも、確認して使われたのですか」
「確認したというか、移らないようにしたというか」
説明しようとして、少し困った。
「燃やす場所を、あいつだけにしたんです」
「……そうですか」
エムバエルはもう一度、火の移らなかった枝を見た。
何かを言いかけ、それをやめる。
「助かりました」
まっすぐ頭を下げられた。
「あ、いえ。こちらこそ。周りを見ていてもらえたので」
最初に死骸を飛ばした時も、すぐに声をかけてくれた。
横から来る魔物を抑えてもらえなければ、もっと余計なものを斬っていたと思う。
彼は顔を上げ、短く頷いた。
「では、こちらは我々が。内側への道は通れます」
指した先で、戦士が荷物を脇へ寄せていた。
俺たちを見ると、手を上げる。
「こちらです。足元だけ気をつけてください」
来た時には、少し遠巻きに見られていた気がする。
今は、向こうから歩み寄ってきて、通れる場所を教えてくれる。
俺は礼を言い、ディアルと並んで歩いた。
◇◇◇
「二人とも、こっちだ」
道の途中で、イーサックが待っていた。
俺たちの顔を順番に見てから、服へついた汚れを確かめる。
「毒は」
「今は平気。ディアルは?」
「問題ない」
イーサックが短く息を吐いた。
「そうか。陛下への報告はこの後だ。まずは診てもらえ」
「みんなは大丈夫?」
「手当ては続いてる。ウルスナとカリーナも休ませてるところだ」
足が止まった。
「二人も?」
「ああ。詳しい話は中で聞け」
イーサックが、詰所の方へ顎を向ける。
俺は歩くのを早めた。ディアルも、何も言わず隣へ続く。
入口にはアリソンがいた。
運び出される寝台を通し、それから俺たちへ目を向けた。
「お戻りになりましたか」
「二人が倒れたって」
「今は呼吸も落ち着いています。こちらへ」
中へ入ると、薬と血の匂いがした。
床には布が敷かれ、戦士たちが横になっている。
壁へ背中を預け、自分の指を曲げ伸ばししている人もいた。
その間に、アリスが立っていた。
見慣れない杖を持っている。
木目の深い柄が伸び、その先で一本の枝が捻れ、丸い球体を支えていた。
「お兄様。フィル」
アリスが顔を上げた。
俺たちを見ると、すぐに近づいてくる。
「お怪我はありませんか」
「俺は大丈夫。アリスこそ――」
言いかけて、杖をもう一度見た。
球体の奥に、薄く光が残っている。
さっきまで戦場を包んでいたものと、同じ色だった。
「あの光、アリスだったの?」
「はい」
アリスが頷いた。
俺は、その顔を見た。
額に汗が滲んでいる。杖を持つ手も、少し疲れているようだった。
あの広さへ、一人で。
「そっか。助かったよ」
「届いたのですか?」
すぐに聞き返された。
「うん。ちゃんと届いた。あれがなかったら、俺、まだ水の中だったと思う」
「水の中?」
「ちょっと事情があってね」
今説明すると、たぶん呆れられる。
隣を見ると、ディアルは否定も補足もしなかった。
その代わり、アリスへ言う。
「助かった。ありがとう」
アリスが、二人の顔を見比べた。
それから、小さく頷いた。
「……よかったです」
杖を握り直す。
その口元が、ゆっくり緩んだ。
◇◇◇
ウルスナとカリーナは、奥の寝台に並んでいた。
二人とも眠っている。
普段なら、俺たちが来ればすぐ気づくのに、今日は瞼も動かなかった。
ディアルがウルスナのそばへ立った。
俺はカリーナの顔を覗く。
息はしている。
胸がゆっくり上下しているのを見て、ようやく肩から力が抜けた。
「毒の影響は、かなり薄れています」
クリティアが、そばへ来た。
袖には血がつき、疲れた顔をしていたが、話す声は落ち着いていた。
「ただ、消耗しています。しばらくは休ませてください」
「目は覚めるんですよね」
「はい。今は、眠らせておきましょう」
俺は頷いた。
後ろで、誰かが彼女を呼んだ。
クリティアは振り返り、一度こちらへ頭を下げてから、別の寝台へ向かう。
戦いは終わった。
でも、この人たちの仕事は、まだ終わっていない。
俺は場所を空けるように壁際へ寄った。
アリスが、二人を見ていた。
「最後まで、私を守ってくださったのです」
小さな声だった。
カリーナの寝台へ手を伸ばし、ずれていた布を直す。
その動きは丁寧だったが、指先が少し震えていた。
「アリスも、座った方がいいんじゃない?」
「私は平気です」
「うん。俺もよく言うから分かるけど、それ、あんまり信用されないやつだよ」
アリスがこちらを見る。
ディアルは近くの椅子を引き、彼女の後ろへ置いた。
「座れ」
「……はい」
今度は、大人しく腰を下ろした。
杖を両手で抱え、先端の球体を見つめる。
俺も、その隣へしゃがんだ。
「変わったんだね」
「はい」
さっきと同じ返事なのに、少し声が明るかった。
「応えてくれたのです。初めて」
「そっか」
俺は腰の刀へ目を落とした。
こっちも、最初から上手くいったわけではない。今だって、褒めると痛くされることがある。
でも、何を考えているのか分かると、少し嬉しい。
「助けてくれたんだ」
「はい。この子も、一緒に」
アリスが柄へ指を添える。
「遠くまで届けたいと思ったら、応えてくれました」
木目に沿って、淡い光が走った。
アリスが目を丸くする。
俺たちを見て、もう一度、杖を見る。
「……今も、返事をしてくれたのです」
声に、隠しきれない嬉しさが混じっていた。
俺は笑って頷いた。
ディアルも、アリスの抱えた杖へ目を向けていた。
まだ寝台の間を、人が行き来している。
呼びかける声も、足音も、途切れてはいなかった。
その中でアリスは、杖をそっと撫でた。
「ありがとうございました」
指先へ何かが返ったらしい。
今度は驚かず、嬉しそうに笑った。
ウルスナとカリーナの魔法を見ただけで真似した時点で、アリスは天才です。
さすが、




