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おひとりさま歴33年、異世界で捨て子になって王子に拾われました  作者: 花金男爵


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第三十話 その手を離さない


 戦士の肩が、小さく跳ねた。


 アリスを見上げようとしていた顔が俯く。膝の上に置かれていた手が胸元へ動き、途中で止まった。

 口が開く。

 息を吸おうとしているのに、ひゅう、と細い音しか出なかった。


「……私は、大丈夫です」


 今度は、声になった。


 アリスは戦士の前へ膝をついた。

 震える手を両手で包む。指先は冷たく、握り返す力もほとんどなかった。


「私の心配は、しないでください」


 杖を膝へ預け、片手を傷ついた肩へ向ける。

 布の下に、深い傷があった。いつもしているように魔力を流し、裂けたところを繋いでいく。


 血が止まる。

 けれど、呼吸は苦しいままだった。


 戦士の指が動き、アリスの手の中で縮こまる。

 力を込めたわけではない。その人にも止められない震えだった。


 アリスは手を離さなかった。


 戦士が、何かを言おうとした。

 唇の形だけでは読み取れない。顔を近づけると、かすかに「手が」と聞こえた。


 視線を落とす。

 アリスの指に血がついていた。さっき肩へ触れた時についたものだった。


「汚れても、洗えばいいのです」


 そう言って、握り直した。

 戦士の目が、ゆっくり閉じられる。


 安心したのか、それとも、もう開けていることさえ苦しいのか。

 アリスには分からなかった。


 傷は塞がっているのに。

 まだ、こんなに苦しそうなのに。


 向けた魔力を止めることができなかった。


「姫様、何をなさっているのですか」


 顔を上げると、クリティアが近づいてきていた。

 袖口には血がつき、額へ張りついた髪も、そのままになっている。


「ここは危険です。先ほどの場所へお戻りください」

「戻って、どうするのですか」


 クリティアの足が止まった。


 アリスは戦士の手を握ったまま、彼女を見上げた。


「ただ立って、皆さんが苦しんでいるのを見ていろというのですか」

「姫様まで毒に侵されては――」

「私だって、皆さんを助けに来たのです!」


 思っていたより大きな声が出た。

 握っていた手がわずかに動き、アリスは慌てて力を緩めた。


 それでも、離しはしなかった。


「この方は、私にまで大丈夫かと聞いてくださったのです。こんなに苦しいのに。……何もしないなんて、できません」


 クリティアが唇を結ぶ。


「お気持ちは分かります。ですが、あなたをお守りすることも、私たちの務めです」


 その声は、怒ってはいなかった。

 アリスを見ていた目が、手を握られている戦士へ移る。


「この方は私が診ます。どうか――」


 言葉の途中で、光が揺れた。


 ◇◇◇


 寝台の脚が、床を擦った。


 カリーナが横へ傾いていた。

 伸ばしていた手が下がり、支えようとした指が木の縁を滑る。


「カリーナ」


 ウルスナが呼んだ。


 返事はなかった。

 膝をついたまま耐えていた体が、床へ崩れる。束ねられた髪が頬にかかっても、払いのけようとはしなかった。


 淡いオレンジ色の光が、片側から薄れていく。


 ウルスナが手を伸ばし直した。

 カリーナのいた場所まで光が広がり、一度は人々を包み直す。


 その直後、支えにしていた腕が曲がった。


 クリティアが駆け寄り、崩れた肩を受け止める。


「ウルスナ様」


 顔を覗き込み、首元へ指を当てた。

 閉じられた瞼は動かなかった。


 患者たちを覆っていた光が、床から剥がれるように消えていく。

 入口から流れ込む紫色だけが、その後に残った。


 いくつもの咳が重なった。


 アリスが握っている手も、再び強く震え始めた。戦士の喉が動く。さっきより長く息を吸おうとして、それでも胸は十分に膨らまなかった。


 クリティアはウルスナを横たえ、カリーナへ手を伸ばしていた。

 その向こうで、別の戦士が床へ額をつける。


 呼ぶことはできなかった。


 クリティアは見えている。

 助けを必要としている人が、ここにも、そこにもいることを。


 アリスは膝の杖を握った。


 クリティアがカリーナの名を呼んでいる。

 すぐ近くでは、布の上の戦士が腕を伸ばしていた。呼びたくても声が出ないのか、口を開いたまま、指だけを動かしている。


 アリスはその人を見た。

 さっきまでなら、クリティアへ知らせていた。


 今、彼女は倒れた二人を診ている。


 アリスの手の中で、戦士の指が硬くなった。

 また息が詰まる。


 待っていてくださいとは、言えなかった。


 二人は、手を伸ばしていた。

 目の前の一人だけではなく、離れた寝台にも、床に座る人たちにも。


 同じようにしようと、杖を前へ向ける。


 戦士の肩へ集めていた魔力を、手へ、胸へ、その体へ広げた。

 そこで止めず、隣へ横たわる人にも向ける。


 届いてほしい。


 あの人も苦しそうだった。

 もう少し向こうには、自分では起き上がれない人がいる。


 誰か一人を選ぶことなど、できなかった。


 杖を握る手に力が入る。

 握っていた戦士の指を、もう片方の手で包み直した。


 目の前の人が、息を吸った。


 短い呼吸だった。

 それでも、詰まっていた喉を空気が通り、縮こまっていた指が少し開いた。


 アリスは顔を上げた。


 淡いオレンジ色の光が、その胸を包んでいた。


 まだ薄い。

 ウルスナたちが広げていたものより頼りなく、輪郭も定まっていない。


 それでも、隣へ届いていた。


 布の上で丸まっていた戦士が、顔を上げる。

 震えていた肩が、ゆっくり上下した。


 消してはいけない。


 アリスは唇を噛み、さらに魔力を流した。

 光が寝台へ這い上がり、その上の人を包む。遠くへ向けると、手元の光が薄れそうになり、慌てて支え直した。


 額から汗が落ちた。

 拭う手はなかった。


「……姫様」


 クリティアの声が聞こえた。


 アリスはそちらを見られなかった。

 顔を動かしたら、せっかく届いた光まで逸れてしまいそうだった。


 床にはまだ紫色の霧がある。

 苦しげな咳も、なくなってはいない。


 もう少し。

 あの寝台にも。倒れた二人にも。


 アリスは杖を握り締めた。


 ◇◇◇


 掌へ、何かが触れた。


 杖を持っているのだから、何かが触れているのは当然だった。

 けれど、木の硬さとも、自分の体温とも違っていた。


 流していた魔力に重なるように、温かいものが返ってくる。


 アリスは一瞬、指を緩めかけた。


 その指へ、もう一度。

 今度は確かに、包み返すような感触があった。


 いつも、一方的だった。


 どれほど魔力を流しても、話しかけても。

 杖は治療を助けてくれたが、アリス自身へ応えてくれることはなかった。


 今は、違う。


「……あなた、ですか」


 手の中で、木目が動いた。


 細い筋が先端へ伸び、木の表面にあった小さな節が位置を変えていく。

 アリスは息を呑んだ。


 柄が伸びる。

 握っている場所だけは手に馴染んだまま、その上下で木が重なり、いくつもの凹凸を作った。


 深い木目の間に節が浮かび、その表面を、光が滑らかに伝っていた。


 先端が、ゆっくりと捻れた。


 一本の枝が螺旋を描くように伸び、内側へ曲がる。その先に丸い形が生まれ、表面を光が滑った。

 球体だった。


 捻れた一本の枝が、片側からそれを支えている。

 反対側には枝がなく、球体の丸い輪郭がそのまま見えていた。


 アリスは、変わった杖を見つめた。


 自室で、何度も願った。

 変わってほしくて、そっと魔力を流しては、同じ形のままの先端を確かめた。


 それが今、手の中にある。


「やっと……応えてくれたのですね」


 声の終わりが、少し震えた。


 柄から返る温かさが強くなる。

 アリスが驚くと、一度だけ、軽く弾むような魔力が指へ伝わった。


 胸の奥が、熱くなった。


 光が途切れていないか、慌てて顔を上げる。

 寝台も、床に横たわる人々も、淡いオレンジ色に包まれたままだった。


 握り締めていなくても、届いている。


 アリスは指を少しずつ緩めた。

 杖は手の中で落ち着き、流した魔力を、滞りなく先へ送っていく。


 奥の寝台へ目を向けた。

 光が届く。入口の方を気にすると、そちらへも温かな流れが伸びた。


 何も言わなくても、手の中から応えが返ってくる。

 もっと魔力を送ると、待っていたように受け止めてくれた。


 アリスは一度、唇を結んだ。

 笑ってしまいそうだった。


 今は、それどころではない。

 それでも、返事があることが嬉しかった。


 さっきまで、一人ずつ必死に向けていた光が、今は自然にその間を繋いでいた。


 入口の近くまで届く。

 倒れているウルスナとカリーナも、その中にいた。


 アリスは、小さく息を吐いた。


「あなたも、助けたいのですね」


 杖から、温かさが返った。


 何を望んでいるのか、今は分かる気がした。

 その嬉しさに、張り詰めていた口元がわずかに緩む。


 外で、人を呼ぶ声がした。


 アリスは顔を上げた。


 戸口の向こうには、まだ霧があった。

 人を抱えて戻ってくる戦士の姿が、その中でぼやけている。


 この部屋だけではない。


 兄も、フィルも、外にいる。

 後ろへ避難した人たちも、どこまで逃げられたのか分からない。


 杖を通して流れる魔力は、まだ先へ向かおうとしていた。

 戸口まで届いて、そこで止まる必要などないように。


 アリスは戦士の手をそっと床へ下ろした。

 さっきより温かかった。


 顔を覗くと、その人は浅いながらも、自分で息をしていた。


「少し、待っていてください」


 今度は、声が震えなかった。


 アリスは立ち上がった。

 杖を両手で持ち、戸口の向こうへ向ける。


 もっと遠くへ。

 ここからでは、顔も見えない人たちにも。


「では、あちらの皆さんにも届けましょう」


 手の中の温かさが、魔力へ重なった。


 アリスは、もう一度力を込めた。


 ◇◇◇


 最初は、球体の奥に灯った小さな輝きだった。


 淡いオレンジ色の中へ、明るい色が差す。

 それはすぐに枝の捻れを伝い、柄に走る木目へ広がった。


 黄金色だった。


 アリスの足元へ光が落ちる。


 床を這っていた紫色が、薄れた。

 風で押し流されたのではない。光の中で色を失い、何もない空気へ戻っていく。


 アリスは杖を下げなかった。


 目を見開いたまま、さらに遠くを思った。

 どうして色が変わったのか、今は考えもしなかった。


 入口へ向かっていた光が、外へ溢れる。


 戸口にいた戦士が足を止めた。

 抱えていた人が、大きく息を吸ったからだった。


 光は二人を包み、その向こうへ進んでいった。


 道に落ちていた槍が、黄金色に照らされる。

 その横で動けずにいた戦士の指が曲がり、地面を掴んだ。


 建物の間を塞いでいた霧が、端から透けていく。


 見えなかった道の先が現れた。

 倒れた荷物も、退いていく人々も、その向こうで武器を構えている者たちも。


 光はそこで止まらず、防壁の内側へ広がっていった。


 ◇◇◇


 クリティアは、カリーナの首元へ当てていた指を離した。


 呼吸が深くなっていた。

 固く曲がっていた手が開き、苦しげに寄っていた眉が緩んでいる。


 その隣で、ウルスナの胸も静かに上下していた。


 意識は戻らない。

 けれど、先ほどまで二人を蝕んでいたものが、薄れていくのが分かった。


「……息が」


 寝台から声がした。


 一人の戦士が、自分の胸元へ触れていた。

 何度も息を吸い、そのたびに、確かめるように口を閉じる。


 クリティアは立ち上がり、近くの患者へ手を添えた。

 肩の傷は残っている。失った血まで、すべて戻ったわけではない。


 それでも、唇の色が変わり始めていた。

 手足を強張らせていた力が抜け、自分から横になり直そうとしている。


「まだ、起きないでください」


 声をかけながら、窓の方を見た。


 隙間から差してくる光まで、黄金色だった。


 戸口へ向かう。

 そこにいた戦士が、場所を空けた。


 外が、見えた。


 少し前まで、人影すら隠していた霧が晴れていく。

 道端の桶に溜まっていた濁りが消え、底の木目が現れた。その向こうでは、毒を浴びて萎れていた蔓が、葉をゆっくり持ち上げている。


 壁際の黒ずんだ草の根元に、小さな緑が覗いた。


 クリティアは、戸口へ手をついた。


 回復の光なら、何度も見てきた。

 生命を支える魔法も知っている。


 けれど、これは。


 光が道を渡り、戦場の奥へ届いていく。

 離れた場所から、人々の声が上がった。


 振り返る。


 アリスが杖を掲げていた。

 その手から生まれた黄金色が、床を、壁を、人々を包み、なお外へ伸びていく。


 クリティアの唇が、わずかに動いた。


「これは、シーナ様の……」

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