第二十九話 届かない場所
「ヴェノフロールだ。下がれ!」
エムバエルの声に、戦士たちが動いた。
盾を持つ者が前へ残り、その間を縫って負傷者が運ばれていく。壁の穴から顔を出したヴェノハウンドへ矢が飛び、追ってきた一頭を槍が押し返した。
さっきまで前へ進んでいた隊列が、崩れることなく後ろへ下がる。
俺も足を引きかけた。
その時、手の中の刀が、ぐっと魔力を引いた。
痛くはない。けれど、無視できるほど控えめでもなかった。
刃へ光が沿い、大鎌を持つ魔物の姿が、白く映り込む。
「……君、こういう時はやる気なんだね」
返事の代わりに、柄を握る手へ熱が伝わってきた。
大鎌が動く。
魔物は足元の死骸を踏み越え、引いていく盾の列へ刃を向けた。
大きいが、速すぎるわけではない。肩が動き、柄が傾き、その後から刃がついてくる。
俺はその動きを見ながら、刀を構え直した。
戻れとは、言われた。
聞こえなかったことにするには、あまりにしっかり覚えている。
でも、あれなら。
南東側で、金属のぶつかる音がした。
ディアルが前へ出ていた。振り下ろされた槍斧を剣で逸らし、長い柄の内側へ踏み込んでいる。
迷った様子は、少しもなかった。
「フィル殿、戻ってください!」
エムバエルの声を背中に受けながら、俺は大鎌の下へ走った。
◇◇◇
横から迫る刃へ、刀を合わせる。
受け流そうとした手に、魔力が集まった。
刃の根元が、いつもより重く感じる。
そっちね。
腰を落とし、短く受け止めた。
大鎌の先端が地面へ落ちる前に柄の内側へ入り、刀を返す。
魔物の脇腹から、木片のようなものが飛び散った。
踏み込みすぎず、一歩離れる。
さっきまで俺の頭があった場所を、肘から突き出た枝が通った。
なるほど。武器だけ見てちゃ駄目なやつだ。
傷口から暗い液が落ちる。
魔物はそれを気にした様子もなく、大鎌を引き戻した。
足元が、ぬるりと光った。
嫌な予感がして跳ぶと、さっき立っていた場所へ、濁った水のようなものが広がっていく。
直径は二メートルほど。倒れていたヴェノハウンドの脚が、その中へ沈んだ。
着地する前に、今度は魔物の肩口へ紫色の棒が生まれた。
先端が尖る。
槍だ。
「風断」
空中で振った刀から風を飛ばす。
毒の槍が途中で裂け、飛び散った雫が地面へ落ちた。
避けた先へ、もう一本。
俺は着地と同時に横へ走り、追ってきた槍をやり過ごした。
さっきまで立っていた土に、深い穴ができる。
うーん。遠くにいても駄目か。
ずいぶん、付き合い方の難しい相手だね。
「毒沼には入らないでください!」
後ろからエムバエルの声がした。
「うん。見えてる」
答えたところへ、大鎌が地面すれすれを走ってきた。
俺は後ろではなく、前へ跳ぶ。
柄を越え、刀を振り下ろす。
肩から胸へ刃が通った。
近くで、花のような顔が開く。
まずい。
体を捻ると、紫色の液が頬の横を抜けた。
地面で跳ねたそれを避け、さらに一歩退く。
今のは、ちょっと近かった。
「顔にまで仕掛けがあるの、ずるくない?」
もちろん答えはない。
代わりに、大鎌がもう一度振り上げられた。
けれど、最初より遅い。
切り裂いた肩がうまく動かないらしく、柄を持ち上げる途中で傾いている。
俺はその下へ刀を差し込み、腕を狙った。
◇◇◇
向こうでは、槍斧の先が大きく跳ねた。
ディアルが柄を蹴り上げていた。
反った魔物の胴へ、風を帯びた剣が横から入る。
「風断」
裂けた表皮が飛び、太い根のようなものが覗いた。
魔物が一歩退く。
ディアルは、その一歩を詰めた。
槍斧を突き出されても、剣を引かない。刃の側面で軌道をずらし、突き出された腕へ斬り込む。
柄を握る指が、何本か落ちた。
あちらも、押している。
ただ、いつもより追う。
敵が体勢を崩しても、整え直す前に次の剣が届く。
あんなに急がなくても、逃げられはしないと思うけど。
「右、抜けます!」
エムバエルの声に視線を戻した。
ヴェノハウンドが、俺と大鎌の魔物の間へ入ろうとしている。
地面へ手を向ける。
「地牙」
突き出した土の刃が、その腹を貫いた。
足を止めずに横へ回り、大鎌を持つ腕へ刀を入れる。
硬い手応えの後、刃が抜けた。
魔物の片腕が、肘から先で垂れ下がる。
その後ろでは、エムバエルたちが残るヴェノハウンドを抑えていた。
二体の周囲へ人を近づけず、後ろへ続く道を空けている。
俺は一度だけ、刀を握り直した。
いける。
もう、大鎌はまともに振れない。
魔物が、花のような顔をこちらへ向けた。
俺は口からの毒を警戒し、斜めから踏み込む。
傷口が、膨らんだ。
◇◇◇
煙に見えた。
脇腹の裂け目から、紫色のものが溢れる。
血のように下へ落ちず、薄く広がりながら宙へ浮いた。
口元からも、肩からも。
木の皮に似た体の隙間が開き、そこから次々と噴き出してくる。
「下がれ! 霧が出る!」
エムバエルが叫んだ。
俺は踏み込んだ足を止めた。
頬に、ちりっとした痛みが走る。
吸っちゃ駄目だ。
息を止め、反射的に水を集めた。
毒を通さぬよう自身の半径1メートルを水で満たす。
視界が揺れる。
目の前を、小さな泡が上がっていった。
……待って。
これ、息できないじゃん。
慌てて顔の前の水を押し退ける。
頭の周りに、どうにか空間を残した。さっき一緒に閉じ込めた、ほんの少しの空気があるだけだ。
考えてから使えばよかった。
今さらだけど、本当に。
水越しに南東を見る。
あちらからも、同じ色の霧が広がっていた。
二体分の霧が重なり、退いていく戦士たちを追いかける。
一人が咳き込み、盾を落とした。
隣の者が肩を支える。
だが、その足も途中で止まった。膝をつき、立とうとしているのに立てない。
俺は、そちらへ向きかけた。
すぐにイーサックが来た。
二人をまとめて抱え、霧の薄い方へ走っていく。その後ろで、アリソンが別の戦士へ腕を伸ばしていた。
さっきまで空いていた道に、人が倒れている。
まずい。
俺たちが無事でも、これじゃ。
ディアルがこちらを見た。
その周囲だけ、霧が円く避けている。服の裾が、外から吹く風とは違う方向へ揺れていた。
空気ごと、囲っているのか。
そっちの方がよかったな。
でも、あれも新しい空気を入れたら毒まで入る。
ディアルが敵へ目を戻す。
俺も、目の前の魔物を見た。
片腕は垂れ、体には深い傷がある。
それなのに、そこから溢れる霧は少しも弱まらない。
後ろでは、まだ人が運ばれていた。
なら、先にこっちを止める。
俺は刀を構え、揺れる水の向こうへ足を踏み出した。
◇◇◇
「窓を閉めてください。入口から離れて!」
クリティアの声に、荷物を運んでいた戦士が窓へ走った。
アリスは手元の布を置き、戸口を振り返る。
一人の戦士が、両脇を抱えられて運び込まれてきた。
足が床を擦っている。寝台へ下ろされても手は動かず、薄く開いた口から、途切れた息が漏れていた。
「霧を吸った。急に動けなくなって……」
付き添ってきた戦士も、言い終える前に咳き込んだ。
アリスが杖を持って近づこうとした時、ウルスナが間へ入った。
「アリス様、下がってください」
「ですが、私も――」
「今は、動いてはいけません」
大きな声ではなかった。
けれど、いつもよりわずかに強い語調に、アリスの足が止まった。
ウルスナはすぐに入口へ向き直り、手を伸ばす。
その脇をクリティアが通り、運ばれてきた戦士の襟元を緩めた。
「聞こえますか。目を開けてください」
頬へ触れながら、もう片方の手を胸へ置く。
寝台の横では、付き添ってきた戦士が壁へ手をついていた。肩が大きく上下している。
カリーナが戸口へ走った。
床を這っていた紫色が、その足元へまとわりつく。
「アリス様」
振り返った顔に、笑みはなかった。
「お願いします。そこにいてください」
アリスは頷いた。
カリーナはそれを確かめると、すぐにウルスナの隣へ並んだ。
二人の手から光が広がった。
寝台の間を渡り、床へ座り込んだ戦士の体を包む。
苦しそうに胸を動かしていた者が、一度、深く息を吸った。
アリスは、その光を目で追った。
傷口へ集まるものではない。
触れてもいない人々を、同時に包んでいる。
知らない魔法だった。
けれど、尋ねることはできなかった。
ウルスナもカリーナも、患者たちから目を離さない。伸ばした手を下ろすことさえせず、その場に立っている。
「少し呼吸が戻りました。今のうちに、奥の建物へ」
クリティアが言い、付き添いの戦士を呼んだ。
寝台から患者を移すと、すぐ次の者が運ばれてくる。
入口は閉められなかった。
戸口を人が通るたび、霧が入ってくる。
カリーナの肩が震えた。咳を堪えるように唇を結び、両手を前へ伸ばし直す。
アリスは杖を胸元へ引き寄せた。
助けたいと言いかけた言葉が、喉に残っていた。
◇◇◇
寝台が足りなくなり、床へ布が敷かれた。
イーサックが運んできた戦士をそこへ寝かせる。
片脚が不自然な方向へ曲がっていた。クリティアが駆け寄り、服を裂いて傷を確かめる。
「倒れたところを踏まれたらしい。まだ外に二人いる」
「連れてきてください。歩ける方は内側へ。ここには残らないように」
イーサックが頷き、外へ戻る。
クリティアは脚へ手を添え、戦士の顔を見た。
「動かします。少しだけ、耐えてください」
低い呻き声が漏れた。
アリスは思わず足へ力を入れた。
あの傷なら、自分にも治せる。
その先に、ウルスナの背中が見えた。
足は動かなかった。
先ほど、自分を止めるために向けられた声を思い出す。
二人は今も、手を伸ばしたままだ。光が届いている戦士たちは、呼吸を整えようと胸を動かしている。
ここで動いたら、また自分を止めなければならない。
杖を持つ手を、ゆっくり下ろした。
「こちらの方も、お願いします」
別の寝台のそばから声が上がった。
クリティアは脚の治療を終えると、立ち上がった。額へ張りついた髪を手の甲で払い、呼ばれた方へ向かう。
その途中で、床に座っていた戦士が横へ倒れた。
膝をつき、その体を支える。
「大丈夫です。横になりましょう」
次の寝台では、苦しそうな息が続いていた。
クリティアはそちらを一度見て、目の前の戦士へ手をかざした。
一人しかいなかった。
傷を確かめるのも、息が詰まりそうな人へ声をかけるのも、次に誰を治すか決めるのも。
呼ばれるたびにクリティアは顔を上げ、そのたびに、誰かを待たせていた。
アリスは立っていた。
杖を持っている。
回復魔法も使える。
それなのに、誰の名前を呼ぶこともできなかった。
◇◇◇
ウルスナが、一度だけ大きく息を吐いた。
肩が下がり、光が薄くなる。
近くの寝台で、戦士が胸元を掴んだ。
すぐにカリーナが手を伸ばし、そこへ光を重ねた。
その口から短い咳が漏れる。
「カリーナ、大丈夫ですか」
「はい。そちらをお願いします」
二人とも、こちらは見なかった。
アリスは唇を噛んだ。
普段、自分を安心させてくれる時の声とは違っていた。
入口から入る霧は、消えていない。
床へ落ちた布が、薄紫色の中に沈んでいる。二人はそのそばで、人々を覆う光を絶やさずにいた。
カリーナの指が曲がった。
伸ばそうとしているのに、戻らない。
反対の手で手首を支えた瞬間、膝が折れた。
「カリーナ……」
アリスの声は、外から響いた音にかき消された。
何かが砕け、風が窓を叩く。
兄とフィルは、まだ戦っている。
ウルスナが片足を引き、カリーナの前へ出た。
その手が寝台の縁を掴む。白くなった指を何度も掛け直し、ようやく体を支えた。
「そちらを、お願いします」
カリーナは床に膝をついたまま頷いた。
二人の間で、光がつながり直す。
クリティアは患者の胸へ手を当てたまま、その様子を見た。
立ち上がりかけ、手元へ視線を落とす。
離れられないのだと、アリスにも分かった。
自分だけが、何もしていなかった。
カリーナを呼んだところで、どうするのだろう。
また大丈夫と言わせるのだろうか。指も動かせなくなった人に、こちらを振り返らせて。
アリスは俯いた。
来る前には、できることがあると思っていた。
医療機関では、名前を呼ばれるたびに嬉しかった。治療した人が笑ってくれると、次も頑張ろうと思えた。
今は、誰からも呼ばれない。
呼ばないようにしてくれている。
危ない場所へ近づかなくて済むように。毒を吸わずにいられるように。
守ってもらっているのだ。
杖を握る指が痛かった。
少し緩めても、胸の苦しさは変わらなかった。
「……姫様」
すぐ近くから、かすれた声がした。
壁際に座っていた戦士だった。
肩には布が巻かれている。その下から血が滲み、膝の上へ置いた手は、小刻みに震えていた。
「大丈夫、ですか」
アリスは口を開いた。
はい、と答えればよかった。
怪我はしていない。立っていられる。息もできる。
この人より、ずっと大丈夫だった。
それなのに、声が出なかった。
戦士が顔を上げようとする。
首を動かしただけで眉が寄り、浅い息が漏れた。
そんなことまで、させてしまった。
アリスは首を横に振りかけて、止めた。
違う。そう答えたら、もっと心配をさせる。
何も言えないまま、杖を胸へ抱いた。
助けに来たはずだった。
ウルスナにも、カリーナにも。
苦しんでいる、この人にまで。
自分は、守ってもらうことしかできない。




