第二十七話 境界の暮らし
出発の朝、俺の荷物は思っていたより軽かった。
剣と、身の回りの物を入れた袋。
木の器も、削る道具も、部屋に置いてきた。アリソンの確認を通り抜けたのは、必要だと説明するまでもない物ばかりである。
「忘れ物は?」
「ないと思うよ。置いてきた物なら、いっぱいあるけど」
馬車の扉を押さえていたイーサックが笑った。
「帰りは重くなりそうだな」
「分かる?」
「顔に書いてある」
そんなに分かりやすかっただろうか。
後ろからアリソンが来たので、それ以上は話さずに乗り込んだ。
ディアルとアリスは、もう座っていた。アリスは膝に杖を載せ、窓の外へ目を向けている。
俺も向かいへ腰掛けると、ウルスナが袋の置き場所を直してくれた。
ほどなく、馬車が動き出す。
フェリックス王の乗る馬車を先頭に、俺たちは王都を離れた。
森へ入っても、すぐに道が悪くなるわけではなかった。
大きな木を避けて緩く曲がりながら、荷車が通れる幅が続いている。水のたまりそうな場所には溝が掘られ、道へ張り出す枝は払われていた。
途中、向こうから来た荷車とすれ違う。
こちらが道の広い場所で待つと、箱や空の籠を積んだ車列が通っていった。
「あれ、戻ってくる人も多いんだね」
「ああ」
ディアルは荷台へ目を向けていた。
脇に座る戦士がこちらへ礼を取り、すれ違った後は、すぐ森へ顔を戻す。
少し先で、枝が揺れた。
鳥かと思って見上げると、高い場所に人がいた。幹の間へ渡した足場から、長い柄の武器を持つ戦士が道を見下ろしている。
「こんなところにもいるんだ」
「見張りですね」
アリソンの声に、もう一度目を向ける。
葉の間へ姿が隠れてしまい、どこにいたのか分からなくなった。
曲がり角には目印があり、途中で休んだ場所には、車輪を直すためらしい木材が積んであった。
誰も通らない森へ入っていくのだと思っていたけど、違うらしい。
俺たちの馬車が通る前にも、通った後にも、ここを使う人がいるのだ。
◇◇◇
木々の隙間から、壁が見えた。
最初は、ひときわ枝の密な場所かと思った。
近づくと、太い木材が幾重にも組まれ、その間を蔓が縫うように這っている。葉に隠れた向こう側には、人が歩ける足場もあるらしい。
開いた門の脇では、戦士たちが荷を確かめていた。
俺たちの馬車が着くと、道を空けながらも、持ち場を離れることはない。
降りる前に、フードの縁を確かめた。
白い髪は、ちゃんと隠れている。
外へ出ると、すでにフェリックス王が一人の男と話していた。
背が高く、肩に厚みがある。編んだ髪を背へ流し、腰には使い込まれた武器を提げていた。
王の話を聞きながらも、門を通る荷車が止まると、一度だけそちらへ目を向ける。
「お待ちしておりました、陛下」
「変わりないか?」
「はい。先にお送りした報告のとおりです」
王が、降りてきた俺たちへ振り向いた。
「紹介しておく。ここの戦士団を預けてる、ヴァルベルドだ」
男が礼を取る。
ディアルとアリスが名乗り、俺もその後に続いた。
「フィルです。よろしくお願いします」
「お名前は伺っております。エスティアへようこそ」
丁寧な返事だった。
ただ、俺の名前が出た時だけ、近くにいた戦士がこちらを見た。
何を聞いているのかは分からない。
俺が視線を返すと、その人は門の外へ顔を戻した。
「荷を下ろしたら、中を見せてやってくれ」
「承知いたしました」
ヴァルベルドが短く指示を出す。
戦士の一人が動き、馬車は門の脇へ寄せられた。
その人が俺たちの前を通る。
腰の武器がぶつからないよう、体の向きをわずかに変えた。それでも、視線は周囲から離れない。
宮殿で戦った騎士とは、感じが違う。
イーサックを見ると、彼も戦士たちを見ていた。
俺と目が合うと、いつもの笑顔のまま、少しだけ顎を引いた。
◇◇◇
門の内側には、思っていたより家が多かった。
武器を持った人ばかりが暮らしているのかと思えば、軒先で布を干す人もいれば、籠を抱えて歩く子供もいる。
煙突からは細い煙が上がり、どこかで木を叩く音がしていた。
「皆さん、ここで暮らしているんですね」
「仕事の場でもあり、住まいでもありますから」
案内してくれるヴァルベルドが答えた。
物資を保管する建物の前では、荷車から下ろした箱を、係の人が一つずつ確かめている。
ディアルが足を止めた。
「王都からの荷ですか?」
「はい。本日届いた分です」
蓋に青い印のある箱を見て、ディアルが頷く。
「これは、回復部隊へ?」
「ええ。数を確認して、こちらから渡します」
王都で見たものらしい。
ディアルは邪魔にならない位置へ寄り、箱が建物へ運ばれていくところを見ていた。
その先では、割れた車輪を直している人がいた。
俺が覗き込むと、削っていた木を置き、手元を見せてくれる。
「ここの形を合わせるんだ。ずれると、走ってるうちに緩む」
「そのまま入れるんじゃ駄目なの?」
「駄目だな。引く馬も困る」
なるほど。
人だけでなく、馬のためにも丁寧に直しているらしい。
もう少し見ていたかったが、ディアルたちが先へ進んだので、慌てて追いかけた。
家々の間を抜けると、広い道へ出た。
両脇には物が置かれておらず、集落の奥まで見通せる。
「ここも、荷車を通す道ですか?」
「それもあります。怪我人を運ぶ時や、住民が内側へ移る時にも使いますので、空けておく決まりです」
アリスが道の先へ目を向けた。
「怪我をした方は、どちらへ?」
「この先です。回復部隊の詰所がございます」
背後で、子供の声がした。
転がした木の輪が道へ出てしまったらしい。追いかけてきた子が、すぐに拾って端へ戻る。
大人に怒られるより先に、道は元どおり空いた。
◇◇◇
回復部隊の詰所は、広い戸口のある建物だった。
中には寝台が並び、壁際の棚には布や瓶が収められている。入口から奥まで、物を避けずに歩けるようになっていた。
ヴァルベルドが、出迎えた女性を紹介する。
「回復部隊を率いる、クルティアです」
彼女が礼を取ったところで、視線が俺たちの後ろへ動いた。
「ウルスナ。カリーナも」
カリーナが、少し顔をほころばせる。
「お久しぶりです」
「二人とも一緒だったのね。先に教えてくれてもよかったのに」
「急に決まりましたから」
ウルスナも、いつもより少し柔らかい声だった。
棚の前にいた別の治療師まで振り返り、こちらへ近づいてくる。
「お戻りになったのですか?」
「今回は、お供で参りました」
その人は残念そうにしながらも、嬉しそうに頷いた。
知り合いがいるとは思っていたけど、挨拶を交わすだけの相手ではなさそうだ。
「前に、ここで働いてたの?」
小声で聞くと、カリーナが頷く。
「はい。ウルスナと、こちらの部隊におりました」
「そうだったんだ」
「棚の場所は、少し変わっていますね」
俺の服を選んだり、アリスの野菜を皿へ戻したりする二人にも、俺の知らない仕事があったのだ。
アリスが一歩前へ出た。
「お仕事を見せていただいても、よろしいでしょうか。できることがあれば、お手伝いもしたいです」
クルティアが改めて向き直る。
声も表情も丁寧だったが、王都の治療院で聞いたような、親しげな呼びかけではなかった。
「もちろんです、姫様。まずは、使う物の場所をご案内いたします」
「はい」
アリスが嬉しそうに頷く。
その時、戸口から声がかかった。
「巡回が戻りました。二人、手当てをお願いします」
クルティアは、すぐに入口へ向き直った。
◇◇◇
戻ってきた戦士たちは、自分の足で歩いていた。
一人は腕を押さえ、もう一人は足をかばっている。装備には引き裂かれたところがあり、土と葉が付着していた。
「こちらへ。何にやられました?」
「ヴェノハウンドです。左腕と、足首」
「触れた場所は?」
「俺は腕だけ。こいつは倒れた時に、膝も」
クルティアの質問に、一人が答える。
別の治療師が手袋をはめ、二人を別々の寝台へ座らせた。
アリスは通路を空け、杖を両手で持って待っている。
クルティアが棚を指した。
「姫様。下の段の、布を入れた籠をお願いします」
「はい」
すぐに持って戻る。
受け取った治療師が礼を言い、膝をついて戦士の足を確かめた。
必要な物が、次々と運ばれていく。
俺も邪魔にならないよう、戸口の横へ寄った。
そこへ、後から来た戦士が外した腕当てを置く。
革の表面に、黒ずんだ筋が残っていた。
ただの汚れではなさそうだった。
近くで見ようと身をかがめると、戦士が手を上げた。
「触れないでください。毒が残っているかもしれません」
「これにも?」
「はい。噛まれなくても、触れればやられます」
伸ばしかけた手を引っ込めた。
戦士は腕当てを厚い布の上へ移し、ほかの荷物から離す。
「ヴェノハウンドは、体にも毒がある。倒した後も、不用意には近づかないように」
そばへ来たヴァルベルドが言った。
腕を押さえていた戦士を見る。
治療を受けながら、無事な方の手で杯を持っていた。
門にいた人たちと、同じ装備だ。
弱そうには見えない。それでも、こうして戻ってくることがあるらしい。
「気分は、悪くありませんか?」
アリスが、足を痛めた戦士のそばへ屈んでいた。
「少し、痺れるだけです」
「クルティア様、足に痺れがあるそうです」
知らせると、クルティアがすぐに様子を確かめる。
ウルスナとカリーナも、彼女の指示に合わせて動き始めていた。
◇◇◇
「団長。ご報告を」
戸口へ来た戦士が、ヴァルベルドを呼んだ。
フェリックス王は少し離れた場所に立ち、手当ての様子を見ていた。
ヴァルベルドがそちらへ目を向けると、王は短く頷く。
「ここでいい。聞かせろ」
戦士が姿勢を正した。
俺とディアルも、通路の端へ寄る。
「東の巡回路で、十頭ほどと遭遇しました。数頭を倒しましたが、後方にも動く気配がありました」
「追ってきたか?」
「仲間が別の道へ誘導しました。我々は負傷者を連れて、こちらへ。残った者が確認を続けています」
ヴァルベルドが壁の地図を指す。
戦士が近づき、遭遇した場所から、帰ってきた道を示した。
「怪我人を戻した判断はいい。残った組には、深入りせず――」
外で、短い音がした。
角笛だった。
話していた戦士が口を閉じ、クルティアも顔を上げた。
少し間を置いて、同じ音が続く。
ヴァルベルドが戸口へ向かったところで、別の戦士が駆け込んできた。
「東の見張りから報告です。ヴェノハウンドの大群が接近。こちらへ向かっています」
十頭では、ないらしい。
「数は?」
「先頭だけで数十。後ろにも続いており、全体は確認できていません」
ヴァルベルドが地図へ目を戻す。
最初の戦士が示した場所より、報告された位置は集落に近かった。
「南東の見張りは?」
「確認中です」
返事の直後、戸口の外から声が上がった。
走ってきたもう一人が、敷居の手前で足を止める。
「南東にも多数。東の群れとは、別の経路です」
ディアルが地図へ近づいた。
俺も、示された二つの場所を見る。
片方を見ていれば、もう片方は見えない。
それくらいは、俺にも分かった。
「陛下。迎撃の配置を取ります」
「ああ」
フェリックス王の返事は短かった。
ヴァルベルドはすぐに、戦士たちへ顔を向ける。
「東と南東、両方の持ち場へ伝えろ。外にいる者を戻せ。荷の搬入は中止、住民を内側へ移す」
命令を受けた者が走り出した。
その後ろを、別の者が追う。
クルティアが治療師たちを呼び、入口に近い寝台を空けるよう指示していた。アリスも椅子を持ち上げ、通路から離れた場所へ運ぶ。
さっきまで眺めていた部屋の中が、急に広くなった。
◇◇◇
外へ出ると、集落の鐘が鳴り始めていた。
荷車が道の端へ寄せられる。
積みかけだった箱は、そのまま建物の中へ運び込まれた。車輪を直していた職人が道具を置き、隣の家へ声をかけている。
「奥へ行くぞ。荷物は置いておけ」
木の輪を持っていた子が、大人の手を握っていた。
遊び道具は軒下へ置かれ、小さな足が広い道へ向かう。
走っている戦士はいても、住民を押しのける者はいなかった。
すれ違う場所を空け、歩くのが遅い人には別の者が手を貸す。
さっき、何も置かれていなかった道だ。
そこへ、人が流れ始めていた。
「フィル様、こちらへ」
アリソンに呼ばれ、戸口の前を空けた。
イーサックはすでに、その先の道を見ている。笑ってはいなかった。
ディアルは、駆けていく戦士たちの向こうへ目を向けていた。
俺も、その視線を追った。
門の上で、見張りが腕を上げる。
森から最後の数人が戻ると、門の両側にいた戦士が動き、太い木の扉が閉まり始めた。
その隙間の向こうで、低い枝が大きく揺れた。
一か所ではない。
離れた茂みでも、さらにその奥でも、葉が波打っている。
閉じていく門の間を、何かが横切った。
地面に近い、四つ足の影だった。次の影が追い、その後ろにも続く。
木の扉が重なり、森が見えなくなった。
「東、目視。多数、接近中!」
見張りの声が壁の上を走る。
南東の方からも、呼び交わす声が聞こえた。
俺は刀の柄へ手を置いた。
来る途中に見た道は、あの門の向こうにある。
荷車も、人も、さっきまで通っていた道だ。
今はそこを、別のものが埋めようとしていた。




