第二十六話 もう一度
アリスとカリーナを見送った後、俺は庭へ戻った。
午前の稽古は終わっている。午後まで剣を振るつもりはなく、日陰の椅子で休みたかっただけだ。
できれば、今度こそ温かいうちにお茶を飲みたい。
そんな俺の前で、ディアルがフェリックス王へ頭を下げた。
「俺にも、稽古をつけていただけますか」
「いいぞ。剣は持ってきてるな?」
「はい」
「じゃあ、そこへ立て」
早い。
お互い、午後の予定を決めるのに何の迷いもないらしい。
俺は椅子へ座りかけたところで、少し位置をずらした。ここなら二人がよく見える。
ウルスナがお茶を置いてくれたので、礼を言って杯を持つ。
見ている分には、転ばされる心配もない。
なかなかよい午後になりそうだった。
◇◇◇
最初の一撃を仕掛けたのは、ディアルだった。
近づくまでは速くない。
けれど、踏み込む足が地面へ着く直前、剣先だけが急に伸びた。
フェリックス王の大曲剣が、それを横へ払う。
ディアルは逆らわず、逸らされた剣を引きながら、もう一歩内側へ入った。
俺なら、そこで体ごと流されていたと思う。
ディアルの足は止まらず、短く返した刃が、王の脇へ向かった。
金属の音が二つ続く。
最後に聞こえたのは、靴が草を擦る音だった。
ディアルが後ろへ下がり、胸元へ寄せられた大曲剣を見下ろしている。
「近づくところまでは、悪くない」
フェリックス王が剣を引いた。
ディアルは短く頷き、元の位置へ戻る。
二度目は、同じところまで入らなかった。
王が剣を返そうとしたところで足を止め、先に相手の刃へ自分の剣を当てる。大曲剣の向きを変えてから、逆側へ回ろうとした。
途中までは、俺にも分かった。
だが、次に王の体が動いた時には、ディアルの剣は上を向いていた。柄に何かをされたように見えたが、よく分からない。
空いた喉元へ、刃が止まる。
「今の、何をしたの?」
隣へ来ていたアリソンに、小声で聞いた。
「殿下の剣が戻る位置を、先に塞がれました」
「先に?」
「はい」
「……なるほど」
分かったように頷いたけど、もう一度見ても分かる気はしなかった。
ディアルは自分の剣へ目を落とし、握りを少し変えた。
次に踏み込んだ時には、先ほどと違う高さから刃を返している。
見ていただけで、そこまで直せるものなのだろうか。
俺にも、あれくらい分かりやすく見せてほしい。いや、見せてもらっても、できるかどうかは別なんだけど。
何度か打ち合いが続いた。
間合いを広げる時もあれば、深く入る時もある。同じ攻撃に見えても、踏み込む間が少しずつ違っていた。
そのたびに、フェリックス王は受け方を変える。
ディアルの剣が腕へ届きかけたこともあった。
避けた王へ続けて踏み込み、さらに一撃を重ねる。
当たるかと思った。
だが、王は下がった分だけ横へ動き、すれ違いざまにディアルの剣を押さえた。
俺の杯は、とっくに空になっていた。
ウルスナが注ごうとしてくれたのに気づいて、慌てて机へ戻す。
「休むか?」
「まだ、できます」
ディアルの返事は、いつもと同じだった。
息を整え、額の汗を袖で拭ってから構える。
次は、どうするのだろう。
俺は椅子の背から体を起こした。
何度目かの打ち合いを終える頃には、庭へ落ちる木の影が長くなっていた。
フェリックス王が大曲剣を下ろす。
「今日はここまでだ」
「もう一度」
早い返事だった。
王は剣を持ち直さなかった。
ディアルだけが、まだ構えたまま立っている。
「次は、何を変える?」
返事がない。
先ほどまでは、負けた後もすぐに剣の位置や足の向きを確かめていた。今は、そのままだった。
俺も、何となく口を閉じた。
やがてディアルの剣先が下がる。
握っていた指を一度開き、柄を持ち直した。
「……ありがとうございました」
頭を下げると、フェリックス王は軽く頷いた。
「手入れしておけよ。随分、使ったからな」
それだけ言って、王は広場を出ていった。
俺は机の上の、まだ使っていない杯を取った。
ウルスナに飲み物を注いでもらい、戻ってくるディアルへ差し出す。
「お疲れ様」
「ああ。ありがとう」
杯を受け取る手に、少し赤いところがあった。
「ぼくより、ずっと長く立ってたね」
「倒されなければいいわけじゃない」
ディアルはそう答え、飲み物へ口をつけた。
俺は自分の椅子を少し横へ寄せる。
「とりあえず、今は座っていいと思うよ」
空いた場所へ椅子を置くと、ディアルはそこへ腰を下ろした。
◇◇◇
アリスが戻ってきたのは、その後だった。
部屋へ顔を出すなり、俺たちを見て足を止める。
ディアルは布を手に、剣の表面を確かめていた。俺は隣で、買ってきた木の器の蓋を開けたり閉めたりしている。
「お二人とも、こちらでしたか」
「おかえり。治療院はどうだった?」
アリスは杖をカリーナへ渡してから、そばへ来た。
「今日は、前に治療した女の子が、お母様を連れていらしたんです」
「今度は、お母さんが怪我をしたの?」
「はい。手を切ってしまったそうです。私に診てほしいと、待っていてくださって」
話しながら、アリスは自分の手のひらを開いた。
少女が母親の手を心配していたこと、治った後は離そうとしなかったことまで、順番に教えてくれる。
「じゃあ、これからはお母さんも怪我できないね」
「そうですね。娘さんが、よく見ていてくださると思います」
「ぼくらにも、そういう人がいるし」
「それでも怪我をするのが、お二人です」
こちらへ向けられた視線が、途中でディアルの手元へ止まった。
「お兄様。手を見せてください」
「問題ない」
「見せてください」
俺は黙って、器の蓋を閉めた。
ここへ口を挟むと、こちらの手まで調べられる気がする。
ディアルは布を置き、片手を差し出した。
アリスが指の付け根を確かめ、小さく眉を寄せる。
「修行は、いかがでしたか?」
「まだ、届かない」
「お祖父様にですか?」
「ああ」
それ以上は続かなかった。
アリスはカリーナから杖を受け取り、ディアルの手へ近づける。
「では、また修行ができますね。手は、先に治しておきます」
柔らかな光が、赤くなったところを覆った。
ディアルはその様子を見てから、妹へ目を向ける。
「ありがとう」
「はい。次は、もう片方です」
アリスの手当てを受けながら、ディアルは治療院で何を教わったのか尋ねた。
返事をするアリスの声が、少し弾む。
俺は器を机へ置き、今度こそ、ちゃんと話を聞くことにした。
◇◇◇
夕食の前に、三人でフェリックス王の部屋へ呼ばれた。
机には地図が広げられている。
王は手にしていた書類を脇へ置き、入ってきた俺たちへ目を向けた。
「王都は見て回ったか?」
「はい。お店もいろいろ見ました」
「買い物の話は、聞いてる」
どこまで伝わっているのだろう。
特に変な物は買っていないはずなので、気にしないことにする。
「今度は、国の外側を見に行くか」
王の指が、地図の東側へ置かれた。
森の中に、一つ印がある。
「東の集落、エスティアだ。あそこを受け持つ戦士団から報告が来てる。俺も、一度見ておこうと思ってな」
ディアルが地図へ近づいた。
「魔物が増えているのですか?」
「この季節は、毎年そうだ。今すぐお前たちを連れて戦わせる話じゃない」
アリスも、隣から覗き込む。
俺は二人の肩の間から地図を見た。
王都の周りは、すでに十分な森に見える。
その外側となると、どれくらい木が増えるのだろう。道までなくなったら、俺はすぐ迷子になりそうだった。
「王都ばかりじゃ、この国のことは分からないだろ。外で暮らしてる連中も見てこい」
フェリックス王が椅子へ座り直す。
ディアルは、地図の印と、そこへ続く線を目で追っていた。
「物資を運ぶ道も、こちらですか?」
「ああ」
「王都で、境界へ送る荷を見ました。着いた後、どう使われるのかも見たいです」
「向こうで聞けばいい。仕事の邪魔はするなよ」
「はい」
今度はアリスが顔を上げた。
「集落にも、治療院はあるのでしょうか」
「戦士団に回復部隊がいる。そっちを見せてもらえ」
「お手伝いをしても、よろしいですか?」
「何をするかは、現場の奴に聞け。勝手に患者を連れてくるなよ」
アリスが真剣に頷く。
王の口元が少し動いた。
「フィルは?」
「集落の家も、木でできてるんですか?」
「多いな」
「こんなふうに、木の間に道があるんでしょうか。あと、森では何が採れますか?」
「行けば分かる。好き勝手に道を外れるなよ」
俺にだけ、注意が具体的だった。
まだ何もしていないのに。
「出発は明後日の朝だ。支度は、そいつらと相談しろ」
王が、後ろに控えるアリソンたちへ目を向けた。
話は決まったらしい。
部屋を出る時、アリスは早くもカリーナへ、治療院に予定を伝えなくてはと話していた。
◇◇◇
戻った部屋で、アリソンが小さな地図を机へ置いた。
王の部屋で見た物より、道が詳しく描かれている。
俺とディアルが覗き込むと、アリソンは指で道筋を示しながら、移動中の予定を説明した。
「お荷物は、身の回りの物をまとめていただければ結構です。衣類や食料などは、こちらで整えます」
「全部持って歩くわけじゃないんだね」
「はい。ただし、すぐ必要になる物は、ご自身でお持ちください」
「剣とか?」
「もちろんです」
ディアルは説明を聞きながら、手入れを終えた剣を腰へ戻した。
続けて、椅子に置かれた小さな革袋を手に取る。
中身を確かめ、一つずつ机へ並べ始めた。
布と、留め具と、細い紐。何に使うか分からない物もあったが、剣の手入れに必要な物らしい。
「殿下。袋の留め具も、ご確認ください。森では引っかけることもございますので」
「分かっている。今、やっている」
ディアルの手は、ちょうど留め具へ伸びたところだった。
俺は、自分の袋へ入れかけた器を止めた。
アリソンの口調は、さっきまでと何も変わっていなかった。
「承知いたしました。傷みがあれば、お取り替えします」
説明が続く。
ディアルは留め具を外し、もう一度留め直した。
「緩みはない」
「では、そちらをお使いください」
普通のやり取りに戻っていた。
俺も、止めていた手を動かす。
「フィル様」
「はい」
「そちらの器も、お持ちになるのですか?」
今度は俺の手が、自分の意思で止まった。
「食べ物を入れられるよ?」
「食器はご用意いたします」
「蓋もあるんだけど」
「存じております」
機能を説明しても、駄目らしい。
俺は器を袋から出し、机の端へ置いた。
「こちらの道具は?」
「木を削るやつ。向こうの木も見てみたいし」
「森へ木工を習いに行くわけではございません」
「空いた時間に、少しくらい」
「まずは、道具の扱いを教わってから、というお話でしたね」
昨日、自分でもそう思っていた。
先に言われると、何も返せない。
小さな包みも、器の隣へ並んだ。
袋の中が、急に寂しくなる。
「これ、持っていく物を決めてるんだよね?」
「はい」
「置いていく物ばかり増えてない?」
「よい準備ができているかと」
アリソンは笑っていた。
たぶん、本気でそう思っている。
◇◇◇
しばらくして、アリスとカリーナも部屋へ来た。
アリスは小さな箱を持っている。
中には清潔な布や、手当てに使う道具が、きちんと分けて収められていた。
「私も、こちらを持っていきます」
「アリスのはいいの?」
「必要な物ですから」
アリソンの返事に、俺は机の端へ目をやった。
器と道具は、相変わらず置かれたままだ。
「杖も、忘れずにお持ちくださいね」
カリーナが言うと、アリスは頷いた。
「はい。明日、治療院で使った後に、きれいにしておきます」
忘れる心配など、少しもしていない声だった。
ディアルが箱の蓋へ触れる。
「これも、自分で持つのか?」
「はい」
「持ってみろ」
アリスが両手で持ち上げる。
重そうではない。それでもディアルは、取っ手と蓋の留まり方を確かめてから手を離した。
「大丈夫そうだ」
「お兄様ほど重い物は、入っていませんから」
アリスが少し得意そうに言った。
ディアルは自分の剣へ目を落とし、それから頷いた。
俺は二人を見てから、残った包みを袋へ入れる。
「フィル。それは何だ」
「お菓子」
「さっき、食料は用意すると言われただろ」
「これは、途中で食べる分だよ」
「途中で食べる物も、食料だ」
そこまで正確に分けなくてもいいと思う。
「半分、食べる?」
「いらない」
「私はいただきます」
隣から、アリスの手が上がった。
カリーナが何か言うより早く、俺は包みを少し開いた。花の形をした菓子が二つ、割れずに残っている。
一つずつ取ると、ちょうど包みが空になった。
「これなら、荷物も減るね」
「そうですね」
アリスと意見が一致した。
アリソンが、小さく息を吐く。
俺は菓子を口へ入れながら、机に広げられた地図を見た。
王都から東へ延びる道の先に、小さな集落の印がある。
どんな場所なのだろう。
とりあえず、木の器は置いていくことになったけど、帰りに増えないとは約束していない。
それは、着いてから考えることにしよう。




