第二十五話 返事のない杖
夕食の席でも、アリスの話は続いていた。
治療院で教わったこと。名前を覚えてくれた人のこと。帰る時に、また明日と言ってもらえたこと。
昼間の話を聞いているうちに、俺の方まで、まだ会ったことのない人を知っている気になってくる。
回復魔法の使い方を説明するアリスが、杖を持つ時のように右手を動かした。
それを見て、ふと思い出す。
「そういえば、アリスの杖は形が変わったの?」
スプーンを持つ手が止まった。
ほんの少しの間だったが、さっきまで楽しそうに話していた口も閉じている。
「いえ、その、アリス様の杖は、もともと大変よいものでして」
なぜか、カリーナの方が慌てていた。
「魔力も十分に蓄えられますし、扱いやすく、回復魔法にも向いております。変化しなくても、何も問題は――」
「カリーナ」
アリスに呼ばれ、説明が止まる。
アリスはスプーンを置き、俺へ顔を向けた。
「私も、お兄様と同じで、変化させられませんでした」
「そうだったんだ」
「でも、カリーナからいただいた大切なものですから。これからも使いたいんです」
隣に立つカリーナが、口を開いた。
何か言いかけたようだったが、結局、少し照れたように笑う。
「……ありがとうございます、アリス様」
「お礼を言うのは、私の方です」
アリスはそう言って、台に置かれた杖へ目を向けた。
五歳の誕生日にもらった物だと、前に聞いた。
俺がディアルから短刀をもらうより、ずっと前から一緒にいるわけだ。
「そっか。大切にしてるんだね」
「はい」
今度は、すぐに返事が来た。気に入っている物を使うのが、一番なのだろう。
「それで、さっきの人は?」
「ああ、そうでした」
アリスが話を再開する。
カリーナはその横で、杖の位置をもう一度だけ直した。倒れる心配などない場所だったのに、向きを確かめ、静かに手を離す。
その口元は、しばらく緩んだままだった。
◇◇◇
寝支度を終えた後、アリスはカリーナを見送ってから、杖を手に取った。
部屋には、小さな灯りが一つ残されている。
椅子へ座り、膝の上に杖を置く。滑らかな表面へ指を添えると、いつもの手触りがした。
贈られた時には、両手で持って眺めた。
今では片手でも扱える。治療院へ行く時も、誰かの怪我を治す時も、自然に手を伸ばす場所にあった。
目を閉じ、魔力を流す。
慣れた感覚だった。
力は滞りなく入っていき、杖の先へ集めることも、途中で止めることもできる。
目を開けた。
姿は、何も変わっていなかった。
もう少し流そうとして、やめる。
これまでにも、何度か試したことはあった。その時と同じ感触だった。
「……やっぱり、変わりませんね」
声は、自分にしか聞こえなかった。
アリスは杖を持ち上げ、灯りの下で眺めた。
違う形をしていたら、どうなっていたのだろう。考えても、フィルの刀のような変化は、うまく思い浮かばない。
指で表面を撫で、それから寝台のそばへ戻した。
いつもと同じ、朝になったらすぐ手に取れる場所だった。
◇◇◇
翌朝は、フェリックス王と一緒の朝食だった。
席へ着いた時から、アリスは何か言いたそうにしていた。
料理が運ばれてくる間も、王の方を見ては、手元へ視線を戻している。
「どうした。食べたい物でも足りないか?」
先に口を開いたのは、王だった。
「いえ。お伺いしたいことがあるのですが」
「言ってみろ」
「私の杖も、いつか形を変えるのでしょうか」
フェリックス王が杯を置いた。
「何言ってんだ。そいつ、もう意思を持ってるぞ」
俺まで、パンをちぎる手が止まった。
「……私の杖が、ですか?」
「ああ」
「でも、変わっていません」
「形が変わるのと、意思が宿るのは、必ず一緒ってわけじゃない」
アリスが、そばに控えるカリーナを見上げた。
カリーナも驚いた顔で、抱えていた杖へ目を落としている。
「私も、存じませんでした」
「お前もか」
王は少しだけ眉を上げた。
「随分うまく使ってるからな。分かってるもんだと思ってた。ハーバードは何も言わなかったのか?」
「里では、お兄様たちが剣の修行をしていらしたので……私も杖の扱いを教わるとは、考えていませんでした」
フェリックス王は、アリスの返事を聞いてから、俺とディアルへ順に目を向けた。
「あいつも、使うところを見て、教えることはないと思ったんだろうな」
「私が、できていると思っていたのでしょうか」
「実際、扱えてる。だから、知ってるかどうかを聞かなかったんだろ」
アリスが小さく頷く。
俺は自分の刀へ目を向けた。
こいつみたいに、勝手に力を吸ったり、頼んでも断ったりしなければ、分からないこともあるのか。
いや、もう少し大人しくても、気づかせる方法はある気がするけど。
「お前たちといると、俺も調子が狂うな」
王が椅子の背へ体を預けた。
「孫がよくできてれば、それでいいかと思っちまう」
「では、私にも教えていただけますか」
アリスは、すぐに顔を上げた。
フェリックス王の口元が緩む。
「今日から午前は、フィルと一緒に来い。まず、そいつを使うところを見せてもらおう」
「はい」
嬉しそうな返事の後、アリスがカリーナを振り返った。
「治療院へ、午後から伺うとお伝えしていただけますか」
「承知いたしました」
話がまとまったところで、王が俺を見る。
「お前は、食べすぎるなよ」
「どうして、ぼくだけ注意なんですか?」
「この前、転がってたのはお前だろ」
「転がした人に言われましても」
王は楽しそうに笑った。
アリスまでつられて笑っている。
まあ、修行する前に、緊張がほぐれたならいいか。
俺は残りのパンを見てから、少しだけちぎって口へ入れた。
◇◇◇
朝の庭には、まだ日陰が多かった。
アリスはカリーナとともに、広場の端に立っている。
まずは俺が剣を交えることになり、ディアルは少し離れた場所で、アリソンとその様子を見ていた。
この前の稽古と同じように、刀から返ってくる力を使う。
一度受けて、返す。今度は足元にも気をつけた。
その結果、足払いは避けられた。
代わりに、大曲剣で刀を押さえられ、握りを崩された。
「手ばかり気にするな」
「今、足を気にしてたんですけど」
「そうか。忙しいな、お前」
俺は刀を下げ、手を開いた。
握っていたところが赤くなっている。ひりひりするほどではないが、何度も打ち合えば、それなりに響くらしい。
「フィル、手を」
アリスがそばへ来て、俺の手を取った。
杖を近づけると、柔らかな光が手のひらを包む。残っていた痛みが、すぐに薄れた。
「ありがとう。助かったよ」
「また強く握りすぎないようにしてください」
「できれば、そうしたいね」
原因の半分くらいは、目の前で剣を担いでいる人だと思う。
フェリックス王は、アリスの手元を見ていた。
光が消えてから、短く頷く。
「使う方は、問題ないな」
「はい」
「自分へ、何か返ってくる感覚は?」
「魔力を戻す時でしょうか」
「お前が戻した分じゃない。そいつの方からだ」
アリスが杖を見下ろす。
少し考え、それから首を横へ振った。
「分かりません。そういうものだと思って、使っていました」
「なら、今は何もさせずに持ってみろ」
杖を握り直し、アリスが待つ。
回復魔法を使う時とは違って、どこへ向けるのか少し迷っているようだった。
「……聞こえていますか?」
控えめな声がした。
俺も、つい杖を見てしまう。
何も変わらない。光も出ず、アリスの表情にも変化はなかった。
「私に、教えていただけませんか」
もう少し待ってから、アリスが王を見上げる。
「何も、分かりません」
「そうか」
フェリックス王は、杖を奪って確かめたりはしなかった。
アリスの手元へ目を向けたまま、少し黙る。
「扱えるのと、話が通じるのは別だ。今のは、それが分かっただけだな」
アリスが唇を結んだ。
朝食の時には嬉しそうだったが、今は、どう持っていればいいのか考えているように見える。
「もっと魔力を流せば、分かりますか?」
「返ってこないものを、力で引き出そうとするなよ」
なぜか最後に、俺の方を見られた。
はい。身に覚えはあります。
「午後も使うんだろ。その時も、少し気にしてみろ」
「……はい」
アリスは杖を胸元へ寄せた。
カリーナがそばへ来ると、治療院へ行く時刻を確かめ、いつもの声で返事をする。
俺は治してもらった手を、一度握った。
さっきは、あんなに素直に力を貸していたのに。
何も考えていないわけではないと知っている分、今の静かさは、少し不思議だった。
◇◇◇
午後、治療院の入口で、アリスは一度立ち止まった。
杖は手の中にある。
朝から何度か意識を向けてみたが、何かが返ってくることはなかった。
「アリス様?」
カリーナに呼ばれ、顔を上げる。
「何でもありません。参りましょう」
中へ入ると、受付の女性がすぐに気づいた。
「姫様。お待ちしておりました」
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「午後からと伺っておりますよ。でも、皆さん、何度も入口をご覧になっていました」
女性が笑いながら、待合の方へ目を向けた。
「姫様がいらしたの?」
長椅子から声が上がる。
顔を出したのは、先日、膝の傷を治した少女だった。隣には母親が座っている。
「こんにちは。今日は、どうしたのですか?」
「今日はね、お母さん」
少女が隣を指した。
母親は片手に巻いた布を持ち上げ、少し困ったように笑う。
「家で手を切ってしまって。娘に、姫様に診てもらおうと言われまして」
「私、ここで待ってたの」
少女の言葉に、アリスはそばへ屈んだ。
「待っていてくださったのですね。ありがとうございます」
「明日は、朝から来る?」
「午前中は、お勉強があるのです。これからは、午後に来ますね」
少女が残念そうに口を尖らせる。
母親が何か言おうとしたが、その前に、少女は頷いた。
「じゃあ、午後ね」
アリスも笑って頷き返した。
奥から、いつも教えてくれる治療師が歩いてくる。
「姫様、よろしければ、さっそくお願いできますか」
「はい」
立ち上がり、杖を持ち直す。
治療師はその様子を見てから、母子を診察室へ案内した。
◇◇◇
母親の手の傷は深くなかったが、物を握る時に開いてしまう場所にあった。
治療師の確認を受け、アリスは椅子を寄せた。
「こちらへ、手をお願いします」
差し出された手へ、杖を近づける。
魔力が通る。
いつものように、少しも引っかからない。細かく扱おうとしても、力を増やそうとしても、杖はそのまま応えた。
朝は、何も返ってこなかった。
今も、アリスへ何かを伝えている感覚はない。
それでも、傷へ向かう光は柔らかく、滞ることなく広がっていく。
アリスは患者の顔へ目を戻した。
「痛くありませんか?」
「ええ。もう、ずいぶん楽です」
傷が閉じた後も、教わったとおりに確かめる。
指を動かしてもらい、握った時の様子を見る。治療師へ目を向けると、静かに頷いてもらえた。
「これで大丈夫です」
「ありがとうございます、姫様」
母親が頭を下げる。
その膝の横から、少女が手を伸ばした。
「もう、さわっていい?」
「はい。優しく、ですよ」
小さな指が、治った手へ触れる。
母親がその手を握ると、少女は嬉しそうに、腕を揺らしかけた。
「こら。優しくと言われたでしょう」
「あ」
少女が慌てて止まる。
アリスは口元を緩め、椅子から立ち上がった。
「無理はなさらないでくださいね」
「はい。家でも、この子が見張ってくれそうです」
母子を見送ると、治療師が次の患者の様子を確かめに出た。
アリスは椅子へ戻って杖を見下ろし、握っていた場所へ親指を滑らせる。
使うことには、何も困らない。
むしろ、こうして意識すると、随分と助けてもらっていたのだと思う。
「ありがとう」
小さく声をかけた。
返事はなかった。
手のひらへ何かが触れることも、杖から力が戻ることもない。
アリスは少し待った後、膝から杖を持ち上げた。
廊下で、自分を呼ぶ声がする。
今度は、いつも畑の話を聞かせてくれる人だった。
「姫様。今日は来てくださらないのかと思いましたよ」
「お待たせしました」
戸口へ向かうと、その人が嬉しそうに笑った。
アリスも笑い返し、椅子を勧める。
杖を、いつもの位置へ構えた。
「今日は、どこが痛みますか?」
今アリスは愛されてます。あいつだけを除いて…




