第二十四話 忘れずに
初めてのお昼更新です。
朝食の席で、アリスが野菜と向き合っていた。
正確には、皿の端へ寄せた野菜を、どう処理するか考えている。
小さな葉を一枚ずつ重ね、パンの陰へ押し込む手つきは、なかなか丁寧だった。
「アリス様」
「食べています」
「そちらのお野菜を、でございます」
カリーナに指摘され、アリスは手を止めた。
俺はパンへ木の実のペーストを塗りながら、なるべく二人を見ないようにする。ここで目が合うと、俺の皿へ引っ越してくる可能性がある。
「昨日は、いただいたお野菜を召し上がっていたではありませんか」
「あれは、くださった方が見ていらしたので」
「今日は私が見ております」
「それとは違います」
何が違うのかは、なんとなく分かる。
でも、口には出さない。カリーナを敵に回してまで助けるほど、俺も朝から元気ではなかった。
昨日はよく転がされた。
体が痛むほどではないが、地面へ倒れる時の景色は、しばらく見なくてもいいと思う。
隣へ目を向ける。
ディアルは黙って食べていた。いつもどおりにも見えるが、さっきからパンへ手を伸ばすたび、指先が少し急いでいる。
「今日は街に行かない?」
「昨日、行った」
「知ってるよ。今日はぼくも行きたいんだけど」
返事を待っていると、ディアルの手元で音がした。
フォークが指先から滑り、皿の縁へ当たったのだ。
ディアルは眉を寄せ、テーブルへ落ちたそれを拾い直す。ウルスナが替えを差し出すまで、しばらく握ったままだった。
「……分かった。いつ出る?」
「食べ終わってからでいいよ」
短く頷き、また食事へ戻る。
今日は、少し機嫌が悪いのだろうか。
「お二人で、お出かけですか?」
アリスが顔を上げた。
その隙に、カリーナがパンの陰から野菜を戻している。
「うん。アリスも行く?」
「私は治療院へ参ります。昨日、続きを教えていただくお約束をしましたから」
すぐに返事が来た。
野菜と違って、こちらは迷う必要がないらしい。
「何か欲しいものがあったら、見てくるよ」
「では、甘いものをお願いします」
「分かりやすいね」
「お野菜以外でしたら、大抵のものは嬉しいです」
注文が追加された。
どうやら、野菜との戦いは今日も長引きそうだった。
◇◇◇
宮殿を出る前に、ウルスナがフードの位置を確かめてくれた。
「こちらでは、人の多い場所もございます。お足元にもお気をつけください」
「うん。行ってくるね」
付き添いはアリソンだ。
ディアルの少し後ろへつき、門を出たところで俺にも目を向ける。
「どちらからご覧になりますか」
「お店の多いところがいいな」
「昨日の広場であれば、こちらです」
ディアルが先へ歩き出した。
ちゃんと案内してくれるつもりらしい。俺は横へ並び、木々の間を通る道へ足を踏み入れた。
マドリーの街は、歩くたびに見える景色が変わる。
大きな幹を回り込んだら店があり、その屋根の向こうから別の建物へ渡る橋が伸びている。上の階にも人が歩いていて、ぼんやり見ていると足元を忘れそうだった。
まず入ったのは、木の器を売る店だった。
棚には、浅い皿や深い椀に混じって、葉を丸めたような形の器が並んでいる。縁には蔓に似た模様が彫られ、手に取ると見た目より軽かった。
「これ、どうやって作ってるの?」
「そこにあるのは、薄く削ってから曲げてるんだ。濡らしたり、熱を加えたりしてな」
店主が、まだ形を整える前の板を見せてくれる。
俺は器と板を交互に見た。
「割れない?」
「急ぐと割れる。そっちの棚は、全部俺がせっかちだった証拠だ」
示された籠には、端にひびの入った器が積まれていた。
失敗した物まで捨てず、小さな材料入れに使っているらしい。
俺が創造魔法で作った皿は、まだそこまで薄くない。
なるほど。完成した形ばかり考えていたけど、普通に作る方法も見た方が面白いかもしれない。
「一つ、買ってもいい?」
「好きにしろ」
ディアルの返事は早かった。
顔を見ると、店先を横切った人の方へ視線が向いている。
「じゃあ、これ」
「ああ」
「今、見てなかったよね」
少し間があって、こちらへ顔が戻った。
俺が掲げた器を見てから、ディアルは棚の上を指す。
「蓋つきもある」
「お。そっちもいいね」
蓋を開けたり閉めたりしているうちに、俺は最初に何を聞こうとしていたのか忘れていた。
店を出ると、今度は香ばしい匂いが流れてきた。
道の向こうで、平たい生地を鉄板へ押しつけて焼いている。
朝食は食べた。
でも、知らない食べ物を見つけたら、少しくらい試しておくべきだと思う。
「一つずつ?」
「昼に食べられなくなるぞ」
「じゃあ、一つを半分にしよう」
ディアルが小さく息を吐いた。
駄目とは言われなかったので、了承ということにしておく。
焼き上がった生地の間には、潰した豆と細かい木の実が挟まれた。店の女性が二つに切り分け、葉で包んで渡してくれる。
「熱いから気をつけてね」
「ありがとう」
受け取った半分をディアルへ渡す。
一口かじると、薄い表面がぱりっと割れた。中は柔らかく、塩気の後に木の実の甘さが残る。
「これ、おいしいね」
「ああ」
「アリスにも買っていく?」
「甘いものと言っていただろ」
「そうだった。これはぼくらの分か」
言いながら、もう一口食べる。
ディアルも、文句を言わずに食べていた。
◇◇◇
広場の端で足を止めた時、近くの店先から話し声が聞こえてきた。
「王宮に、白髪の子供が来ているそうだよ」
口の中に残っていた木の実を、ゆっくり飲み込む。
「白髪? 本当か」
「中で働いている者が見たって。まだ、小さい子らしいけど」
「嫌だねえ。何も起きなければいいが」
「王が迎えたのだろう。滅多なことを言うものじゃないよ」
話していた二人の姿は、並べられた布の陰でよく見えなかった。
最後の人も、白髪は関係ないとは言わないらしい。
まあ、知らない子供のために、わざわざ言い争う必要もないか。
フードの端へ触れる。
さっきまで、店の人たちは普通に話してくれていた。中にある色が見えたら、その続きはどうなるのだろう。
「フィル」
ディアルに呼ばれ、手を下ろした。
「向こうに、菓子を売っている」
「うん。見に行こう」
道を渡る途中で、先ほど生地を焼いていた女性と目が合った。
葉の包みが空になっているのを見て、嬉しそうに手を振ってくれる。
「またおいで」
「うん。おいしかったよ」
俺も手を振り返した。
フードは、ちゃんとかぶっている。
足元も忘れていない。
ウルスナの言うことは、しっかり聞いておくに限る。
◇◇◇
アリスへの土産を選んだ後、俺たちは水路の近くで休むことにした。
木陰に低い腰掛けが並び、すぐ下を澄んだ水が流れている。細い枝で水面をつついていた子供が、母親に手を引かれて通り過ぎた。
少し離れたところでは、アリソンが飲み物を買っている。
ディアルは隣へ座り、前を見ていた。
膝へ置いた手の指が、一度だけ握られ、それから開く。
「今日、何か考えてる?」
聞くと、視線だけがこちらへ向いた。
「別に」
「そっか」
俺は土産の包みへ目を落とした。
中身は花の形に焼いた菓子で、一つだけ見本として食べさせてもらった。かなり甘い。たぶん、アリスは気に入ると思う。
包みの紐を直していると、隣から声がした。
「昨日、母の話を聞いた」
手を止め、顔を上げる。
ディアルは、また水路の方を見ていた。
「お祖父様から」
「……そっか」
昨日の夕方、二人だけ呼ばれたのは、そのためだったらしい。
ディアルたちの母親には、会ったことがない。
何も気にならなかったわけではないが、聞けば簡単に話してもらえることだとも思っていなかった。
だから、その先は尋ねなかった。
包みを膝へ置き、アリソンが戻ってくる方へ目を向ける。
「母は、この国を出てからも、ここの人々を気にかけていたらしい」
ディアルの声に、もう一度向き直った。
「そうなんだ」
「ああ」
水路の向こうで、先ほどの子供が母親へ何かを見せていた。握った手を開いては、また閉じる。
小さな石でも拾ったのだろうか。母親が屈んで覗き込むと、子供は得意そうに胸を張った。
ディアルは、その二人を見ていた。
「忘れずにいなければな」
低い声だった。
母親のことを、という意味だと思った。
けれど、横顔には懐かしそうな様子も、寂しそうな様子もなかった。
朝、フォークを拾い直した時の顔が、ふと頭に浮かぶ。
何が気になったのか、自分でもうまく言えない。ただ、頷く言葉が、すぐには出てこなかった。
「……うん」
結局、それだけ返した。
ディアルは何も言わず、水路から視線を戻した。
俺が膝に載せていた菓子の包みを見て、少し眉を動かす。
「傾いているぞ」
「え?」
「中で割れる」
慌てて持ち直す。
さっき紐を引いたせいで、片側が緩んでいた。
「危ない。割れてたら、ぼくが食べたことにしよう」
「減るだろ」
「味見だよ、味見」
「さっき、していた」
見られていたらしい。
いや、隣にいたのだから当たり前か。
アリソンが飲み物を持って戻ってくる。
ディアルは礼を言って受け取り、いつもと同じように口をつけた。
俺も杯を受け取りながら、もう一度だけ、その横顔を見た。
◇◇◇
帰り道では、道具を売る店へ寄った。
刃物だけでなく、細い木を削る道具や、蔓を切る鋏も並んでいる。店主が小さな木片を削るところを見せてくれたので、俺はしばらく動けなくなった。
薄い木屑が、くるくると丸まって落ちる。
削った面を指で触らせてもらうと、驚くほど滑らかだった。
「魔法じゃないんだね」
「魔法でやる者もいるが、俺はこっちの方が早くてな」
そう言って、もう一度刃を滑らせる。
俺が作った器にも、この仕上げをしたら、もう少しまともに見えるだろうか。
「フィル」
ディアルに呼ばれ、顔を上げた。
「それを買うなら、アリソンに持ってもらえ」
「まだ買うって言ってないよ」
「さっきから値札を見ている」
よく見ている。
今日のディアルは、見ていないようで、変なところだけ見ていた。
結局、小さな道具を一つ買った。
もちろん、使う時は教わってからである。勝手に指を切ったら、アリスに何を言われるか分からない。
宮殿へ戻る頃には、俺の荷物は朝より随分と増えていた。
「お店の多いところにして、正解だったね」
「そうだな」
ディアルが、俺の腕から滑りかけた包みを受け取る。
そのまま返してこなかったので、ありがたく持ってもらうことにした。
◇◇◇
夕方、アリスが戻ってきた。
部屋へ入るなり、机の上の包みに目を留める。けれど、その前に椅子へ座っていたディアルと俺へ向き直った。
「今日は、お手伝いできることが増えました」
「へえ。どんなの?」
「怪我の具合を、先に確かめさせていただいたんです。あとで治療師の方に、合っているかを見ていただきました」
話しながら、自分の手首へ指を添える。
どう動かすと痛むのか、患者に聞きながら確かめるらしい。昨日教わったことを、自分でも試せたそうだ。
「いつも来ている方が、私の名前を覚えてくださったんです」
「もう?」
「はい。明日も来るのかと聞かれました」
「なんて答えたの?」
「もちろん、伺いますと」
迷いのない返事だった。
カリーナが後ろで笑いながら、アリスの杖を受け取った。
「皆様、楽しみにしていらっしゃいましたね」
「ですから、明日も遅れないようにしなくては」
そこで、ようやく包みの方へ視線が戻る。
「そちらは?」
「約束のお土産。野菜じゃないよ」
「そこまで心配していません」
言いながら、顔は明らかに嬉しそうだった。
カリーナがお茶を用意し、俺が包みを開く。花の形は、ちゃんと残っていた。
一つ手に取ったアリスが、ディアルへ皿を差し出す。
「お兄様も」
「ああ」
ディアルは受け取り、アリスが治療院で聞いてきた話に耳を傾けていた。
時々、短く問い返す。その様子は、普段と変わらない。
朝から感じていた機嫌の悪さも、今は見えなかった。
「フィル。聞いていますか?」
「聞いてるよ。明日も行くんでしょ」
「その後のお話です」
「……もう一回、お願いしてもいい?」
アリスが頬を膨らませた。
隣で、ディアルが小さく息を漏らす。笑われた気がする。
俺は菓子を一つ取り、今度こそアリスの話へ耳を向けた。
ただ、水路のそばで聞いた、あの声だけは。
賑やかな部屋へ戻ってからも、妙に耳に残っていた。
わたしも甘いものが大好きです




