第二十話 森の向こうの王国
馬車の旅にも、良いところと悪いところがある。
良いところは、座っているだけで景色が変わること。
悪いところは、気になるものを見つけても、そう簡単には止まってもらえないことだ。
「今の、何だったんだろう」
窓の縁へ手をかけ、後ろを振り返る。道端に立っていた大きな輪が、木々の間へ隠れていった。
「水をくみ上げるものです」
向かいに座るウルスナが答える。
「水車? でも、川はなかったよ」
「川から引いた水路がございます。輪の下を流れているはずです」
「へえ。もうちょっと近くで見たかったな」
「止まるたびに降りていては、いつまで経っても着きません」
隣からアリスに注意された。
つい先ほどまで、花の咲いている場所で休憩したいと言っていた人の言葉である。
「ぼくは見るだけだよ」
「私も見るだけです」
「さっき、摘みたいって言ってなかった?」
「少しだけです」
その少しを、どちらまで許してもらえるか。
俺たちが反対側の席へ目を向けると、ディアルは広げていた地図から顔を上げた。
「次の休憩で見ればいい」
「花があるか分かりません」
「水車もあるか分からないよ」
「なら、どちらも同じだ」
確かに。
平等ではある。誰の希望もかなっていないけど。
王都を出てから、何日かが過ぎていた。
窓の外には畑が続き、時折、小さな集落が見える。柵の一部を外し、太い杭へ取り替えている場所もあった。そのそばでは、武器を持った男たちが森の方を見ている。
昼前には、アセナルの騎士たちとすれ違った。
馬車が止まると、御者台のイーサックが一人を呼び、道の様子を聞く。森の縁で魔物を二体見つけたが、街道には出ていないという。
「南の橋の先は?」
「問題ありません。ただ、日が落ちる前に抜けた方がよろしいかと」
「分かった。そっちも気をつけろよ」
騎士たちは馬車へ一礼してから、来た道を戻っていった。
やがて車輪が動き始めると、アリソンが懐中時計へ目を落とした。
「次の休憩は短めにいたしましょう」
「花も水車も、なくてもいい気がしてきたね」
「また今度ですね」
アリスも素直に頷いた。
さすがに、眺めている間に夜になっては困る。俺たちは窓から手を離し、それぞれの席へ座り直した。
◇◇◇
旅が進むにつれ、畑よりも木々を見る時間が長くなった。
道の両側から枝が伸び、昼間でも馬車の中へ入る光が細くなる。雨の降った翌朝などは、窓を開けると、湿った土と葉の匂いがした。
ある日の休憩で、カリーナが小さな包みを広げた。
中には、殻をむいた木の実が並んでいる。朝、宿を出る前に買ったものらしい。
「懐かしくて、つい買ってしまいました」
「食べていい?」
「もちろんです。こちらの小さいものが甘いですよ」
一つ口へ入れる。
硬いのかと思ったが、噛むとほろりと崩れた。香ばしくて、あとから少し甘みがある。
「おいしいね、これ」
「もう少し南へ行くと、よく採れるんです。昔は私も集めました」
「木に登るの?」
「落ちたものを拾います」
「そっか。そっちの方が楽だね」
「カリーナは登っておりましたが」
ウルスナの言葉に、包みを差し出していた手が止まる。
「……あれは、枝に引っかかっていたので」
「落ちてくるまで待てずに?」
「いえ、たくさん残っていましたから」
それなら、登りたくなる気持ちは分かる。
俺がもう一つ取ろうとすると、カリーナは包みを近づけながら、小さな声で付け加えた。
「下りる時の方が大変でした」
「上る時に考えなかったんだ」
「途中までは、下りられると思っていたんです」
アリスが木の実を頬張ったまま、近くの枝を見上げた。
その視線を追ったウルスナが、何も言わずに枝の下へ立つ。
早い。
まだ誰も登るとは言っていないのに、すでに道が塞がれていた。
そんなやり取りをしながら、二週間近く馬車に揺られた。
食事や宿が少しずつ変わり、ウルスナとカリーナが道の先を説明してくれることも増えた。曲がり角の向こうに川があると言えば、本当に川が現れる。
「この先の坂を下りれば、もう近いですよ」
カリーナが窓の外を指差した。
俺には、まだ森しか見えていない。
ところが坂を下りきったところで、道が途切れた。
いや、違う。
正面に並んだ木々の間を、太い蔓が何重にも横切っている。枝も不自然なくらい密に重なり、人が通れる隙間がない。その上には足場が渡され、弓を持った人影が立っていた。
「これ、壁?」
「北の集落、ノルディアの防壁です」
ウルスナの説明を聞き、もう一度見上げる。
幹の太さはばらばらなのに、その間は枝と蔓できっちり埋められていた。左右へ目をやっても、どこまで続いているのか分からない。
「遠くからだと、普通の森に見えたよ」
「その方が、外から様子を探られにくいでしょう」
馬車が止まる。
木の間に隠れていた通路から、数人の武装した男たちが出てきた。
◇◇◇
先頭の男は、革と金属を組み合わせた防具を身につけていた。
腰には剣、背には弓。派手な飾りはない。後ろの二人は少し離れ、俺たちと道の両側を見ている。
アリソンが馬車を降り、書状を差し出した。
男は封を確かめてから中を読み、一度、俺たちの乗る馬車へ視線を向ける。
「お待ちしておりました。ご一行の確認をさせていただきます」
扉が開き、俺たちも順に降りた。
男がディアルとアリスへ頭を下げる。その後ろで、別の男がカリーナに気づいた。
「カリーナ?」
「お久しぶりです」
彼女が笑うと、男の険しかった顔が少し緩む。
「ウルスナも戻っていたのか。随分と久しぶりだな」
「今回は、お二人のお供です」
「ああ、話は聞いている」
ウルスナは普段と変わらない声だったが、相手の視線を受けて、わずかに頷いた。
知り合いがいるなら、話も早そうだ。
そう思っていると、書状を持つ男が俺の前で足を止めた。
「フィル殿ですね」
「はい」
「お顔を拝見しても?」
俺はフードの縁へ手をかけた。
少し後ろへずらすと、額に張りついていた髪へ風が触れる。
男の目が、そこで止まった。
すぐ後ろで、誰かの靴底が土を擦る。カリーナと話していた男も口を閉じ、俺の頭を見ていた。
顔の確認には、もう十分な時間が過ぎている。
「……これくらいでいいですか」
「はい。失礼いたしました」
書状へ視線が戻る。
さっきまで滑らかだった男の指が、紙の端をなぞった。
俺はフードを戻した。
白髪だと聞いていることと、実際に見ることは、やっぱり少し違うらしい。
隣に立つディアルは、男を見ていた。
何も言わない。俺も、特に付け足す言葉はなかった。
「確認は、お済みでしょうか」
アリソンが穏やかに尋ねる。
男は背筋を伸ばし、改めて一礼した。
「お待たせいたしました。ご案内します」
合図が送られると、壁の一部に見えた木組みが内側へ開いた。蔓の絡んだ大きな扉だったらしい。
馬車の前へ案内役がつき、俺たちは再び乗り込んだ。
通り抜ける時、窓から男たちを見る。
こちらへ向けられた視線と目が合い、俺が小さく頭を下げると、相手も遅れて頭を下げた。
うーん。
歓迎の仕方にも、いろいろあるようだ。
◇◇◇
防壁の内側には、弓を手入れする者や、槍を抱えて走る者がいた。
建物の前には盾が並び、開いた扉の奥では、何人もの人が荷物を運んでいる。道沿いの家も頑丈そうで、窓は小さく、屋根は低かった。
「ここの騎士は、忙しそうだね」
「彼らは戦士です」
ウルスナが言った。
俺は窓から振り返る。
「騎士とは違うの?」
「レアリードでは、戦士の方が上位にあたります。経験を積み、実力を認められた者が、こうした国の外側を守ります」
「偉くなると、王様の近くへ行くんじゃないんだ」
「陛下のおられる場所が、最も安全ですから」
あまりにも当然のように言われた。
俺は少し考えてから、窓の向こうの見張り台へ目を戻す。
「じゃあ、出世すると危ないところへ行くの?」
「任される仕事に応じて、俸給や生活の待遇も上がります」
「なるほど。そこまで同じだったら、ちょっと困るよね」
国の中心へ行くほど安全で、外側へ行くほど強い者がいる。
分かりやすい仕組みではある。王様が一番安全な理由に、王様本人が入っているのが、少し気になるけど。
「イーサックも、さっきの人たちには気をつけてた?」
御者台へ続く小窓から尋ねると、前を向いたまま返事が来た。
「よく周りを見てたな。お前が降りた時も、道から目を離してない奴がいた」
「ぼくの髪だけ見てたわけじゃないんだ」
「仕事中だからな」
その答えに、俺はもう一度後ろを見た。
防壁の上に立つ人影は、すでに小さくなっていた。
ノルディアを抜けても、しばらく森の道は続いた。
やがて木々の間隔が広がり、馬車の外が明るくなる。道の脇には畑があり、細い水路が建物の方まで延びていた。
さらに進むと、人の声が増えた。
木を組んだ家々の軒先に、布や籠が並んでいる。柱に絡む蔓には小さな花が咲き、その下では、店の人と客が何やら楽しそうに話していた。
「王都マドリーです」
アリソンが告げる。
俺は窓へ顔を近づけた。
二階へ続く階段が木の幹を避けて曲がっていたり、建物の間に細い橋が渡されていたりする。道も真っすぐではなく、大きな木を囲むように分かれ、その先でまた合流していた。
見ているだけで、歩いてみたくなる。
「あっちの店、何を売ってるんだろう」
「食器のようですね」
「枝がそのまま取っ手になってたよ」
「お気に召しましたか」
「うん。使いやすいかは、持ってみないと分からないけど」
ウルスナに答えながら、次の店も見る。
木や布だけでなく、金属の道具もある。焼いた何かを売る店の前では、子供が背伸びをして品物を指差していた。
皆、耳も顔つきも、アセナルで会う人たちと変わらない。
ここがエルフの国だと知らなければ、俺には見分けられなかったと思う。
そのうち何人かが、馬車へ顔を向けた。
目が合った子供へ手を振ると、小さな手が振り返される。俺はフードがずれていないことを確かめてから、窓の縁へ肘を置いた。
さっきのような反応ばかりでは、街を見るのも疲れてしまう。
今のところは、このくらいがちょうどよかった。
◇◇◇
宮殿は、何本もの大木を背にして立っていた。
白っぽい石の土台に木の柱が並び、屋根へ伸びる梁には、枝葉の模様が彫られている。蔓は好き勝手に伸びているわけではなく、窓を避け、柱に沿って整えられていた。
入口を守る者たちは、揃いの上衣と磨かれた防具を身につけている。
こちらが宮殿騎士だと、降りる前にアリソンが教えてくれた。
確かに、さっきの戦士たちとは印象が違う。
同じ剣でも、鞘の擦れ方が随分ときれいだった。
階段の上から、一人の男性が下りてくる。
彼はアリソンと言葉を交わした後、ディアルとアリスへ深く頭を下げた。
「お孫様方のご到着を、陛下もお待ちでございます」
俺は、階段へ足をかけたまま止まった。
お孫様。
ディアルもアリスも、特に驚いた様子はない。アリスは案内の男性へ礼を言い、そのまま階段を上がっていく。
俺は慌てて追いつき、ディアルの隣へ並んだ。
「フェリックス王って、お祖父さんなの?」
「ああ」
「二人とも?」
「アリスとは双子だ」
それは知っている。
いや、確かに聞き方が悪かったけど。
ウルスナから贈られた神樹の武器。エルフ族以外へ渡してはいけないという話。
その時に少し気になったことが、ようやくつながった。
「じゃあ、お母さんは――」
ディアルがこちらを見る。
俺は一度口を閉じ、階段の先へ視線を向けた。
二人の母親には、会ったことがない。
どこにいるのかも、どうして会わないのかも、俺は知らなかった。
「……ここには、前にも来たことある?」
「一度だけだ。幼い頃にな」
「そっか。じゃあ、ぼくより少し詳しい?」
「覚えている場所なら案内できる」
「それは助かる。迷ったらよろしくね」
ディアルが頷き、歩く速さを少し緩めた。
先へ行っていたアリスも、扉の前でこちらを待っている。
中へ入ると、外よりもひんやりしていた。
高い窓から入った光が、磨かれた床へ葉の影を落としている。遠くで水の流れる音がしたが、姿は見えない。
案内の男性が、一番奥の扉の前で足を止めた。
「陛下がお待ちです」
アリソンが俺の肩口を軽く払う。
俺はフードを下ろし、前髪を指で直した。今さら隠したまま会うわけにもいかない。
大きな扉が、ゆっくりと開く。
部屋の奥に、一人の男が座っていた。
淡い緑色の長い髪を背へ流し、深緑の上衣に薄い外套を重ねている。襟元の金の刺繍と、肩で外套を留める枝の形をした金具が、光を受けていた。
長い脚を組み、肘掛けに片腕を預けている。
細身だが、服の上からでも肩や腕の形が分かった。隣には、鞘に収まった大きな曲剣が立てかけられている。
思っていたより、ずっと若く見える。
祖父という言葉から想像していた姿とは、随分違った。
男の視線が、ディアルとアリスを順に捉える。
口元がわずかに動き、それから、俺へ目が向いた。
白い髪。
腰の刀。
最後に、俺の顔。
何か言おうとしていたのに、用意していた挨拶が一瞬遅れた。
「お前が、フィルか」
声は大きくなかった。
それでも、俺は自然と背筋を伸ばしていた。




