第十八話 稽古のない日
王都へ発つ朝、ヴィルツは家の戸口で、もう一度荷紐を締め直した。
結び目を引き直そうとしたところで、横から包みが差し出された。
「これも持っていきなさい」
母の手にあるのは、布で包んだ食べ物だった。
「食事は、途中で用意されると聞いている」
「お腹が空いた時に食べればいいでしょう」
「……分かった」
受け取って荷物の隙間へ収めると、袋がまた少し膨らんだ。
家の中から出てきた父は、ヴィルツの腰の剣を見て、それから顔へ目を移した。
「王都へ着いたら、まず誰を訪ねるんだ」
「第三騎士団のイーサック団長だ。ハーバード様の書状をお渡しする」
「そうか。分からないことは、勝手に決めずに聞けよ」
「ああ」
課題は果たした。けれど、王都へ行けば、ようやく始められるだけだ。そこで自分がどこまで強くなれるのか、確かめたかった。
「向こうでも、鍛錬は続ける。見習いのままで終わるつもりはない」
「それは分かっているわ」
母が、少し曲がっていた襟を直した。
「便りを寄越しなさい。剣がどうなったかだけじゃなくて、ご飯を食べているかも」
「食べないと、稽古ができない」
「なら、寝る方も忘れずにな」
父に言われ、ヴィルツは頷いた。
戸口を離れて数歩進み、振り返る。
二人は、まだそこに立っていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母が手を振った。父も、顎を引くように頷く。
ヴィルツは手を上げて応え、待ち合わせの場所へ向かった。
◇◇◇
木剣を打ち込んだ瞬間、手元へ重い力が返ってきた。
ヴィルツは踏ん張ったが、後ろの足が滑った。剣先が浮き、その下へレオの木剣が入ってくる。
胴を打たれる直前で、切っ先が止まった。
「今の一歩だ。打ったあとに、足が残っている」
レオは剣を下ろし、ヴィルツの足元を示した。
「受けられるところまでは、考えていたな」
「はい。そこから剣を引いて、打ち直すつもりでした」
「なら、そのつもりでもう一度だ」
王都へ来てから、朝の稽古は思っていたより地味だった。
構え、足の運び、打ち込み。相手をつけてもらっても、使う動きは絞られていた。
それでも、簡単ではなかった。
ヴィルツは距離を取り直した。先ほどの一撃を思い返す。レオに剣を押された時、腕だけで戻そうとしていた。体は前へ出たままで、後ろの足がついてきていない。
今度は、踏み込みを少し浅くした。
木剣がぶつかる。受け止められた力に逆らわず、足を引きつけながら剣を戻す。
続けて打ち込んだ二撃目も防がれたが、体は崩れなかった。
「今の方がいいな」
レオが笑う。
「ただ、引くことを考えすぎると、最初の一撃が軽くなる。次は、そのまま押し込んでみろ」
「はい」
息を整えながら構え直すと、離れた場所で木剣のぶつかる音がした。
ディアルとフィルが打ち合っていた。
フィルが横へ抜け、ディアルが向きを変える。互いの剣が触れたと思った時には、次の動きへ移っている。そばではイーサックが腕を組み、二人を見ていた。
ヴィルツは、握りを確かめた。
今の自分には、目の前の一撃を、崩れずに打つことからだ。
レオへ向き直り、踏み込む。
乾いた音が、再び訓練場に響いた。
午前は、それを何度も確かめる時間だった。
午後は、確かめたことが、どこまで身についているかを思い知らされた。
「止まるな。受けたら、次だ」
レオの木剣が肩口へ迫る。弾いた剣を戻す前に、今度は脇腹へ切っ先が来た。ヴィルツは身を引き、辛うじて避ける。
間を置かず、踏み込まれた。
朝なら、ここで動きを止めて直してもらえた。
今は違う。剣を受け損ねても、足がもつれても、相手は待ってくれない。崩れたまま次を防ぎ、その次には自分から打ち込まなければならなかった。
剣を振る腕が重い。息を吸っても、すぐに吐き出してしまう。
距離を取れば追われ、踏み込めば押し返される。ようやく打ち込めた一撃も、レオの剣に難なく流された。
「足が残っているぞ」
同じ指摘だった。
朝には直せたはずの動きが、疲れてくると戻ってしまう。
ヴィルツは歯を食いしばり、足を引きつけた。体勢を立て直し、次の一撃を受ける。そこから返した剣が、初めてレオの袖をかすめた。
「よし。今のは忘れるな」
嬉しいと思う暇もなく、また剣が来た。
ようやく休憩を告げられた時には、返事より先に膝が落ちた。
木剣を地面へ置き、震える指を開く。レオが水の入った杯を差し出してくれた。
「飲め。落ち着くまで待つ」
「……はい」
顔を上げると、レオはまだ汗を拭う程度だった。
ヴィルツは水を飲み、呼吸が整うのを待った。次は、どこで無駄な力を使っていたのかを確かめたい。
立ち上がろうとすると、レオが肩へ手を置いた。
「まだいい。再開は俺が言う」
従って座り直す。すぐに再開できないことが、悔しかった。
◇◇◇
「今日は休みだ」
数日後の朝、レオはそう告げた。
ヴィルツは返事をしたものの、部屋へ戻ってから、しばらく椅子に座っていた。
剣の手入れは終えた。服も片づけた。昨日教わった動きを確かめようとして、途中で手を止める。
休みの日まで剣を振るな。
ハーバードから課された条件を、忘れたわけではない。
ただ、何をすればいいのかが分からなかった。
結局、レオが街を案内してくれることになった。
王宮の門へ向かうと、そこにはフードをかぶったフィルもいた。
「おはよう。出かけるんだって?」
「ああ。王都のことを、まだよく知らないからな」
「じゃあ、ちょうどいいね。ぼくも見たいものがあるんだ」
フィルは軽く笑って、門の外を指した。
そこから先は、案内というより、フィルの後を追う時間になった。
通りへ入ってすぐ、パン屋から声が飛んだ。
「フィル様。今日はお連れが多いですね」
「三人だけだよ」
「十分多いです。うちの前で横に並ばれると、ほかのお客が入れません」
フィルが慌てて端へ寄ると、店の女性が笑った。
「何か焼いてる?」
「奥の窯で、まだ少し」
「じゃあ、後で寄ってもいい?」
「なくなる前にいらしてくださいね」
また来る、と手を振り、フィルは先へ進んだ。
その先では、フィルが屋根を修理していた男性へ声をかけた。雨漏りは直ったのかと尋ねると、男性は軒先を指して頷いた。
「ずいぶん、知り合いがいるんだな」
「何度も来てるからね。あの人には、前に雨宿りさせてもらったんだ」
フィルは手を振って男性と別れると、露店の方へ顔を向けた。
「あれ、何だろう」
「フィル様。まず、道を渡ってからにしましょう」
レオに促され、フィルが行き交う荷車を確かめる。
ヴィルツも二人について通りを渡った。
露店では、小さな木の鳥が並べられていた。腹の下の棒を押すと羽が動く。それが気になったらしく、フィルは店の老人に仕組みを尋ねていた。
老人が作りかけのものを取り出すと、フィルはしゃがみ込んだ。
ヴィルツがレオを見ると、彼は人の流れを避けるように立ち位置を変えた。
「少し待つか」
「いつも、このような感じなのですか」
「気になるものがある時は、いつもああだ」
店先では、フィルが首を傾げている。
「ここが引っかかるの?」
「そう。削りすぎると、今度は緩くなる」
「なるほどねえ。見た目より難しいんだ」
しばらく話を聞いたあと、フィルは一羽を選んで買った。
「何に使うんだ」
歩きながらヴィルツが尋ねると、フィルは棒を押して羽を動かした。
「こうする」
「それは、見れば分かる」
「じゃあ、使い方はもう知ってるじゃん?」
そういう意味で聞いたのではない。
言い直そうとしたところで、フィルが「あ、パン」と声を上げた。
戻るのか、とヴィルツは思った。
レオは笑いながら、来た道へ向き直っていた。
◇◇◇
パンを買い、広場の端で休んでからも、フィルは幾度か足を止めた。
ヴィルツが行き先を尋ねている間にも、フィルは次の店先へ目を向けるのだった。
日が傾き始め、レオが空を見上げた。
「そろそろ戻りましょうか」
「うん。あとは――」
フィルが通りを振り返った、その時だった。
「フィル様!」
人の間から、小さな男の子が駆けてきた。
その後ろを、女の子が両手に何かを抱えてついてくる。
「ニコ。そんなに急いで、どうしたの?」
「来てるって聞いたから、探したんだよ。パン屋にも行ったのに、もういないって」
「ああ、ごめん。あちこち寄ってたから」
「ミナが、渡したいものがあるって」
ニコに呼ばれ、女の子がその肩越しに顔を出した。
フィルと、同じくらいの年頃だった。
「ミナも、こんにちは」
「……こんにちは」
ミナは少し前へ出て、両手を差し出した。
花冠だった。
輪は少し歪み、花が固まっているところと、茎ばかりのところがある。ところどころ、短い茎の先が飛び出していた。
「アリス様に、渡してほしいの」
「ミナが作ったの?」
「うん。教えてもらったの、練習した。今日は、ひとりでできた」
フィルは木の鳥を懐へしまい、空いた両手で花冠を受け取った。
持ち上げた拍子に輪がたわむと、下から支えるように指を添える。
「ちゃんと渡すよ」
「ひとりで作ったって、言ってね」
「うん。それも言っておく」
ミナの顔が、ようやく明るくなった。
その横で、ニコがヴィルツを見上げた。
「その人、誰?」
「ヴィルツ。この前、王都へ来たんだ。こっちはレオさん」
「第三騎士団のレオです。こんにちは」
「こんにちは!」
レオには元気よく挨拶を返し、ニコは再びヴィルツを見た。
「ヴィルツも騎士なの?」
「まだ見習いだ。第三騎士団で、学ばせていただいている」
「ディアル様のところ?」
頷くと、ニコが目を丸くした。
「いいなあ。おれも、ディアル様の家臣になるんだよ」
「私は、アリス様」
ミナが、ニコの横から言った。
「アリス様のお手伝いをするの」
「じゃあ、ぼくとも一緒に働くことになるね」
「うん!」
フィルの言葉に、二人が揃って頷いた。
ニコはヴィルツの腰へ目を向ける。
「剣、強い?」
「まだまだだ。教わることの方が多い」
「何ができるの?」
「今は、打ち込んだあとの姿勢を直している。力を受けても崩れないように――」
「ふうん」
ニコが首を傾げた。
「つまんないやつ」
ヴィルツは、言葉を止めた。
何を答えればよかったのか、分からない。
「ニコ。ヴィルツは、ずっと訓練してたんだよ。こうして王都へ遊びに出るのも初めてなんだって」
フィルが言うと、ニコはますます不思議そうな顔になった。
「休みも?」
「今日は、その休み」
「もっと楽しいこと、探した方がいいよ」
そう言って、ニコは近くの植え込みを指した。
「昨日さ、カタツムリ見つけたんだ。こんな大きいやつ」
親指と人差し指で、丸を作る。
「そんなに?」
「ほんとだよ。葉っぱの裏にいて、ひっくり返しても、くっついたままだった」
「へえ。落ちないんだ」
「角も出した。触ろうとしたら、引っ込んだけど」
ニコが指を曲げてみせると、フィルが笑った。
ミナも何かを思い出したように、少し身を乗り出す。
「うちも、昨日、面白かった」
「何が?」
「お母さんのパン、ぺちゃんこだったの」
両手を重ね、薄さを示した。
「お父さんの靴の底みたいって、お母さんが言ってた」
「それ、言っちゃ駄目だろ」
ニコが慌てて口を挟む。
「お母さん、失敗したんだろ」
「でも、お母さんも笑ってたよ」
「だからって、外で言ったら駄目なんだよ」
フィルが声を上げて笑った。
花冠を持つ手だけは動かさず、顔を横へ向けている。
「フィル様まで笑ってる」
「ごめん、ごめん。ニコ、そこは気にするんだね」
「気にするよ」
ニコが真剣に頷くので、フィルはまた笑った。
ミナもつられたように笑い出し、レオまで口元を緩めていた。
ヴィルツは、笑っているフィルを見ていた。
子供の話だからと、聞き流しているわけではない。
ニコが指でカタツムリの大きさを示せばそこへ目を向け、ミナが話し始めれば、その顔を見る。先ほど木の鳥の仕組みをのぞき込んでいた時と同じように、話の先を知りたがっていた。
「そのパンは、どうしたの?」
「スープにつけて食べた。おいしかったよ」
「それなら、よかったね」
ミナが頷く。
ニコは、次に大きなカタツムリを見つけたら教えると約束していた。
◇◇◇
二人は、家の人に日が暮れるまでには戻るよう言われているらしかった。
通りの分かれ道で別れる際、ミナがもう一度、花冠を見た。
「アリス様に、忘れないでね」
「大丈夫。ちゃんと持ってるから」
フィルが少し持ち上げて見せると、ミナは安心したように手を振った。
ニコも大きく手を振り、それからヴィルツを指す。
「ヴィルツも、またね」
「ああ。また」
返事をすると、ニコは満足そうに頷き、ミナと並んで歩いていった。
帰り道、フィルは花冠を片手に載せていた。空いた方の手で、緩みかけた茎をそっと輪の内側へ戻している。
レオがそれを見て、パンの包みを代わりに持った。
ヴィルツは、フィルの横顔へ目を向けた。
里での稽古でも、ああいう顔をしていた。
ハーバードの手元を見て、ディアルと何かを確かめ合い、分からなければ自分で試す。うまくいくと嬉しそうに笑い、すぐにまた別のことを尋ねていた。
今日も、変わらない。
木の鳥でも、店の仕事でも、子供たちの話でも、気になれば近づいていく。
ヴィルツは、役に立つかどうかを先に考えていた。フィルは、知りたいと思えば、もう聞いている。
あの強さは、稽古をしている時間だけで身についたものではないのかもしれない。
フィルが花冠から顔を上げた。
「どうしたの?」
「……その鳥、あとで見せてもらってもいいか」
「いいよ。気になった?」
ヴィルツは頷いた。
フィルが懐へ手を入れようとするので、花冠を持っているだろうと止める。帰ってからでいいと伝えると、彼は笑って手を戻した。
今さら、羽が動く仕組みを知って何になるのか。
そう考えかけて、やめた。
まずは、一度見てみようと思った。




