第十七話 王都の一日
刀の里から王都へ戻って、二か月が過ぎた。
朝の稽古を終えた俺は、いつもの席でパンをちぎっていた。皿には焼いた肉と野菜が盛られ、湯気の立つスープからは香草の匂いがする。
隣ではディアルが食事を進め、その向かいではアリスが、豆を皿の端へ寄せていた。
「アリス様。それも召し上がってくださいね」
カリーナに声をかけられ、アリスの手が止まる。
「後で食べるつもりです」
「昨日も、そうおっしゃっていました」
「今日は食べます」
なかなか立派な決意である。
俺は空になった杯をウルスナへ渡し、注ぎ足してもらった水を飲んだ。
「ありがとう。……アリス、それ、肉の下に入れてもなくならないよ」
「分かっています。少し味をつけているだけです」
「なるほど。その手があったか」
感心していると、カリーナが困った顔をした。余計なことを言うのはやめておこう。
「フィル様、本日の予定ですが」
食卓の脇で、アリソンが手帳を開く。
「午前はアリス様に同行していただきます。午後は殿下のお仕事の見学を」
「剣の稽古は?」
「夕刻にございます」
「そこは、なくならないんだね」
朝から魔力の鍛錬と剣の稽古を済ませたのだ。午後の予定が埋まったのであれば、夕方くらい休んでもいいと思う。
「昨日、帰ってから確かめたいことがあると言っていただろう」
ディアルが、パンへ手を伸ばしながら言った。
「言ったけど、それとこれとは別じゃない?」
「では、やめておくか」
昨夜、刀へ魔力を流していて、一つ試したいことを思いついたのだ。部屋でやると、ウルスナが嫌な顔をする。実際、危ないので気持ちは分かる。
「……少しだけなら、やろうかな」
「ああ」
どうして予定を減らす相談をして、結局やることになるのだろう。
アリスは最後の豆を口へ運ぶと、水で流し込んでから姿勢を正した。
「フィル。今日は、私の仕事を見せてあげます」
「うん。よろしく」
「勝手に歩き回ってはいけませんよ」
「迷子になる前提なの?」
返事の代わりに、アリスは少し得意そうに笑った。
食事を終えて席を立つと、ウルスナが外出用のマントを持ってきた。腕を通し、フードを頭へ引き上げる。
髪が出ていないか確かめてもらい、腰の刀の位置を直した。
「では、行ってきます」
「お気をつけて」
ディアルはまだ食卓にいたが、皿はすでに下げられ、代わりに書類を受け取っていた。
声をかけると、紙から目を上げて短く頷いた。
◇◇◇
馬車を降りて最初に見えたのは、建物をつなぐ長い回廊だった。
石造りの棟が中庭を囲み、その向こうにも別の屋根が見える。入口には人が並んでいたが、誰もが同じ場所へ案内されるわけではない。歩けない人を載せた台車が通ると、職員らしい女性がさっと道を空けた。
「ここ、全部なの?」
「はい。奥には、入院なさっている方のお部屋もあります」
アリスについて進むと、開いた扉の向こうで、白い上着を着た若者たちが年配の男性の話を聞いていた。机には草や小瓶が並び、一人が何かを尋ねている。
治療を受けるだけでなく、医師や治療者を育てる場所でもあるらしい。
前世の大学病院を思い出した。もっとも、ここにあるのは消毒液の匂いや機械の音ではなく、煮出した草の匂いと、人の足音だった。
「おはようございます、殿下」
回廊の先で、一人の女性が足を止めた。
後ろでまとめた髪に、飾り気のない服。腕には数枚の書類を抱えている。
「おはようございます、セシリア」
「フィル様も。今日はご一緒でしたね」
「うん。邪魔しないようにするよ」
「分からないことがあれば、お尋ねください。ただし、通路では立ち止まらないように」
ちょうど後ろから台車が来たので、俺は慌ててアリスの隣へ寄った。
セシリアとは、王宮でも何度か顔を合わせている。アリスに注意できる、数少ない人だ。
元は王立医師団の副団長で、今はここを任されたアリスに代わり、日々の運営を取りまとめている。アリソンより二歳下だと聞いたことがあるが、二人を並べて年齢を当てる自信はない。
「昨日お渡しした報告は、お読みになりましたか」
「はい。治療の後に休んでいただく部屋が、足りないというお話ですね」
「そちらから確認しましょう」
案内された部屋には、寝台が並んでいた。横になっている人もいれば、上着を着て帰り支度をしている人もいる。
扉の近くでは、職員が二人で寝具を取り替えていた。
部屋を出たところで、担当の女性がアリスへ説明した。
「午前の診療が重なる時間だけなのですが、皆様をご案内するまでに、お待たせしてしまいます」
「隣のお部屋を使うことはできませんか。先ほど見た時には、誰もいませんでしたが」
アリスの言葉に、セシリアが隣の扉を開いた。
人はいない。けれど、空でもなかった。棚には畳まれた布が積まれ、壁際には桶や衝立が置かれている。
「これらを、どこへ移しましょうか」
「……別の物置は、ありませんか」
「あります。ただ、ここから離れています。替えの寝具を取りに行く間、誰が患者のそばにつくかも考えなければなりません」
アリスは棚へ目を向け、それから先ほどの部屋を振り返った。
「寝台を増やすだけでは、駄目なのですね」
「部屋が広くなるのは助かります。殿下のお考えが間違っているわけではありません。使える形にするために、もう少し確かめましょう」
セシリアが、抱えていた書類を一枚差し出す。
アリスは受け取ると、担当の女性へ向き直った。
「一番人手が足りなくなるのは、いつですか」
そこからは、診療の時間や患者の帰る時間について話が続いた。
別の家臣が、午前に働く者の配置を書き出す。寝具の置き場所を変えずに、棚の向きを変える案も出たが、台車が通れるかを測ってから判断することになった。
俺は開いた扉の横で、黙って話を聞いていた。
空いている部屋を使う。俺も、それで済むと思ったんだけどな。
「では、部屋を使う案と、今のままで人の配置を変える案を、両方確かめていただけますか」
アリスが言うと、セシリアは頷いた。
「はい。それなら、比べて決められますね」
声は穏やかだった。アリスの肩から、少しだけ力が抜ける。
その後は、診察を行う部屋へ向かった。
椅子に座っていたのは、腕に布を巻いた男性だった。担当の医師とセシリアが状態を確認し、アリスへ説明する。
アリスは男性の前へ座り、まず顔を見て挨拶した。
「腕を見せていただいても、よろしいですか」
差し出された腕へ、両手を添える。淡い光が指の間から広がった。
俺の擦り傷を治してくれる時と同じ光だが、今日は少し長い。アリスの目は、ずっと患部へ向けられていた。
隣では、家臣の女性が男性の腕を支えている。別の一人は医師へ必要な物を渡し、処置の内容を書き留めていた。誰かが大きな声で指示を出すこともなく、作業が進む。
光が消えると、セシリアがそばへ寄った。
「痛むところは、まだありますか」
男性の返事を聞き、医師と確認を終えてから、アリスへ目を向ける。
「落ち着いてできましたね」
「はい」
アリスは口元を少し緩めたが、すぐに男性へ向き直り、担当の医師の説明を一緒に聞いていた。
部屋を出てから、俺は声をかけた。
「アリスって、ここだと忙しいんだね」
「ここでも、です」
「そっか。それは失礼しました」
朝、豆を肉の下へ隠していた相手とは思えない。
そんなことを口にすれば怒られるので、そこは黙っておいた。
「フィル。ほかにも、見せたい場所があります」
「殿下。その前に休憩です」
セシリアが、すぐに言った。
「私は、まだ平気です」
「承知しています。ですが、お茶を飲む時間は取れますね」
「……はい」
返事を聞くと、セシリアは近くの職員に声をかけた。俺の分の席も頼んでくれている。
アリスは少し不満そうにしていたが、歩きながら、さっきの部屋について新たな質問を始めた。
セシリアは足を緩め、その話を最後まで聞いていた。
◇◇◇
午後、王宮へ戻った俺は、アリソンに連れられてディアルの仕事を見学していた。
机に広げられているのは、王都の地図だ。
道の一部に線が引かれ、その横には日付や数字の並んだ書類が置かれている。
「この区間の石畳を、順に補修する予定です。作業中は荷車をこちらへ回します」
担当の男性が、地図の上で指を動かした。
ディアルはその指を追い、別の道との合流地点へ目を止める。
「ここには、朝、市場への荷が集まるはずだ」
「はい。ただ、補修は市場の入口より手前ですので」
「回した荷車も、同じところを通るだろう。重なっても通れるか」
男性の指が止まった。
「……そちらの通行量までは、確認できておりません」
「時間ごとに確かめてほしい。通れないなら、作業の時間か、回す道を変える必要がある」
男性が手元へ書き込む。
俺も地図をのぞき込んだが、線で描かれた道を見ても、どのくらいの荷車が通れるかまでは分からなかった。
「道幅は、こっちの紙ですか」
小声で尋ねると、アリソンが書類の一つを示してくれた。
数字の横には、ところどころ印がある。
「これは?」
「荷の積み下ろしを行う場所です」
「止まってる荷車もあるんだ」
「ええ。道幅が同じでも、常に同じように通れるとは限りません」
なるほど。
車がないからといって、渋滞までないわけではないらしい。
話を聞きながら書類を見ていると、補修が必要な箇所は一つではなかった。全部を一度に直せば早そうだが、それでは周りの道が使いにくくなる。
かといって、少しずつでは人や道具を何度も移さなければならない。
石を並べ直すだけの話なのに、考えることが多い。
「通り沿いの店には、いつ知らせる」
ディアルの問いに、男性が答えた。
「日程が決まり次第、順に」
「荷が来る日を変えられるか、先に聞いておいてほしい。こちらだけで決めてからでは、合わせられないかもしれない」
「承知しました。聞き取りの結果も、併せてお持ちします」
確認する項目を揃え、次に報告する日を決める。
男性が退室すると、ディアルは書類をまとめず、地図の端へ小さな印を書き加えた。
「今日、決めちゃうわけじゃないんだね」
「分からないことが残ったからな」
俺の問いに答えながら、ディアルが顔を上げる。
「でも、工事は必要なんでしょ?」
「ああ。だから、通れるようにして直す」
それはそうなのだが。
困っているなら直そう、というところから、実際に直し始めるまでにも仕事があるらしい。
「さっき、市場の荷が集まるって言ってたけど、よく覚えてるね」
「前に、通れなかった」
思っていたより、普通の理由だった。
「馬車で?」
「ああ。時間をずらして通った」
「なるほど。経験者だったか」
ディアルは地図へ目を戻した。
「今も同じとは限らない。だから聞いた」
知っていることだけで決めつけるわけでもないらしい。
俺は書類へ視線を落とした。最初は数字ばかりに見えていたが、さっきより少しだけ、何が書いてあるのか分かる。
「ところで、こういう仕事って、毎日あるの?」
「毎日、同じ話ではない」
「そういう意味じゃなくてね」
横でアリソンが笑った。
「フィル様にも、少しずつ覚えていただきましょう」
「見学だけのつもりだったんだけど」
「本日も、お勉強の一環でございますよ」
ごもっともである。
俺は忘れる前に、教わった印の意味を書き留めておいた。
◇◇◇
見学を終えて廊下へ出ると、思わず肩を回した。
体を動かした時間は短いのに、妙に疲れている。朝から、部屋や人をどう動かすかという話ばかり聞いていた気がする。
少しくらい、何も考えずに座っていたい。
そう思ったところで、廊下の向こうからトレンがやって来た。
「殿下。イーサック団長から、お知らせがございます」
その後ろに、もう一人いる。
暗い赤色の髪。肩に掛けた荷物。旅の埃が残る靴。
こちらを見つけた彼が、足を止めて背筋を伸ばした。
「ヴィルツ?」
「お久しぶりです、殿下。フィルも」
声を聞いて、ようやく実感が湧いた。
刀の里で別れてから、二か月。いつ来るのかとは思っていたが、今日だとは聞いていない。
「着いたばかり?」
「ああ。まず、イーサック団長にお取り次ぎをお願いした」
「ずっと、その荷物を持ったまま?」
「まだ、ご挨拶が済んでいないからな」
相変わらずだ。
もっとも、荷物を下ろせる場所も教わっていないのかもしれない。
トレンの案内で部屋へ入ると、イーサックが一通の書状を読んでいた。
俺たちに気づいて顔を上げ、それからヴィルツを見る。
「ハーバード様からの書状は確かめた。課題は、自分の力で果たしたそうだな」
「はい」
ヴィルツの返事は、はっきりしていた。
イーサックは書状を畳み、机へ置いた。
「約束どおり、第三騎士団の見習いとして預かる。ここへ来てからの指示には、従ってもらうぞ」
「よろしくお願いいたします」
深く頭を下げるヴィルツを、ディアルは黙って見ていた。
顔が上がるのを待ってから、短く声をかける。
「倒せたんだな」
「はい。……一度では、うまくいきませんでしたが」
「ああ」
ディアルが頷く。
ヴィルツも、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「まずは荷物を置いて、今日は休め。明朝、訓練場へ来るように」
イーサックに言われ、ヴィルツはまた姿勢を正す。
「はい」
今度は、休むことに異論を挟まなかった。
トレンが部屋へ案内すると言うと、彼は荷物を持ち直し、扉へ向かう。その途中で、俺たちへ振り返った。
「これから、よろしく頼む」
「うん。こちらこそ」
そう答えると、ヴィルツは頷いて出ていった。
明日の朝、訓練場にはあの赤い髪がある。
そう思いながら、俺は二人分の足音が遠ざかるのを聞いていた。




