第十四話 竹林の初仕事
いた。
竹の間に、丸く大きな背中が見える。
エレファントボア。
名前を聞いた時は、鼻の長い猪でも出てくるのかと思ったが、見た目はだいたい猪だった。ただし、俺の知っているものよりも、ずっと大きい。
灰色がかった皮膚には深い皺が刻まれ、短い毛がまばらに生えている。地面を掘り返す鼻の横には、太い牙が二本突き出していた。
近くに、もう一頭。
少し離れたところにも二頭いる。
成獣は四頭。その奥に、ずっと小さな個体が二匹いた。
子供もいるのか。
俺はひとまず頭数を確かめ、手前にいる一頭へ目を戻した。
二メートルというのは、思っていたよりも大きい。
俺が隣に立ったら、背中の方が高いのではないだろうか。
まあ、五歳だからね。
その五歳へ任せる仕事なのだから、そこまで強い相手ではないのだろうけど。
柄を握り、ゆっくりと刀を抜く。
その音を拾ったのか、地面を掘っていた一頭が顔を上げた。
小さな目が、こちらへ向く。
低い鼻息。
次の瞬間、地面を蹴った。
「おっと」
速い。
あの体で、よくそんな急に動けるものだ。
俺は横へ踏み出し、突き出された牙を避けた。重い体がすぐ脇を通り抜け、風が服を揺らす。
しかし、そのまま遠くへ走っていったりはしなかった。
前脚で地面を踏みしめ、体を強引に回す。土が跳ねたと思うと、もうこちらを向いていた。
なるほど。
まっすぐ来るだけではない、というのは本当らしい。
周囲の三頭も、こちらへ顔を向けている。
仲間が一度失敗したくらいでは、逃げる気にならないようだ。
俺は刀を構え、柄から魔力を流そうとした。
――通らない。
「……ん?」
もう一度、少しだけ流す。
やはり入らない。
今朝はあれほど素直だったのに、刀の手前で魔力が止められる。流し方を間違えた時の、散ってしまう感覚とは違った。
受け取る気がない。
そんな感じだった。
「ちょっと。今、それやる?」
一頭目が、再び飛び込んでくる。
俺は斜め前へ踏み込み、牙の届く位置から外れた。すぐ後ろで別の一頭が動くのを見て、そのまま足を止めずに位置を変える。
突進してきた二頭が互いを避け、短く唸った。
刀は相変わらず、静かなままだ。
「これ、稽古なんだけど」
小声で言う。
柄を握り直し、もう一度だけ魔力を差し出す。
「使わせてくれなきゃ、稽古にならないじゃん」
少し腹が立った。
せっかく教わったことを試す機会なのに、肝心の武器に断られては困る。
今度は、大量に流して黙らせようとは思わなかった。
そんなことをしたら、ハーバードに何を言われるか分からない。
ただ、魔力を細く保ったまま待った。
ほんの一瞬。
それまで塞がれていたところが、ふっと開く。
魔力が刀へ通った。
「……はい。ありがとう」
最初から、そうしてくれればいいのに。
刀全体へ行き渡らせ、内側の範囲を定める。
今朝、何度も繰り返したとおりに圧縮すると、刃に沿って淡い光が収まった。
入れた量は、練習した時より少ない。
維持することに、ほとんど意識を取られなかった。
先頭の一頭が、低く頭を下げる。
鼻先ではなく、肩と前脚を見る。
地面を蹴る瞬間に横へ動き、すれ違いざま、首筋へ刀を通した。
硬い。
刃が触れた最初の一瞬は、そう感じた。
けれど、止まらない。
腕で押し切ろうとしなくても、刀は思ったところを通り抜けた。
俺が振り終えるのと、巨体が崩れるのは、ほとんど同時だった。
「……うん」
斬れる。
それも、思っていたより、ずっと。
確かめる間もなく、左から次の一頭が迫った。
俺は刀を引き戻しながら半歩下がる。目の前を牙が横切り、追いかけるように首が動いた。
正面から、全部受ける必要はない。
足を動かし、刃を向ける。
二頭目も、同じように倒れた。
残る二頭が、一瞬だけ動きを止める。
逃げるだろうか。
そう思ったが、そんなことはなかった。
一頭が低く唸り、もう一頭が横へ回り込んだ。倒れた仲間を避け、別々の方向から間合いを詰めてくる。
気が強いなあ。
俺なら、二頭倒れた時点で帰ることを考える。
先に来た方へ踏み込み、突進の軸から体を外す。
刀を斜めに通し、振り抜いた勢いを足で受け止めた。
もう一頭が来る。
引き戻した刃を、そのまま反対側へ返した。
続けて二度、重い音が響く。
俺は一歩だけ離れ、刀を構えたまま周囲を見た。
動く成獣はいない。
荒い鼻息も、土を蹴る音も、止まっていた。
◇◇◇
……終わった、よね。
倒れた四頭を順番に確かめてから、刀へ目を落とす。
圧縮は崩れていなかった。
少しずつ解き、魔力を抜く。
今回も、戻す時には何の抵抗もなかった。
「使わなくても倒せるから、断ったの?」
小さく尋ねる。
もちろん、答えは返ってこない。
ただ、あの動きなら、魔力圧縮がなくても対応できた気はする。硬い皮膚を避けて狙えば、普通に斬ることもできただろう。
だからといって、断らなくてもいいと思うのだが。
「プライド高いと、持ち主が困るんだけどね」
刀を軽く傾けてみても、反応らしいものはなかった。
はいはい。
とりあえず、付き合ってくれたことには感謝しておこう。
刀を拭って鞘へ納め、顔を上げる。
竹の方は?
周囲をぐるりと見回した。
倒れたものはない。切り落とされた枝も、見当たらなかった。
うん。問題ないね。
これなら、ハーバードを悲しませずに済む。
そこで、奥から小さな唸り声が聞こえた。
子供たちだった。
成獣よりずっと小さい二匹が身を寄せ、一匹は鼻先をこちらへ向けている。もう一匹は、その後ろから逃げ道を探すように顔を動かしていた。
小さくても、顔つきはなかなか強そうだ。
俺が一歩近づくと、前の一匹が短く鳴いた。
「いや、斬らないよ」
両手を見せてみる。
伝わるはずもなく、今度は後ろの一匹が飛び出した。
俺は進む先へ回り込み、慌てて足を止めた体を抱き上げた。思ったより重いが、持てないほどではない。
短い脚が、勢いよく動く。
「ちょっと待って。暴れないで」
待つはずもなかった。
もう一匹も逃げ出そうとしたので、抱えている方を落とさないようにしながら追いかける。
成獣を倒すより、こちらの方がよほど忙しい。
ようやく二匹とも捕まえた頃には、服の前が泥だらけになっていた。
「……よし」
右に一匹。
左に一匹。
両脇へ抱えると、二匹は不満そうに鼻を鳴らした。
さっき、肉がおいしいと聞いたばかりだ。
だったら、育てられないだろうか。
里には大人もたくさんいるし、場所だってありそうだ。うまく増やせたら、わざわざ森まで探しに来なくても済む。
うん。
いい考えな気がする。
あとは、連れて帰って相談しよう。
俺は討伐した場所を確かめてから、帰り道へ足を向けた。
◇◇◇
北側の竹林では、五頭目のエレファントボアが地面へ倒れた。
ディアルは剣を下げず、周囲を見渡した。
成獣の気配は、もうない。
少し離れた場所にいる二匹の幼獣だけが、低い声を上げていた。
剣身に留めていた魔力を緩め、抜く。
いつもの剣は、どこも欠けていなかった。
エレファントボアの動きは速かった。体の大きさから想像するよりも、踏み込みは鋭い。
ただ、攻撃に移る前の動きは分かりやすかった。
前脚へ体重が乗る。頭が下がる。肩が動く。
そこを見ていれば、剣を通す場所は選べた。
竹を背にしないよう位置を変え、突進を正面から受けず、必要な分だけ斬る。
習ったことを使うには、確かに適した相手だった。
ディアルは剣を納め、幼獣へ目を向けた。
二匹は鼻先を低くし、彼を警戒している。
里へ戻れば、討伐した成獣は回収される。
だが、こちらまで殺す必要はない。
この魔物が森で何を食べ、何に食べられているのか、ディアルは詳しく知らなかった。里で暮らす者に確かめず、一帯の群れを根絶してよいとも思えない。
里の者が安全に仕事へ戻れること。
今回、求められていたのは、それだった。
ディアルは幼獣へ近づいた。
一匹が逃げようとする。
先へ回り込むと、もう一匹も向きを変えた。
ディアルはしばらく二匹の動きを眺め、少しだけ息を吐いた。
剣を使わない方が、手間はかかるらしい。
◇◇◇
帰り道では、何度か休むことになった。
俺が疲れたからではない。
二匹が、たびたび抱えられることへの不満を表明するからだ。
「歩いてくれるなら下ろすんだけどね」
右脇の一匹へ話しかける。
鼻を鳴らされた。
そうですか。
とりあえず、一緒に帰る気がないことは分かった。
途中で帰路針を確かめたい時には、一匹ずつ持ち直す必要があった。便利な道具をもらっても、両手が塞がっていては便利さを十分に使えない。
今度から、何か捕まえるかもしれない時は、袋でも用意しておこう。
そんなことを考えながら歩いていると、里の屋根が見えた。
入口の近くには、すでにディアルがいた。
その両脇にも、小さなエレファントボアが一匹ずついる。
俺は足を止めた。
ディアルも、こちらを見た。
「……そっちも?」
「ああ」
「おいしいって聞いたもんね」
ディアルが、わずかに首を傾げる。
「何がだ」
「いや。何でもない」
理由は違ったらしい。
ともあれ、討伐は無事に終わった。
二人で里へ入ると、俺たちより先に、抱えているものへ視線が集まった。
まあ、そうなるよね。
◇◇◇
「……なぜ、連れて帰ってきた」
ハーバードの第一声は、それだった。
俺たちの足元では、幼獣たちが急ごしらえの囲いへ入れられていた。丈夫な板で囲まれているが、すでに鼻先で押し合い、外へ出ようとしている。
レオが板を押さえ、トレンが隙間のないことを確かめてくれていた。
助かる。
ここまで抱えてきた甲斐があった。
「里で育てられないかなと思って」
俺が答えると、ハーバードは幼獣を見た。
「育てる」
「はい。肉がおいしいんですよね。大きくなったら、また子供も生まれるかもしれないし」
「世話は誰がする」
「それは、里の方に……」
ハーバードが、俺を見る。
俺も、ハーバードを見る。
何か、答えを間違えた気がした。
「大きくなれば、あれになるんだぞ」
討伐へ出る前に広げた地図を、指で叩く。
「人を追い回し、縄張りへ入れば襲ってくる。逃げ出さん囲いを作り、餌を用意し、毎日世話をする者も要る」
「……なるほど」
「なるほど、ではない。森へ返してこい」
即決だった。
いい考えだと思ったんだけどな。
確かに、そのいい考えを実行するのは、ほとんど俺以外の人だった。
「ディアルも、同じ理由か」
ハーバードが尋ねる。
「いえ」
ディアルは幼獣へ目を向けた。
「里の被害を止めるために、子供まで殺す必要はないと思いました。ただ、元の場所へ残すと、また人の近くへ来るかもしれません」
「ふむ」
「森のどこへ戻すのがよいか、詳しい人に聞きたいです。数を減らしすぎた時に、ほかへ影響が出ないかも」
ハーバードは少し黙り、それから頷いた。
「分かった。そちらは里の者と相談しよう。こいつらなら、自分で餌を取れる。戻す場所を選べばよいだろう」
対応が違う。
いや、理由が違うので、当然なのだが。
「では、討伐の方は」
改めて聞かれ、俺たちは成獣の数と、倒した場所を伝えた。ハーバードは地図へ印をつけ、回収へ向かう者を手配する。
その横で、ウルスナから渡された布で手の泥を拭いていると、アリスが俺の手首を指した。
「フィル。そこ、切れていますよ」
「ああ、これ。行く途中で、草に引っかけたんだよね」
「手を出してください」
言われるままに差し出す。
アリスは俺の手首を取り、浅い傷へ指先を添えた。
「手こずったところはあったか」
ハーバードに聞かれ、俺は顔を戻した。
「子供を捕まえるところですかね」
「その前だ」
その前。
少し考えている間に、手首が淡く光った。
「竹を斬らないようにする方が、大変でした」
ハーバードの指が止まる。
「魔物よりもか」
「はい。そっちは、動きが見えたので」
ディアルも頷いた。
「突進したあとに向きを変えるので、位置は気にしました。ですが、剣を通すところは選べました」
「……そうか」
ハーバードが地図へ目を戻したところで、アリスが俺の手を離した。
「はい、終わりました。お兄様は?」
「問題ない」
「そうですか」
ディアルの返事に頷くアリスの横で、俺は治った手首を眺めた。
「俺も、問題なかったはずなんだけどね」
「傷がありました」
「まあ、そうなんだけど。ありがと」
「どういたしまして」
アリスはそう答えると、今度は囲いの中を覗き込んだ。
後ろでは、いつの間にか戻ってきたイーサックが、ハーバードと話していた。その隣にはアリソンも立っている。
目が合うと、いつもの笑顔で小さく頭を下げられた。
俺も、少しだけ頷いておいた。
付き添い、お疲れさまでした。
そう伝わっていればいいのだが。
足元で、幼獣が大きく鼻を鳴らした。
囲いを押さえていたレオが笑う。
「元気ですね。これは、もう少し丈夫なものが必要でしょうか」
「戻すまでの間だけだ。頼む」
ハーバードが答えたあと、俺へ目を向けた。
「フィル。手伝ってこい」
「はい」
俺は素直に、板を押さえる方へ回った。
捕まえて帰るところまでは考えた。
その先の仕事は、また少し増えたらしい。
◇◇◇
フィルたちが幼獣の囲いへ向かったあと、ハーバードはイーサックとアリソンを呼び止めた。
「どうだった」
「危なげなく」
先に答えたのはイーサックだった。
「ディアル殿下は、必要なところだけに剣を通しておられました。魔力圧縮も、扱える量を守っています。こちらが手を出す場面はありませんでした」
ハーバードがアリソンを見る。
「フィル様も同様です。刀へ魔力を流すまでに、少々やり取りがございましたが」
「やり取り?」
「刀と、です」
イーサックが笑った。
ハーバードは一度だけ目を細め、続きを促した。
「そのあとは、四頭とも手早く。圧縮した魔力を大きく放つこともなく、刃の届く範囲だけで仕留めておられます」
「竹は」
「無事です」
アリソンが答えると、ハーバードは腕を組んだ。
少量の魔力を圧縮できることは、確かめていた。
だが、稽古場でできることと、襲ってくる魔物を相手に同じことができるかは、別の話だった。
複数の相手を見て、動きを選び、周囲への被害まで抑える。
そのうえで、二人はそれぞれの判断から、幼獣を捕らえて帰ってきた。
「手応えがなさすぎましたかね」
イーサックが言う。
ハーバードはすぐには答えなかった。
少し離れた場所で、フィルが囲いの板を押さえている。鼻先で押され、何か言い返していた。
ディアルは里の者と、幼獣を戻す場所について話していた。
「……任せられる仕事の見積もりを、改めねばならんな」
やがて、ハーバードが呟いた。
その声が届かないところで、フィルはようやく落ち着いた幼獣を覗き込み、満足そうに頷いていた。
初めての仕事としては、うまくできた。
きっと、その程度に思っているのだろう。
ハーバードは短く息を吐き、口元を緩めた。
「五歳に任せる仕事、か」
その言葉に、イーサックもアリソンも、否定はしなかった。




