第九章 真実は人を救わない
王家も教会も、否定を続けることができなくなった。
不可触民の勇者。
その噂は一日で王都へ広がり、三日で周辺領へ、一週間で王国の半分へ届いた。
兵士が語った。
聖剣が光った。
一人で何百もの魔物を倒した。
教会が立てた勇者とは違う。
その頃には、アルディス軍の敗北も知られていた。
人々は自分たちで結論を出した。
王家は偽物を勇者にした。
本物を隠した。
理由は一つ。
不可触民だったから。
教会がもっとも恐れていた形で、真実が広がった。
農奴は領主へ問う。
神が身分を決めたというのは本当か。
不可触民は鐘を捨て始めた。
賤民は通行制限を拒んだ。
一部の下級神官は説教を止めた。
自分たちは何を信じればよいのか。
社会は揺れた。
一方、保守派の貴族も王家へ反発した。
王家は神託を偽った。
教会は神を冒涜した。
理由は逆でも、敵は同じだった。
徴税拒否。
軍役拒否。
地方では農奴反乱。
別の土地では貴族兵による報復。
人が死んだ。
王国は魔王軍と戦いながら、内部でも割れ始めた。
ノアは英雄として扱われた。
望んでいない。
黒街へ人が来る。
勇者様。
我々を解放してください。
あなたが立てば国が変わる。
ノアは疲れたように繰り返した。
自分に言われても困る。
字もろくに読めない。
神が選んだのは魔王を倒す者であって、法律を作る者ではない。
それでも人は集まった。
期待。
それは、嫌悪より重かった。
ミナだけは面白がっていた。
人気者になったねと言われ、ノアが代わるかと聞くと、少女は即座に嫌だと答えた。
その頃。
大神官セラフォンは大聖堂地下の禁書庫にいた。
目の前には、もっとも古い聖典。
原典。
そこに《不可触民》という言葉は存在しなかった。
あるのは、たった一文。
《死と病に携わる者は、その身を清める期間を置くべし》
一時的な衛生規定だった。
それだけ。
後代。
期間が職業へ変わる。
職業が血統へ変わる。
血統が身分へ変わる。
そして教会が、神意として追認した。
セラフォンは知っていた。
三十年以上前に見つけていた。
若い司祭エリアスが書庫へ入ってきた。
東教区で暴動が起き、二十人以上が死んだという。
北西では公爵家が軍役を拒否した。
エリアスの声は震えていた。
「我々は、嘘をついたのですか」
セラフォンは若者を見た。
二十四歳。
かつて自分にもあったはずの、真っ直ぐな目。
「そうだ」
エリアスの顔が白くなる。
不可触民が穢れているという教義についても問われ、セラフォンは長く黙った後、原典には根拠がないと答えた。
知っていたのか。
なぜ黙っていたのか。
若い司祭の声に怒りが混じる。
セラフォンは、混乱を避けるためだったと答えた。
エリアスは地上から響く鐘の音へ耳を向け、これがその結果なのかと言った。
セラフォンは目を伏せた。
「そうだな」
「間違っていたと?」
「分からぬ」
エリアスはその答えに怒った。
しかしセラフォンは逃げなかった。
正しい改革が人を殺すのを見た。
だから怖かった。
制度を壊すことが。
「国が安定したら変えようと思った」
セラフォンは古い聖典へ手を置いた。
「翌年なら。次の王なら。戦争が終われば。豊作になれば」
外で遠く爆発音がした。
「今日ではなく、明日」
老人は苦く笑った。
「そして三十年以上が過ぎた」
エリアスは何も言えなかった。
「正しい時など、来なかった」
同じ日。
アルディスが王都へ戻った。
出発時三千。
帰還したのは千七百。
北門にいた市民の歓声は少なかった。
それでも、村人を逃がすために殿を務めた話を知る者たちは、殿下と声をかけた。
勇者と呼ばない者も増えていた。
アルディスは、その方が少し楽だった。
王宮。
父王。
二人だけ。
「負けました」
アルディスは報告した。
王は知っていると答えた。
「私は勇者ではありません」
それも知っている。
「公表します」
国王は顔を上げた。
今さら何になる。
アルディスは胸につけていた勇者章を外し、机へ置いた。
「これ以上、ノア一人に我々の嘘を背負わせられません」
国王は、国がさらに乱れると言った。
アルディスは、もう乱れていると答えた。
真実を言えば治ると思うのか。
「思いません」
「なら、なぜだ」
「嘘を続ければ、少なくとも我々自身が腐ります」
王は長く黙った。
アルディスは続けた。
国を守るために嘘をついた。
ならば、その嘘で民が死んだ責任も取るべきだ。
国王は長く息を吐いた。
「お前は王には向かんな」
アルディスは僅かに笑った。
王は、ときに正しくないと分かっていることを命じなければならない。
そう父は言った。
アルディスは、父はそれで平気なのかと尋ねた。
国王は窓の外を見た。
「平気に見えるか」
その時、アルディスは初めて父の疲れをはっきり見た。
「毎晩、夢を見る」
「何をです」
「王都の地図だ」
机の上に地図が広げられる。
「どこを守り、どこを捨てるか。数字で決める」
西外郭。
黒街。
アルディスの表情が変わる。
「ノアの街を捨てた」
「はい」
「六千を切り、十九万を取った」
王の指が僅かに震えている。
「王とは、そういう仕事だ」
アルディスは父を見た。
「なら、誰かがその決定は間違っていると、王に言わなければなりません」
王は少し笑った。
「だから、お前は王に向かん」
「ええ」
「だが」
父親の顔に戻る。
「私よりは、まともかもしれん」
その夜。
大聖堂ではセラフォンが。
王宮ではアルディスが。
それぞれ別の決断を固め始めていた。
そして魔王軍もまた、王都へ迫っていた。




