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第八章 見捨てられた者

北方防衛線が破られた。


その知らせは、敗残兵より早く王都へ届いた。


伝令。


魔術通信。


旅人。


噂。


日ごとに内容は悪くなっていった。


勇者軍が全滅した。


魔王本人が現れた。


北の街はすべて焼けた。


真偽など誰にも分からない。


ただ、避難民だけは確実に増えていた。


王都の東門と北門には一日数千人。


食糧は減る。


井戸には長い列。


教会も倉庫も空き家も、すべて避難所になった。


黒街には誰も来ない。


正式には王都外だからだった。


ノアは相変わらず死体を運んでいた。


ただし、数が増えた。


旅の途中で病死した者。


怪我が悪化した者。


飢えた者。


バルトは荷車を押しながら、まだ魔王が来ていないのに人は死ぬものだと呟いた。


数日後。


黒街の住人が集められた。


まとめ役が王国軍からの通達を読み上げる。


王都防衛線を内壁まで縮小する。


西外郭は放棄する。


最初、誰もその意味を理解できなかった。


やがて一人が、黒街はどうなるのかと尋ねた。


ここが西外郭だ。


そう告げられた瞬間、場の空気が変わった。


避難先は南。


だが南にも魔物が出ている。


王都の中へ入れないのかという声が上がる。


避難所が足りない。


それが王国軍の回答だった。


翌日、若い軍務官が護衛を二人連れてやってきた。


ノアは地図を広げさせた。


黒街の人口は六千。


王都は現在、難民込みで十九万ほど。


六千人を収容できないのかと尋ねると、食糧の問題があると答えられた。


では子供と老人だけでも。


軍務官は目を逸らした。


空いている倉庫はある。


それでも入れられない。


ノアはしばらく男の顔を見てから尋ねた。


「俺たちだから?」


軍務官は違うと答えた。


「なら入れろ」


「私には権限がない」


「命令したのは?」


「防衛会議だ」


「王様?」


「最終承認は陛下だ」


胸の奥が、静かに冷えた。


軍務官は、軍事的には外郭を守れないのだと説明した。


内壁を守れば十九万人を守れる。


「六千は?」


男は答えなかった。


「十九万のためなら、六千が死ぬのは正しい?」


軍務官の顔が歪んだ。


何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。


ノアは地図を畳んだ。


「あなたに言っても仕方ないか」


その言葉に、軍務官はかえって苦しそうな顔をした。


その夜。


黒街は混乱した。


南へ逃げる者。


残る者。


荷車。


子供。


老人。


バルトは家の前に座っていた。


南へ行かないのかとノアが尋ねると、老人は自分の引きずる片足を見た。


「途中で魔物に食われるなら、家で死ぬ」


「死なせない」


「勇者様か」


ノアはその呼び方をやめろと睨んだ。


バルトは、ならどうするのかと静かに聞いた。


ノアは答えられなかった。


六千人。


一人で守る。


聖剣はある。


だが訓練もしていない。


魔物が千来たら。


五千なら。


考えているところへミナが水袋を持ってきた。


ノアは彼女に南へ行くよう言った。


自分は残る。


なら自分も残るとミナが答えた。


危険だと止めても、ノアだって危険だと言い返される。


「俺は剣がある」


「私も包丁ある」


「料理用だろ」


「刺せるよ」


ノアは額を押さえた。


夜明け。


地平線が黒くなった。


最初は雲にも見えた。


やがて動いていることが分かる。


魔物の群れ。


数百。


千を超える。


黒街に警鐘が鳴った。


老人を背負う者。


子供を抱く者。


荷車へ荷物を積む者。


南への道はすぐに詰まった。


王都西壁。


城壁の上には兵士が並んでいる。


弓兵。


魔術師。


門は閉じたまま。


ノアは叫んだ。


「開けろ!」


届いたかどうか分からない。


城壁上で指揮官らしい男が何か叫んでいる。


ミナが袖を掴んだ。


一緒に行こうと言う。


ノアは彼女へ強い声を出してしまった。


怯えた顔を見て、すぐに息を吐いた。


「悪い」


頭へ手を置く。


「バルト爺さんを連れて南へ行け」


ノアも後から行く。


そう言っても、ミナは嘘だと見抜いた。


ノアは聖剣を抜いた。


「俺、こいつらに腹立ってる」


城壁を見る。


「王様にも」


魔物の群れへ目を向ける。


「だから、一発くらい殴らないと気が済まない」


ミナは涙を溜めながら、千匹いるのだと指摘した。


「一発ずつ殴る」


泣きながら、ミナは馬鹿だと言った。


ノアは知っていると答えた。


バルトへ少女を預ける。


老人は、死ぬなよとだけ言った。


人々が退いていく。


ノアは一人、前へ出た。


怖かった。


膝が震える。


手も。


千。


自分一人。


後ろには六千人。


この国が捨てた人々。


合理的なのだろう。


十九万を守るために六千を捨てる。


王ならそう決める。


大神官なら、そう説明する。


自分が王だったら。


六千を守るために十九万を危険にできるのか。


分からない。


それでも。


ミナへ。


バルトへ。


黒街にいる一人一人へ。


ここで死ねと言えるか。


「無理だ」


ノアは聖剣を握った。


「そんなこと言えるかよ」


剣が熱を帯びる。


頭の奥へ、あの日以来の声が響いた。


《汝が守るものを定めよ》


ノアは小さく笑った。


「遅いんだよ」


魔物が迫る。


「今さら聞くな」


一歩前へ。


「ここだ」


聖剣を振るう。


金色の光が地面を走り、先頭の魔物数十体をまとめて薙ぎ払った。


ノア自身が驚いた。


だが立ち止まってはいられない。


走る。


斬る。


身体が軽い。


魔物の爪を避け、剣を振るう。


十。


五十。


百。


終わらない。


肩を裂かれる。


血が流れる。


二百。


息が重くなる。


三百。


足が震える。


それでも魔物の列は続いている。


ノアは城壁を見た。


兵士がいる。


誰も降りてこない。


腹が立った。


「見てるだけか!」


叫んだ。


届いたかどうか分からない。


大きなオークの斧を受け止め、腕が痺れた。


それでも斬る。


膝をつく。


立つ。


後ろには、まだ逃げ切れていない避難民がいる。


その時。


一本の矢がノアの横を通り過ぎ、魔物に刺さった。


城壁からだった。


もう一本。


二本。


十本。


ノアが顔を上げる。


一人の兵士が弓を引いていた。


指揮官が怒鳴っている。


外郭は放棄命令だ。


射るな。


命令違反だ。


兵士はもう一度矢を放った。


「人がいる!」


その声が風に乗って聞こえた。


別の兵士。


さらに。


さらに。


矢が増える。


魔術師が炎を放つ。


氷が飛ぶ。


指揮官が止めきれなくなる。


やがて、その男自身が剣を抜いた。


「弓兵、自由射撃!」


ノアは息を切らしながら笑った。


「最初からやれよ」


門は最後まで開かなかった。


だが戦いは変わった。


夕方。


最後の魔物を斬った。


ノアは聖剣を地面へ突き立て、その場に膝をついた。


息ができない。


全身が痛い。


ミナが走ってきた。


抱きつかれ、傷に響いたためノアが痛いと声を上げると、少女は泣きながら馬鹿だと繰り返した。


バルトも遅れてやってきた。


「生きてたな」


「死ぬと思った」


「俺もだ」


城壁の上。


何百人もの兵士がノアを見ていた。


一人が兜を取り、頭を下げた。


次。


また一人。


ノアは困ったように顔を逸らした。


もう、本物の勇者を隠すことはできなかった。


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