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第十章 許せない街

国王エドガルがノアへ頭を下げた。


王座から降り、冠を外し、膝をついた。


ノアは、その光景を理解するまでしばらく時間が必要だった。


十八年間。


王とは、見かければ自分が頭を下げる相手だった。


遠くに馬車を見れば道を空け、王家の紋章があれば視線を上げない。


その男が、いま自分へ頭を下げている。


嬉しくはなかった。


勝ったとも思わない。


ただ、現実味がなかった。


「王国を救ってほしい」


王が言った。


ノアはしばらく黙っていた。


「俺たちは、この国の人間ですか」


王は顔を上げた。


長い沈黙。


その沈黙に、ノアは腹が立った。


だが王は逃げなかった。


「そうだ」


「今日から?」


王の表情が僅かに歪む。


「本来、最初からだ」


ノアは拳を握った。


「なら、身分をなくして」


「不可触民身分は廃止する」


予想していなかった言葉だった。


宰相が書類を置いた。


王国勅令。


不可触民身分の廃止。


通行制限撤廃。


公的井戸使用権の承認。


司法証言権の承認。


強制労働禁止。


身分を理由とした身体刑の禁止。


ノアは読むのが遅いため、アルディスが横から簡単に説明した。


すでに王印は押されている。


ノアは王を見た。


「じゃあ、農奴も」


「それは今すぐにはできない」


胸の熱が引く。


「やっぱり」


王は話を聞けと言った。


ノアは堪えきれず、黒街を捨てたではないかと声を上げた。


六千人。


門を閉めた。


自分がいなければ全員死んでいた。


王は分かっていると答えた。


分かっていないとノアが叫ぶ。


「分かっている!」


王も声を上げた。


ノアが止まる。


王は拳を床へ置いた。


「私が命令書へ署名した。外郭を放棄せよ、と」


声が震えていた。


十九万人を守るためだった。


今でも、その判断が軍事的に誤りだったとは言えない。


その言葉にノアの怒りが再び膨らむ。


「なら――」


「だが、正しかったとも言いたくない」


王は立ち上がった。


「王とは、ときにどちらを選んでも誰かが死ぬ決断をする」


「だから仕方ない?」


「仕方ないとは言わん」


「じゃあ何なんだよ」


「責任を取る」


王は机の上の勅令を見た。


不可触民制度を廃止する。


それで終わりなのかとノアが問うと、王は地図を広げた。


農奴制を今すぐ廃せば、西方三公爵が離反する。


王国の穀物生産の四割を失う。


他国から買おうにも街道は魔王軍に切られている。


王都には二十万近い人間がいる。


ひと月で飢える。


「じゃあ、また待てって?」


「そうだ」


ノアの声に怒りが滲む。


「ずっとそれ言ってきたんだろ」


王は否定しなかった。


「そうだろうな。三百年」


「信用できない」


「私も、お前が信用するとは思っていない」


ノアは一瞬言葉を失った。


「なら、どうする」


「監視しろ」


戦後、不可触民だった者たちの代表を王議会へ入れる。


法的に議席を作る。


ノアたちの多くは字を読めない。


なら学校を作る。


金は教会資産と貴族税から出す。


ノアはアルディスを見た。


公爵たちが怒ると言うと、アルディスはもう怒っていると苦笑した。


ノアの口元も僅かに動いた。


すぐに真顔へ戻る。


「俺、あんた嫌いです」


王を見る。


「そうだろう」


「教会も」


「私も今は、かなり嫌いだ」


アルディスが僅かに笑った。


その瞬間だった。


警鐘が響いた。


一度。


二度。


三度。


王宮の外が一気に騒がしくなる。


扉が開き、軍務官が駆け込んできた。


東水路から魔族が侵入し、東門内側が突破されたという。


遠くで爆発音。


窓が震える。


ノアが外を見る。


東から黒煙が上がっている。


王は立ち上がり、鎧を取った。


アルディスを東へ向かわせ、自分は北門へ行く。


ノアはその場に立っていた。


王が一度だけこちらを見る。


命令はしない。


頼みもしない。


ただ、見た。


ノアは窓の外へ視線を戻した。


王都。


炎。


最初に思った。


ざまあみろ。


自分でも驚くほど、はっきりそう思った。


これで分かったか。


助けが来ない怖さ。


門を閉められる怖さ。


捨てられる気分。


十三歳の時、自分が鞭打たれた中央広場から煙が上がっている。


ミナたちが正面から入れなかった教会も燃えている。


黒街など存在しないかのように暮らしてきた人々が逃げている。


胸の奥に、暗い満足があった。


ほんの一瞬。


確かに。


ノアはそれを否定できなかった。


この街が嫌いだった。


憎かった。


だが。


遠くの通りを一人の女が走っている。


幼い子供を抱えている。


魔物が追う。


女が転ぶ。


子供を庇う。


ノアの身体は、考えるより先に動いていた。


窓から飛び降り、屋根へ着地し、さらに下へ。


聖剣を抜く。


女へ迫った魔物を斬る。


女が震えながら顔を上げた。


見覚えがあった。


南市場の火事。


娘を助けた後、ノアが不可触民だと気づいて子供を引き寄せた女。


女も気づいた。


「あなた……」


「西へ行け」


ノアはそれだけ言った。


女は子供を抱き直し、何度も振り返りながら走っていった。


ノアはその背を見た。


「なんでだ」


自分へ向けた声だった。


別の場所から悲鳴が聞こえる。


燃える家。


老人。


助ける。


路地。


少年。


助ける。


商人。


勇者様と叫ばれる。


昨日までなら、ノアが店へ入っただけで追い出していたかもしれない男。


それでも背後の魔物を斬る。


腹が立った。


この街は自分たちを助けなかった。


それなのに自分は助けている。


なぜなのか分からない。


「西へ逃げろ!」


商人を追い立てる。


また声。


別の路地。


衛兵が倒れている。


制服。


ノアの足が止まった。


十三歳。


中央広場。


鐘の紐。


鞭。


規則を破った。


穢れ者。


消えろ。


同じ制服だった。


男は腹から血を流している。


「たす……け……」


ノアは動かなかった。


魔物が近づいてくる。


置いていけばいい。


自分が殺すわけではない。


何もしないだけ。


自分たちもそうされた。


助けない。


見ない。


それだけ。


ノアは一歩後ろへ下がった。


衛兵が目を閉じる。


その時、ダンの遺体が浮かんだ。


暴動と関係なく死んだパン屋。


ミナの言葉。


子供はノアを鞭で打っていない。


アルディスの言葉。


勇者には人々を救う責務がある。


国王の言葉。


お前を知らぬ者もいる。


ノアは頭を振った。


「違う」


誰に言っているのか、自分でも分からなかった。


この衛兵が昔、自分を鞭打った男なのか。


違う。


たぶん。


もし同じ男なら。


助けられるのか。


それも分からない。


魔物が近づく。


ノアは歯を食いしばった。


「くそっ」


走った。


魔物を斬る。


衛兵を担ぐ。


重い。


男は途中で意識を失った。


「助けてって言っといて寝るなよ」


返事はない。


救護所まで運び、神官へ預ける。


ノアはその場を離れた後、路地の壁へ拳を打ちつけた。


手が震えていた。


悔しかった。


この街を許していない。


黒街を見捨てた王も。


自分たちを穢れと呼んだ教会も。


不可触民を見れば顔を背けた市民も。


許したわけではない。


それなのに。


死ぬところを見たくない。


そこへアルディスが駆けつけた。


鎧は血と煤に汚れている。


東広場が落ちると告げる。


ノアは彼を呼び止めた。


「俺、この街嫌いだ」


アルディスは足を止めた。


「知っている」


「許してない」


「ああ」


「黒街を捨てた」


「ああ」


「俺たちが死んでも、平気だった」


アルディスは黙って聞いている。


「だったら俺だって、平気でいいだろ」


返事はない。


「助けたくない」


喉が震える。


「でも、見殺しにできない」


ノアは顔を伏せた。


涙が一滴落ちた。


すぐに袖で拭う。


優しい人間になったわけではない。


王都を許したわけでもない。


ただ、死ぬところを見たくない。


「俺、弱いのかな」


アルディスは首を横へ振った。


「違う」


「じゃあ何だよ」


「知らない」


ノアが顔を上げた。


アルディスは少し笑った。


「私にも分からない」


「勇者なら教えろよ」


「私は勇者じゃない」


二人とも、ほんの少しだけ笑った。


アルディスは剣を握り直した。


「ただ、一つだけ分かる」


「何」


「助けるのに、相手を許す必要はない」


ノアは黙った。


「好きになる必要もない。私は父を許せないことがある。それでも父が魔物に殺されそうなら助ける」


「王子だから?」


「息子だから」


ノアは長く息を吐いた。


「面倒だな」


「人間は」


その言葉を聞いて、ノアはバルトを思い出した。


二人は東広場へ走った。


そこでは兵士と市民が入り混じって戦っていた。


鍛冶屋が槌を振るう。


農奴出身の徴募兵が槍を構える。


貴族の青年が負傷した市民を引きずる。


不可触民の男が倒れた兵士へ肩を貸している。


ノアが魔物を斬る。


アルディスが兵を動かす。


夜は長かった。


王都は蹂躙された。


救えない者もいた。


ノアが駆けつけた時には、すでに母子が死んでいた家。


焼けた通り。


崩れた教会。


南市場の魚屋。


以前、ノアが近づくと商品へ布をかけた男が、店先で死んでいた。


ノアは足を止めた。


何も感じないと思っていた。


違った。


悲しいとも言い切れない。


ただ。


「こんな死に方しなくてもいいだろ」


そう思った。


それが、ひどく悔しかった。


夜明け前。


東区の魔物をどうにか押し返した。


だが北の地平線には、さらに大きな黒い軍勢が広がっていた。


魔王本隊。


まだ戦いは終わっていなかった。


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