第十一章 勇者はあなた方を救わない
夜明け前。
王都大聖堂の鐘が鳴った。
警報ではない。
礼拝の鐘だった。
大聖堂には避難民、負傷者、兵士、市民、貴族、農奴、不可触民が入り混じっていた。普段なら同じ床に立つことさえなかった者たちが、今は等しく疲れ、等しく血と煤に汚れている。
壇上には大神官セラフォンが立っていた。
法衣は着ていない。
冠もない。
白い簡素な服。
横には最古の聖典が置かれている。
伝達魔法が起動し、彼の声は王国各地の神殿へ送られていた。
「王国の民へ告げます」
ざわめきが少しずつ収まる。
セラフォンは一度目を閉じた。
「勇者選定について、教会は虚偽を述べました」
人々の表情が変わる。
「魔王による干渉はありませんでした。神がお選びになった勇者は、ノア・イルヴァンです」
怒号が起きる。
セラフォンは続けた。
「不可触民の青年です」
石が一つ、壇上へ飛んだ。
彼は避けなかった。
「彼を偽物としたのは、魔王ではありません」
一度言葉を切る。
「我々です」
大聖堂の空気が変わった。
「不可触民は神から穢れを負わされた者である。我々はそう教えてきました」
セラフォンは古い聖典を掲げた。
「その教義にも、原典上の根拠はありません」
今度は、もっと大きな声が上がった。
嘘つき。
何人死んだ。
神を売ったのか。
石が飛び、額へ当たる。
血が流れる。
衛兵が止めようとしたが、セラフォンは手を上げた。
「止めるな」
そして続けた。
「私は知っていました」
大聖堂が再びざわめく。
「三十年以上前から」
なぜ。
誰かが叫んだ。
セラフォンは答えた。
「怖かったからです」
予想外の答えに、人々が静かになる。
「制度を壊すことで多くの人が死ぬ。その光景を私は見たことがありました」
マルシェ飢饉。
子供。
死体。
セラフォンは過去を語った。
国が安定したら変えようと思った。
翌年なら。
次の王なら。
戦争が終われば。
豊作になれば。
今日ではなく明日。
「そして三十年以上が過ぎました」
外から戦いの音が届く。
「正しい時など、来なかった」
セラフォンは大神官の印章を壇上へ置いた。
「私は国を守ったつもりでした」
誰も声を出さない。
「それが罪にならない理由にはなりません。本日をもって辞任します」
市民の一人が逃げるのかと叫んだ。
セラフォンは首を横へ振った。
「生き残れば、裁判を受けます」
同じ頃。
王宮前。
アルディスが兵士と市民の前へ立っていた。
胸の勇者章を外し、地面へ置く。
「私は勇者ではありません」
ざわめき。
一度目の選定で神はノアを選んだこと。
自分は国を守るために必要だと説得され、勇者を名乗ったこと。
すべて話した。
群衆の一部から詐欺師という声が飛ぶ。
別の場所からは、しかし殿下は村を救ったという声も上がる。
アルディスは首を横へ振った。
「今日、それは関係ありません」
腰の剣を抜く。
勇者のために作られた偽聖剣ではない。
普通の王国剣だった。
「私は勇者ではありません。それでも今日も戦います。助けたい人がいるからです」
北門。
王エドガルは鎧姿で立っていた。
宰相が隣にいる。
不可触民廃止令は全領へ送達中。
王が死んでも撤回できない形に整えられている。
王が、仕事が早いなと笑うと、宰相は三十年仕えておりますのでと返した。
二人の前には、魔王軍が迫っていた。
中央。
巨大な黒い影。
魔王ヴァルグレス。
一方、西門。
黒街の住民の前には、魔族の使者が立っていた。
角を持つ女。
「不可触の民よ。人間はお前たちを捨てた」
誰も反論しない。
事実だった。
城門を閉め、六千の命を見捨てた。
魔王はお前たちの敵ではない。
王都の門を開ければ、自分たちは不可触民を害さない。
人間が憎いだろう。
復讐したいだろう。
住民の中には頷く者もいた。
当然だった。
暴動で息子を失った母親が、小さく、したいと答えた。
魔族の女が笑った。
その時、人垣がゆっくり割れた。
ノアが歩いてくる。
一晩戦い続け、傷だらけだった。
魔族の女は勇者と呼んだ。
ノアはその呼び方が嫌いだと返した。
神がお前を選んだ。
人間を救う義理はない。
「ない」
ノアは即答した。
後ろの住民たちがざわつく。
魔族の女は続けた。
人間はお前たちを人間と認めなかった。
「そうだな」
「ならば我らと――」
ノアは聖剣を抜いた。
女の笑みが消えた。
「でも、お前らに渡す理由もない」
魔族の女が眉を寄せる。
ノアは、自分たちが人間を憎んでいるからといって、勝手に魔族の味方になると決めつけるなと言った。
人間を憎んでいるのは事実だ。
今でも。
昨日、王都が燃えているのを見て、ざまあみろと思ったことも認めた。
黒街の何人かが顔を上げる。
「でも、それでお前らに食われればいいとは思わなかった」
魔族の女は、それを甘いと笑った。
人間はまたお前たちを裏切る。
ノアは少しだけ口元を緩めた。
「その時は、人間と喧嘩する」
魔族の女が黙る。
「お前らに頼まなくてもできる」
背後からミナの声が飛んだ。
よく言ったと。
ノアが振り返り、避難しろと言っただろうと怒る。
聞こえないとミナが返す。
聞こえているだろうとノアが言い返し、黒街に僅かな笑いが起きた。
魔族の女の顔が歪む。
愚か者。
なら滅びろ。
魔物が動いた。
戦いが始まった。
西門。
北門。
東門。
同時。
ノアは前へ出た。
聖剣の光は昨日より強かった。
頭の奥に、再びあの声が響く。
《汝が守るものを定めよ》
今なら分かる。
黒街だけではない。
王都だけでもない。
そこにいる人間。
好きか嫌いかではない。
許したかどうかでもない。
守ると自分で決めたかどうか。
それだけだった。
北門。
魔王ヴァルグレスが城壁を破壊した。
王国兵が吹き飛ぶ。
国王が指揮を執る。
アルディスが駆けつける。
父王が来るなと言っただろうと怒ると、アルディスは聞いていないと返した。
言っていないからなと王が答え、息子はなら問題ありませんと言って剣を構えた。
魔王がアルディスを見る。
偽勇者。
そう呼んだ。
アルディスは踏み込んだ。
「何度言わせる。私は勇者ではない」
剣が魔王へ届く。
しかし弾かれる。
身体ごと壁へ叩きつけられる。
王が息子の名を叫ぶ。
魔王の剣が振り上げられる。
その腕を金色の光が断ち切った。
切断面は再生しない。
ノアがそこにいた。
息を切らしている。
「間に合った?」
壁にもたれながら、アルディスは、あと少し遅ければ弟たちの王位継承順位が上がっていたと冗談を言った。
弟が二人いると聞いたノアは、それなら大丈夫だと答えた。
アルディスは、ひどいなと笑った。
二人は並んで立った。
魔王ヴァルグレスがノアを見る。
「ようやく来たか、本物」
ノアはその呼び方も嫌いだと返した。
神の剣。
それも気に入らない。
ノアでいい。
魔王は笑った。
「人間を許したか」
ノアの表情が消えた。
「許してない」
「ならば、なぜ戦う」
また同じ問いだった。
何度も聞かれた。
ノアは王都を見た。
炎。
黒街。
市場。
「俺を鞭で打った奴もいる」
聖剣を構える。
「黒街を捨てた奴も」
魔王は、ならば見捨てればよいと言う。
ノアは首を横へ振った。
「だから死んでいいって決めるのは、お前じゃない」
魔王の目が細くなる。
では、お前が決めるのか。
「俺でもない」
「勇者とは世界を救う者だ」
「知らない」
「神に選ばれた」
「それも知らない」
「では何のために剣を振るう」
ノアは少しだけ考えた。
ミナ。
バルト。
ダン。
アルディス。
王。
市場の母子。
倒れていた衛兵。
知らない人間たち。
「俺が助けたいと思ったから」
それだけだった。
魔王は笑った。
あまりに矮小だと。
ノアも少し笑った。
「世界とか人類とか、大きすぎるんだよ。俺、そんなに頭よくないから」
一歩踏み出す。
「目の前だけでいい」
戦いが始まった。
ノア一人では勝てなかった。
魔王の力は圧倒的だった。
アルディスが兵士を動かす。
国王が騎士をまとめる。
黒街の住民が負傷者を運ぶ。
これまで不可触民に触れられることを嫌がっていた市民が、その肩を借りる。
一人の若い貴族が足を負傷し、バルトに担がれていた。
少年は青い顔で謝った。
バルトは、謝るなら後にしろ、今は歩けとだけ言った。
大聖堂では、セラフォンが結界を維持していた。
若い司祭エリアスが、もう魔力が限界だと止める。
セラフォンはあと少しだと答える。
死ぬと責められ、老人は歳だからいつ死んでもおかしくないと冗談を言った。
エリアスが本気で怒ると、セラフォンは少し笑った。
「では、生き残ったら裁判所まで付き添ってくれ」
「自分で歩いてください」
そのやり取りの後、老人は再び結界へ魔力を流した。
王都上空に広がる魔王の闇が僅かに薄くなる。
最後。
ヴァルグレスが巨大な魔力を集め始めた。
王都全体を覆うほどの闇。
ノアは肌で危険を感じた。
「まずい」
アルディスが、止められるかと聞く。
「分からない」
「勇者だろ」
「偽物に言われたくない」
「今だけ頑張れ」
「雑だな」
アルディスが先へ出た。
王国兵に命じ、魔王の注意を引きつける。
魔術。
矢。
槍。
アルディス自身が魔王の胸へ剣を突き刺した。
魔王が笑う。
無駄だ。
アルディスも知っている。
剣は折れた。
だが一瞬。
魔王の姿勢が崩れる。
「ノア!」
「分かってる!」
聖剣を両手で握る。
金色の光。
魔王がノアを見る。
「勇者は世界を救う者だ」
ノアは走った。
「知らないって言ってるだろ」
「神に従え」
「それも嫌だ」
「では、何のために戦う」
ノアは踏み込む。
「俺が」
剣を振り上げる。
「助けたい奴を助けるためだ」
振り下ろす。
金色の光が王都を包んだ。
一瞬。
すべての音が消えたように感じられた。
魔王ヴァルグレスの身体に一筋の光が走る。
巨大な身体がゆっくり崩れ、黒い塵となって消えていく。
魔王は滅びた。
誰もすぐには歓声を上げなかった。
皆、疲れ果てていた。
やがて一人の兵士が地面へ座り込み、泣き始める。
別の者が笑った。
その声が少しずつ広がっていく。
ノア。
アルディス。
王。
いろいろな名前が呼ばれた。
ノアは地面へ仰向けに倒れた。
アルディスが隣へ座る。
「英雄だぞ」
「お前にやる」
「私は一度やったから、もういい」
「俺も一回でいい」
二人はそれ以上話さず、長い間、明るくなり始めた空を見ていた。
戦争が終わっても、世界は翌朝から正しくはならなかった。
不可触民という法的身分は廃止された。
黒布。
鐘。
通行制限。
井戸制限。
証言制限。
強制労働。
すべて違法となった。
だが法律が変わっても、人の考えは一日では変わらない。
中央井戸では、不可触民だった女が桶を持って並ぶと、市民から別の井戸へ行けと言われた。
衛兵が来て、今は同じ権利を持つと説明し、口論になった。
学校に黒街の子供が入学すると、病気が移る、穢れがあると反対する親が現れた。
教師も戸惑った。
国王は入学を認めるよう命じた。
地方では王命を拒む貴族がいる。
三公爵は反乱を起こした。
農奴制度はまだ残っている。
王議会では改革派、保守派、急進派が毎日のように怒鳴り合い、誰も完全な答えを持っていなかった。
大神官セラフォンは辞任し、裁判を受けることになった。
その前日。
彼は黒街のノアを訪ねた。
ノアは以前と同じように死体処理場で働いていた。
ただし、鐘はない。
賃金が支払われる。
嫌なら辞めることもできる。
セラフォンは謝罪に来たと言った。
ノアは聞かないと返した。
老人は少し笑い、なら謝らないと言った。
「変な爺さんですね」
「許されると思っていない」
ノアは濡れた布を絞った。
「俺、あんた嫌いです」
「知っている」
「今でも」
「それでよい」
ノアはしばらく老人を見た。
「でも、魔王の時の結界は助かりました。それは礼を言います」
セラフォンは仕事をしただけだと答えた。
「それとこれは別です」
その言葉を聞き、老人は僅かに笑った。
「お前は、私より賢いのかもしれんな」
「字、あんまり読めないですけど」
「それは関係ない」
セラフォンは空を見上げた。
自分は今でも、あの日に神託を即時公表していれば内乱が起きた可能性は高かったと思っている。
ノアの顔が硬くなる。
正しかったと言いたいのか。
セラフォンは首を横へ振った。
「分からない」
ノアは逃げないでほしいと言った。
老人は、逃げてはいないと答えた。
「必要だったと思う部分は、今もある。しかし」
少し時間を置く。
「私一人が『必要だ』と決めてよいと思った。それが間違いだった」
ノアは黙って聞いている。
「何十万人を守るためなら、一人を犠牲にしてよい。そう考えた私は、その一人の顔を見ていなかった」
「俺?」
「そうだ」
ノアは、それなら別に構わないような顔をした。
セラフォンは首を振った。
「お前が別に構わないと思っていても、私は覚えておく」
老人が帰ろうとした時、ノアが尋ねた。
「何年くらい牢に入るんです」
「知らぬ」
「死刑?」
「可能性はある」
ノアはしばらく黙った。
セラフォンが冗談めかして、助けてくれるかと聞いた。
ノアは少し考えた。
「死刑は反対って言います」
老人が振り返る。
「許してないけど」
ノアは濡れた布を絞りながら続けた。
「死んでほしいとも思わない」
セラフォンは目を閉じた。
「それで十分だ」
そう言って去った。
国王エドガルは生き残った。
不可触民廃止令を撤回しなかった。
代わりに三公爵が反乱を起こし、王国はこれから長い改革と内乱の可能性を抱えることになった。
アルディスは勇者ではなくなった。
正確には、最初から勇者ではなかった。
それでも街では英雄と呼ばれた。
本人は嫌がった。
ある日。
ノアとアルディスは市場を歩いていた。
アルディスが、今でも皆がお前を勇者と呼んでいると言う。
ノアは嫌なのだと答え、勇者の称号を返してやろうかと提案すると、アルディスも即座に断った。
二人はパン屋へ入った。
以前ならノアは正面から入ることを許されなかった店だった。
店主は少し緊張している。
それでも普通にパンを渡した。
ノアは金を払って受け取る。
何も起きない。
アルディスが、何を見ているのかと尋ねた。
ノアはパンを見下ろした。
「市場で買うの、初めてなんだ」
「パンを?」
「市場で」
アルディスは何も言えなくなった。
ノアは一口齧る。
「硬い」
店主が聞いていた。
「焼きたてだよ」
「黒街のパン屋の方がうまい」
「ならそっちで買え」
アルディスが笑った。
ノアが何だと聞く。
「普通の客みたいだと思って」
ノアと店主が互いを見る。
店主が、金を払っているのだから客だろうと言った。
ノアは少し笑った。
「そうだな」
数か月後。
黒街という呼び名は残った。
住人たち自身がそう呼ぶからだった。
ノアは今も死体を運んでいる。
鐘はない。
黒布もない。
中央通りを使うこともできる。
それでも長年の癖で、無意識に道の端を歩いてしまう。
ある日、途中でそれに気づいた。
ノアは足を止めた。
少しだけ道の中央へ寄る。
胸がざわつく。
誰かに怒鳴られる気がする。
何も起きない。
子供が走っていく。
犬が吠える。
商人の荷車が通る。
ただ、それだけだった。
夕方。
ミナが本を抱えて走ってくる。
紙を見せられた。
少し歪んだ文字。
《ミナ》
ノアは下手だと笑った。
ミナは最初なのだから仕方ないと怒った。
それでも、ノアよりは上手だった。
夜学校もあるのだからノアも行けばいいと勧められたが、仕事があると逃げる。
そこへ王宮から使者が来た。
王議会の時間だという。
ノアは露骨に嫌な顔をした。
不可触民だった者たちの代表。
一議席。
最初は断った。
国王が言った。
監視しろ。
ミナも言った。
ノアが行かなければ、また勝手に決められるかもしれない。
その言葉には勝てなかった。
「行きたくない」
ノアが言うと、ミナは学校をなくされたら困るから行けと命じた。
「偉そうになったな」
ミナは少し考えてから答えた。
「人間だから」
ノアの動きが止まった。
ミナも、一瞬だけ気まずそうな顔をした。
短い沈黙の後。
ノアは笑った。
「そうだな」
王宮。
正門。
昔、不可触民は通れなかった。
使用人通路。
荷物入口。
地下。
それしか許されなかった。
ノアは正門前で一度足を止めた。
衛兵が二人。
身体が昔のように反応する。
端へ寄る。
膝をつく。
鐘を。
だが、鐘はない。
衛兵がノアを見る。
一人が少し緊張している。
これまで不可触民を止める役目だったからだろう。
ノアも無意識に身構えた。
衛兵は何も言わなかった。
ただ横へ一歩退いた。
もう一人も同じように道を開けた。
「どうぞ」
それだけだった。
跪かない。
歓声もない。
勇者様とも呼ばない。
ノアには、それがよかった。
門をくぐる。
途中で一度だけ振り返る。
王都。
嫌いな街。
鞭打たれた街。
黒街を捨てた街。
炎に包まれた街。
自分が守った街。
許していない人間がいる。
一生許せないこともある。
これからも揉める。
差別は残る。
嘘をつく者もいる。
昔へ戻したい貴族もいる。
王もまた間違えるだろう。
ノア自身も。
それでも。
死んでしまえとは思えなかった。
なら、生きたまま変えるしかない。
王宮の奥。
議会から、すでに怒鳴り声が聞こえる。
ノアは小さく息を吐いた。
「……帰りたいな」
それでも歩いた。
魔王と戦った時より、少し重い足取りで。
勇者としてではない。
神の剣としてでもない。
不可触民だった、一人の人間として。
ノアは議会の扉を開いた。




