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第六章 秩序が守ったもの

秘密は十日も持たなかった。


最初は儀式の日に大聖堂へいた貴族の使用人、それから下級神官、さらに衛兵へと話が伝わり、噂は少しずつ形を変えながら王都へ広がっていった。


第一の選定で別の勇者が選ばれたらしい。


平民だった。


いや、奴隷だった。


不可触民だった。


聖剣が自ら飛んでいった。


大神官が神託を握り潰した。


教会も王宮も否定した。


しかし否定すればするほど、人々はそれを事実だと思うようになった。


やがて名前まで出た。


《ノア》


黒街の住人たちは以前から知っていたが、王都の人間たちへ伝わるまで時間がかかっただけだった。


ある朝。


ノアは死体を運ぶ途中で、いつもとは違う視線に気づいた。


これまでは彼が近づけば露骨に顔を背けていた商人が、店先からこちらを見ている。


呼び止められ、勇者なのかと小声で尋ねられた。


ノアは答えずに歩いた。


その日は三人。


翌日は五人。


三日後には黒街の入口へ見物人が集まった。


剣を見せろ。


本当に光るのか。


神託は本当なのか。


以前なら不可触民を近くで見ることさえ嫌がった人々が、今度は珍しい獣を見るように集まってくる。


ノアは外へ出なくなった。


ミナは腹を立てていた。


以前は近寄るなと言っていたくせに勝手だという。


小石くらい投げてもいいかと聞くので、ノアが大きさの問題ではないと止めると、ミナは不満そうに口を尖らせた。


その二日後。


南市場で事件が起きた。


ノアが駆けつけた時には、すでに人だかりができていた。


中央に立っていたのはダンだった。


二十一歳。


黒街で皮革処理をしている男。


短気だが、悪い人間ではない。


首に下げるべき鐘を外していた。


衛兵が規則に従って鐘を付けるよう命じる。


ダンは拒んだ。


「勇者が不可触民なんだろ」


その一言で周囲がざわついた。


「神が俺たちから勇者を選べるなら、何で俺たちが穢れてるんだ」


衛兵の顔が強張った。


流言を広めるなと言われても、ダンは引かなかった。


拘束しようと腕を掴まれ、振り払う。


誰かがやめろと叫んだ。


次の瞬間、一つの石が飛んだ。


衛兵の額に当たり、血が流れる。


別の衛兵が剣を抜く。


そこから先、何が最初に起きたのか、後になっても誰にも分からなかった。


押し合いが始まり、棒が振るわれ、剣が抜かれ、誰かが倒れた。


人混みの後ろから、身分をなくせという声が上がる。


教会は嘘つきだ。


貴族を殺せ。


その頃には誰が叫んでいるのか分からなかった。


不可触民。


貧民。


日雇い。


ただ騒ぎへ便乗した盗賊。


店の窓が割られ、酒樽が運び出され、一本の松明が布屋の庇へ燃え移った。


ノアは人を掻き分けながらダンを探した。


見つけた時、彼は地面に倒れていた。


胸に槍が刺さっている。


ノアは膝をつき、名を呼んだ。


返事はなかった。


目は開いている。


すでに死んでいた。


その時、燃える店の前から女の叫び声が聞こえた。


娘が二階に残っている。


ノアは一度だけダンの遺体を見てから立ち上がった。


店へ飛び込む。


煙。


熱。


炎。


二階の奥に小さな少女が倒れていた。


抱き上げて戻ろうとした時には、階段へ火が回っていた。


窓から下を見る。


迷う時間はない。


ノアは少女を抱えたまま飛び降りた。


足へ強い衝撃が走ったものの、身体は壊れなかった。


聖剣を持っていなくても、勇者として与えられた何かが身体を支えているのだろう。


娘を母親へ渡す。


女は泣きながら礼を言った。


しかし途中で言葉が止まった。


ノアの首に巻かれた黒布へ気づいたからだった。


ほんの一瞬。


女は娘をノアから遠ざけるように抱き寄せた。


ノアは見た。


女も、自分が何をしたのか気づいた。


「あ……」


何かを言おうとした。


ノアは背を向けた。


ダンのところへ戻り、その身体を担ぐ。


後ろから女が呼んだが、聞こえないふりをした。


暴動は夕刻まで続いた。


王国兵が投入され、ようやく鎮圧された。


死者は不可触民三人、市民五人、衛兵二人。


市民の死者のうち三人は、暴動とは何の関係もなかった。


その夜。


黒街の死体処理場で、ノアはダンの身体を洗っていた。


隣ではバルトが別の遺体を清めている。


周囲では、衛兵が殺した、教会が殺したという怒りの声が上がっていた。


明日、街へ行って仇を取ろうと言う男もいた。


ノアは手を止めた。


「行って、誰を殺すんだ」


ダンを刺した衛兵。


それなら分かる。


ではその衛兵の家族は。


市場にいただけのパン屋は。


周囲にいた市民は。


男は答えられなかった。


ノアは隣の台を指した。


白髪の男。


暴徒に倒され、そのまま踏まれて死んだらしい。


「この人、パン屋だって」


男は黙った。


「この人も、ダンを殺す側だったのか?」


返事はなかった。


ノアはダンの目を閉じた。


ダンの言ったことは正しかった。


神が不可触民を勇者に選んだなら、穢れとは何なのか。


だが、その正しい言葉の先に死体が並んだ。


教会が真実を隠した理由を、ノアは嫌でも想像した。


真実を公表すれば混乱する。


腹が立った。


だからといって、教会が正しかったとも思いたくない。


「ノア」


入口にミナがいた。


今日は入るなと言うと、少女は立ち止まった。


少し強い言い方になってしまったため、ノアはすぐに謝った。


ミナはしばらく黙っていたが、やがて真実はいいことではないのかと尋ねた。


ノアはダンの髪を整えながら、知らないと答えた。


正しいことを言えば皆がよくなるのではないか。


そう聞かれ、ノアは目の前の遺体を見た。


「ならなかったな」


「じゃあ、言わない方がよかった?」


ノアはまた手を止めた。


「それも分からない」


ミナは、最近そればかりだと寂しそうに言った。


ノアは、分からないものは分からないのだと返すしかなかった。


少女が帰った後、バルトが静かに言った。


「難しいだろ、人間は」


ノアは何も答えなかった。


数日後。


勇者アルディスの遠征軍が北へ出発した。


三千の兵。


騎士。


神官。


魔術師。


民衆は歓声で送り出す。


ノアは黒街の外から、遠くに翻る旗を見ていた。


偽物の勇者。


そう思った。


しかし同時に、地下牢で自分へ頭を下げた青年の顔も思い出した。


悪人には見えなかった。


そのことが、かえって面倒だった。


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