第五章 勇者の義務
国王エドガルは、ノアが思い描いていたよりも年老いて見えた。
五十代半ば。
広場や役所へ掲げられた肖像では堂々とした英雄王のように描かれているが、目の前の男には深い皺があり、目の下には疲労の色が残っている。王冠がなければ、どこかの厳しい商人にも見えたかもしれない。
謁見室には王、大神官セラフォン、宰相、護衛騎士、そしてノアだけがいた。
王は、跪かなくてよいと最初に告げた。
聖剣がどのような反応をするか分からないためでもあるのだろうが、ノアは最初から跪くつもりはなかった。
「望むものを言え」
国王が切り出した。
ノアは少し考えた末、帰りたいと答えた。
王は、それ以外に望むものを言うよう促した。
宰相が書類を開き、王都市民権、騎士爵位、王都北西の土地、年金を与えると説明する。
しかしノアが最初に尋ねたのは、自分だけなのかということだった。
褒賞はノア個人に対するものだと宰相は答えた。
黒街の者たちはどうなるのか。
今はお前の話をしている。
なら要らない。
あまりに簡単に拒まれ、宰相は困惑した。
騎士爵という身分がどれほど大きな意味を持つか、ノアが分かっていないのではないかと説明しようとしたが、ノアは先に尋ねた。
その爵位があればミナを学校へ通わせられるのか。
養女にすれば可能だという。
ではバルトは街の井戸を使えるのか。
宰相は言葉に詰まった。
「じゃあ要らない」
ノアは静かに言った。
国王はしばらく彼を見た後、欲がないのかと尋ねた。
「欲しいものはあります」
「言え」
ノアは本気で考えた。
「黒街の井戸を、もう一つ掘ってください。今のは浅くて、夏になると濁る」
国王が僅かに瞬きをする。
「それから薬。冬になると、熱病で毎年何人も死ぬから」
王は長くノアを見た。
やがて、それらは用意すると答えた。
ノアは、それなら帰ってよいかと尋ねた。
まだ話は終わっていなかった。
大神官セラフォンが前へ出る。
勇者として魔王討伐へ協力してほしい。
ノアは老人を見る。
「俺、勇者じゃないって発表されたんじゃなかったですか」
公式にはそうだとセラフォンは答えた。
ノアは、小さく笑った。
「便利ですね」
王の眉が動いた。
言葉を慎めと告げられ、ノアの身体は一瞬だけ硬くなった。
幼いころから染みついた恐怖だった。
王に逆らえばどうなるか。
貴族に逆らえばどうなるか。
衛兵に逆らえばどうなるか。
痛みを受ける。
仕事を奪われる。
家族まで罰される。
それでも、今回は妙な余裕があった。
「俺を殺します?」
王が黙った。
「殺せないですよね」
大神官がノアの名を呼ぶ。
「勇者だから?」
「そうだ」
セラフォンは否定しなかった。
ノアは自分の胸元へ手を触れた。
「勇者になった途端、俺の話を聞くんですね」
これまで黒街が井戸を掘ってほしいと訴えても、誰も聞かなかった。
薬を回してほしいと頼んでも、余りがあればと言われた。
それなのに聖剣が一人の不可触民を選んだ瞬間、王と直接話せるようになった。
「俺、なんでそんな人たち助けなきゃいけないんですか」
初めて、ノアの声に怒りが滲んだ。
セラフォンは世界が滅びるからだと答えた。
ノアは窓の外へ目を向けた。
王都の屋根。
そのさらに向こうには黒街がある。
「俺の世界なら、昔からこんなものですよ」
部屋が静かになった。
国王エドガルは椅子へ深く座り直し、お前はこの国が滅びてもよいのかと尋ねた。
ノアは本気で考えた。
黒街の人間が逃げられるなら、自分は困らないと思う。
そう答えた。
王の表情に怒りが浮かんだ。
それでも声は荒げなかった。
「この国には、お前を虐げた者だけが暮らしているわけではない」
ノアは僅かに目を動かした。
「お前を知らぬ子供もいる。病人も、老人もいる。お前に何もしていない者もいる」
地下牢でアルディスが口にしたのと似た言葉だった。
ノアは、その言葉が嫌だった。
反論しづらいからだった。
知らない人間を助けるのが勇者なのかとセラフォンへ尋ねると、老人はそうだと答えた。
ノアはしばらく聖剣を見つめた。
「なら、俺には無理です」
なぜかと聞かれ、ノアは静かに言った。
「俺は、知らない奴が死んでも平気な人間だから」
その時は、本当にそう思っていた。
黒街へ戻ると、ミナが走ってきた。
途中で急に足を止めたので、ノアがどうしたのかと聞くと、王宮で与えられた新しい服を汚して怒られないか心配になったのだという。
ノアは少し笑った。
「もう牢で汚れてる」
それを聞いて、ミナはようやく抱きついた。
夜。
黒街の焚き火。
何人かの大人が集まっていた。
バルトが酒を飲みながら、勇者様と呼んだ。
ノアが違うと返すと、なら隣の聖剣は何だと聞かれた。
拾ったと答えると、小さな笑いが起こった。
やがてバルトは笑いを収め、王宮で何を言われたのか尋ねた。
魔王を倒してほしいと言われたこと。
断ったこと。
王都が滅びるかもしれないこと。
黒街へ魔王軍が来れば戦うつもりであること。
そこまで話すと、ミナが隣から尋ねた。
「王都は助けないの?」
ノアは焚き火へ薪を一本入れた。
「知らない」
「子供もいるよ」
手が止まった。
王。
アルディス。
そしてミナ。
同じことを言われるのは三度目だった。
ノアが、子供が好きなのかと逆に尋ねると、ミナはそういうことではないと首を振った。
それから少し考え、子供はノアを鞭で打っていないでしょうと言った。
「赤ちゃんも」
ノアは答えられなかった。
都合が悪くなったので寝ろと言ったのだとミナに見抜かれ、少女は笑いながら家へ戻っていった。
バルトが、言い返せなかったなと小さく笑った。
ノアは老人にも寝るよう言った。
焚き火を見つめながら、結局その夜も答えは出なかった。




