第三章 正しい嘘
その夜、王宮では八人だけの会議が開かれていた。
国王エドガル。
宰相。
大神官セラフォン。
騎士団長。
王国でもっとも強い影響力を持つ三公爵。
そして第二王子アルディス。
長い卓の中央には、大聖堂で起きた現象の記録と、聖剣に現れた文字の写しが置かれている。
《勇者ノア》
誰も好んでそこを見ようとはしなかった。
最初に口を開いたのはアルディスだった。
神託は明白だったと彼は言った。
選定石だけなら不具合を疑う余地があるかもしれない。だが百年前から誰にも従わなかった聖剣が自らノアの手へ渡り、神託は大聖堂にいた全員が聞いた。
三公爵の一人が、魔王の術による可能性を捨てるべきではないと返した。
アルディスは感情を抑えながら、百年前の勇者が残した聖剣を魔王が操れるのかと問い返した。
それを調べるのだと公爵は言ったが、どこまで調べれば納得するのかとアルディスは重ねた。
国王が低い声で息子の名を呼び、座るよう命じた。
アルディスは従ったが、机の下では拳を固く握っていた。
しばらくして、大神官セラフォンが口を開いた。
「殿下のおっしゃる通りです。私は、あの少年が真の勇者である可能性は極めて高いと考えております」
全員が彼を見た。
アルディスは即座に、ならば認めればよいと返そうとした。
しかしセラフォンは首を振った。
「問題は、彼が勇者であるかどうかではございません。我々が彼を勇者として認めた時、この国に何が起きるかです」
一人の公爵が、認められるはずがないと吐き捨てた。
不可触民である。
それだけで十分な理由だと。
アルディスは、それは理由にならないと反論した。
公爵は机を叩き、神は人間に身分を与えたと教会自身が説いてきたのだと声を荒げた。その最下層、死と穢れを負う者が神に選ばれた勇者だと認めれば、聖典と身分制度そのものが矛盾する。
「その通りです」
セラフォンはあっさり認めた。
アルディスが老人を見る。
セラフォンは王国全土の地図を広げ、その上へ人口、税収、穀物、軍役に関する資料を一枚ずつ置いていった。
王国の人口は約五百四十万。
そのうち農奴が百九十万。
賤民、不可触民を含む法的制限身分は四十万を超える。
明朝、神は不可触民を勇者に選んだと教会が公表した場合、農奴たちは必ず問うだろう。神が不可触民を穢れた存在と定めたという教義が誤りなら、自分たちが土地に縛られているのも本当に神意なのかと。
公爵たちの表情が変わった。
セラフォンは続けた。
不可触民は王都の埋葬業務の八割、下水維持の七割、製革の六割、魔物死骸処理の九割、感染者隔離施設のほぼすべてを担っている。
アルディスが、それは搾取ではないかと言った。
セラフォンは否定しなかった。
「その通りです」
あまりにあっさり認められ、アルディスは言葉を止めた。
不正であるなら改めるべきだと彼は言ったが、セラフォンは静かに、明日からかと問い返した。
明日から不可触民を自由民にする。
現在の仕事を拒む権利も当然認める。
では明後日から王都の死体は誰が運び、下水は誰が整備し、疫病患者は誰が世話をするのか。
アルディスが、人を雇えばいいと返すと、宰相が現在の財政では新たな税が必要になると説明した。
制度を変えるなら、税制、労働契約、土地所有、自治権、司法制度、そのすべてを作り直さなければならない。
セラフォンは一度も、それをするなとは言わなかった。
ただし、魔王はその時間を与えてくれない。
その言葉に、部屋が静かになった。
北方の封印塔はすでに崩れ始めている。
魔王復活まで半年。
早ければ一、二か月。
騎士団長が、軍だけで魔王を止められるのかと問いかけた。
誰も答えなかった。
百年前の記録には、勇者がいなければ王国は滅びていたとある。
国王エドガルは長く指を組んだまま考えた後、大神官へ結論を求めた。
セラフォンは、神託を伏せるべきだと答えた。
アルディスが立ち上がった。
神を欺くのかと問う。
セラフォンは、民を守るためだと返す。
一人の少年を踏みにじってまでかとアルディスが言うと、老人は一度だけ目を伏せ、それから低い声で話した。
「あの少年から真実を奪い、名を奪い、本来得られるはずの権利を奪う。それが善い行いだとは申しません。罪です。しかし真実を公表した結果、内乱が起き、魔王軍を目前に国が割れれば、死ぬのは一人では済みません」
アルディスは、そのような未来になるとは限らないと反論した。
セラフォンは、ならないとも限らないと返した。
可能性だけで一人を犠牲にするのかと問われた時、老人はしばらく黙り込んだ。
やがて、三十五年前のマルシェ領について語り始めた。
当時の領主は善人だった。
農奴制度は不正であると考え、一夜で廃止した。
だが土地所有を整理しなかったため、農民は地代を拒み、地主は種麦を出さず、商人は治安悪化を恐れて街道を避けた。
翌年、五千八百四十七人が死んだ。
その頃、若い神官だったセラフォンは、百人を超える子供の遺体を自ら埋葬した。
「制度が不正だから壊す。それ自体は正しい。しかし壊した先に何が起きるかまで考えなければ、正義は死体を生むことがあります」
アルディスは、だから嘘をつくのかと尋ねた。
セラフォンは、そうだと答えた。
「では、いつまでです」
アルディスは続けた。
魔王を倒すまでなのか。
混乱が収まるまでなのか。
それは十年か、二十年か、百年か。
セラフォンは答えられなかった。
その沈黙が、何より明確だった。
「それでは今までと同じではありませんか」
アルディスが言った。
その時だけ、大神官の表情が僅かに崩れた。
それでも彼は、今は国を生かすのだと答えた。
国王は長く黙った末、代わりの勇者をどうするのかと問いかけた。
視線が一人へ集まった。
アルディス。
彼の顔から血の気が引いた。
「お前を勇者として立てる」
王は言った。
アルディスは、自分は選ばれていないと答えた。
父は分かっていると言った。
なら拒否するとアルディスは続けた。
だが国王は、国王として命じると告げた。
「国のためだ」
その言葉ほど、アルディスを苦しめるものはなかった。
翌朝。
王都全域へ布告が出された。
勇者選定の儀において魔王による干渉が発生した。
選定は無効。
浄化の後、再選定を行う。
ノアの名は一切出なかった。
地下牢でその話を聞いたノアは、しばらく黙っていた。
やがて膝の上の聖剣へ目を落とし、小さく笑った。
「神様って、思ったより偉くないんだな」
牢番が不敬だと顔をしかめた。
ノアは剣身を指した。
神が自分を勇者だと言った。
それなのに教会は違うと言った。
「じゃあ、この国で一番偉いのって誰なんだろうな」
牢番は答えなかった。
ノアも答えを求めてはいなかった。




