第二章 神が選んだ者
王都大聖堂へ入るために、ノアは正面階段を使うことを許されなかった。
勇者候補であっても不可触民であることに変わりはなく、裏手の使用人用通路を通され、炊事場の横を抜けた後、地下の待機室へ案内された。
そこで白い衣服を渡され、首に巻いた黒布を儀式中だけ外すよう命じられた。
不可触民であることを示す布に手を触れながら、本当に外してよいのかと尋ねると、終われば元へ戻すのだと素っ気なく告げられた。
布を外した瞬間、首が妙に軽く感じられた。
ほどなくして大聖堂へ通される。
ノアは足を止めそうになった。
これほど大きな建物へ入った経験はない。高い天井には聖人や歴代勇者の姿が描かれ、色硝子を通した朝の光が磨き上げられた床へ落ちている。祭壇の奥には百年前の勇者が使ったとされる聖剣が、長い眠りについているように安置されていた。
しかし何より目を奪われたのは、その場に集まった人々だった。
国王。
王妃。
王子。
公爵。
伯爵。
高位聖職者。
王国でもっとも身分の高い者たちが、一つの空間に揃っている。
ノアは不思議な気持ちになった。
国王の頭にも角はなく、公爵も人と同じように瞬きをする。当たり前のことではあったが、あまりにも遠い存在であるため、どこか自分とは別の生き物のように考えていたのかもしれない。
第二王子アルディスが席にいた。
ノアとそう年は違わない。
金色の髪を整え、王族用の制服を着ている。背筋の伸ばし方から手の置き方まで、何もかもノアとは違っていた。
一瞬、目が合った。
アルディスはほんの僅かに会釈した。
ノアは反応できなかった。
王子が不可触民へ挨拶するなど、想像したこともなかったからだった。
やがて下級神官が最後列を示した。
そこだけ前の列との間が大きく空けられている。
ノアは一人で立った。
周囲から視線を感じる。
何人かの若者は、露骨に鼻へ手を当てていた。
昨日身体を洗ったのにと、ノアは何となく理不尽な気持ちになった。
儀式が始まった。
大神官セラフォンが祭壇へ立つ。
白髪の老人だった。
六十を超えているはずだが背筋は真っ直ぐで、低く静かな声は大聖堂の隅までよく届いた。
祈祷が終わると、十八歳の者たちが一人ずつ《選定石》と呼ばれる乳白色の石へ手を置いていく。
最初は王族。
何も起こらない。
次は大貴族。
やはり何も起こらない。
それでも参列者は落ち着いていた。
誰が勇者になるのか、皆おおよそ分かっているようだった。
第二王子アルディスの番になった。
彼が立ち上がった瞬間、周囲の空気が僅かに変わった。
剣術に秀で、魔術にも高い適性を持ち、王都の慈善院へ寄付を続けている王子であり、ノアですらその名前くらいは知っていた。
勇者になるなら、この人なのだろう。
そんな空気だった。
アルディスが石へ右手を置く。
一瞬、白い光が走った。
大聖堂に息を呑む音が広がる。
しかし、それだけだった。
光はすぐに消えた。
大神官セラフォンが僅かに目を細め、アルディス自身も石を見つめていたが、やがて静かに列へ戻った。
儀式はその後も続き、とうとうノア一人が残った。
下級神官に促され、祭壇へ向かって歩く。
磨き上げられた床に、自分の靴底の汚れが薄く残る。
普段なら、それだけで鞭打たれる場所だった。
選定石へ近づき、右手を置く。
冷たい。
数秒。
何も起こらない。
やはりそうだと思った直後、大聖堂のすべての聖火が一斉に消えた。
薄暗闇の中に小さな悲鳴が上がり、その直後、祭壇奥から澄んだ金属音が響いた。
百年前の聖剣が、誰も触れていないにもかかわらず僅かに震えていた。
固定していた金具が外れる。
剣は鞘ごと宙へ浮かび、迷うことなくノアの方へ飛んできた。
避ける暇もなく、ノアは反射的に手を出した。
柄が掌へ収まった瞬間、金色の光が大聖堂を満たした。
目を開けていられないほどの光だった。
その中で、声が聞こえた。
耳からではない。
頭の中でもない。
それでも、その場にいた誰もが確かに聞いた。
《汝を我が剣と定める》
光がゆっくりと消えていく。
ノアは目を開いた。
手の中には聖剣がある。
鞘から僅かに覗いた剣身に文字が浮かんでいた。
《勇者ノア》
「……俺?」
思わず口から漏れた。
誰も答えなかった。
王族も貴族も神官も、全員がノアを見ていた。
そこに喜びはない。
驚きだけでもない。
もっと別のものがあった。
ノアには、それが恐怖のように見えた。
一人の若い神官が、反射的に膝をついた。
勇者への礼。
その隣にいた上級神官が慌てて肩を掴み、立てと命じる。若い神官は困惑し、神託があったと口にしたが、それ以上を言わせてもらえなかった。
ノアは動けずにいた。
アルディスだけが、真正面からこちらを見ていた。
驚いてはいる。
しかし、嫌悪はなかった。
大神官セラフォンが祭壇を降り、ゆっくり近づいてくる。
ノアは何と言えばいいのか分からず、聖剣を少し持ち上げた。
「これ、どうすればいいですか」
喉が妙に乾いていた。
セラフォンはすぐには答えなかった。
聖剣を見て、ノアを見て、再び剣へ視線を戻した。
老いた瞳の奥で、何かが急速に組み立てられている。
やがてセラフォンは目を閉じた。
「大聖堂を閉鎖せよ」
ノアは瞬きをした。
扉が閉じられ、外にいた一般参列者が退去させられる。
大神官は続けて、本日の選定を中止すると告げた。
ノアは意味が分からず聞き返した。
セラフォンは儀式に異常が生じた可能性があり、魔王の干渉を疑う必要があると説明した。
ノアは手の中の聖剣へ視線を落とした。
名前はまだ消えていない。
「俺の名前、書いてありますけど」
セラフォンの口元が僅かに動いた。
聖具が汚染された恐れがあるのだと、同じ説明が繰り返される。
では、さきほど聞こえた声も魔王のものなのか。
ノアがそう尋ねても、誰も答えなかった。
「本当に俺じゃないんですか」
それにも答えはなかった。
衛兵が近づいてきた。
隔離するよう命じられたらしい。
ノアは両腕を掴まれ、状況が理解できないまま連れていかれそうになる。
その途中で、一人の衛兵が聖剣を取り上げようと柄に触れた。
次の瞬間、その男の身体は鎧ごと後方へ弾き飛ばされた。
ノアが驚いて手を離す。
聖剣は床へ落ちるかと思われたが、石床に触れる直前で静かに止まり、そのまま再びノアの手元へ戻った。
今度こそ、誰も動かなかった。
大神官セラフォンの顔から、一瞬だけ血の気が引いた。
ノアはその表情を見た。
「本当に俺なんじゃないですか」
今度は、少しだけ声が震えていた。
それでも答えはなかった。
その日のうちに、ノアは大聖堂地下の牢へ入れられた。
異端者や危険な魔術師を拘束するための場所だった。
鉄格子。
冷たい石床。
高い場所にある小さな窓。
聖剣だけは、何度試しても彼から離れようとしなかった。
勇者が選ばれたその日。
祝福も、称号も、金も、仲間も与えられず、最初に用意されたものは牢だった。
夜になり、ノアは壁へ背を預けて座り、膝の上へ聖剣を置いた。
剣身の文字は消えていない。
《勇者ノア》
指先で触れると、金属とは思えないほど温かかった。
「間違いじゃないのか」
返事はない。
「選んどいて黙るなよ」
小さな声は石壁へ吸い込まれていった。
ノアはその夜、ほとんど眠れなかった。




