第一章 人ではない者
死者を載せた荷車が王都の中央通りを通ることは、古くから禁じられていた。
そのためノア・イルヴァンの一日は、王都を囲む石壁の向こうから朝日が姿を現すよりも早く、商人たちが店先の鎧戸を開け、職人たちが工房に火を入れるよりも早い時刻から始まる。まだ夜露が石畳に薄く残り、遠くで巡回の衛兵が交代を告げる声だけが聞こえる時間であれば、街の者たちと顔を合わせることも少なく、余計な罵声を浴びることなく仕事を済ませられるからだった。
ただし、それほど早い時間であっても、首から下げた小さな鉄の鐘だけは鳴らさなければならなかった。歩くたびに乾いた金属音が薄暗い路地へ落ち、その音を聞いた者は道を空け、窓から顔を出した者はすぐに引っ込む。
不可触民が通る。
穢れた者が通る。
触れるな。近寄るな。
その意味を、ノアは物心がつくよりも早く教え込まれていた。
王都西区の裏門へ着くと、いつものようにバルトが待っていた。五十をいくらか過ぎた男だが、三十年以上にわたって死体運びや下水作業に従事してきたために腰は曲がり、髪もほとんど白くなっており、実際の年齢より十歳ほど老けて見える。
「今日は二人だ」
バルトはそう言うと、布の掛かった荷車を顎で示した。
ノアが覆いをめくると、一人は老人で、胸元には王都木工職人組合の印が残っていた。もう一人は七、八歳ほどの少年で、粗末な生地ではあるものの、何度も丁寧に繕われた服を着せられている。どちらも不可触民ではなく、生前であればノアと同じ井戸の水を飲むことさえ嫌がっただろう人々だった。
それでも、死んでしまえば最後に身体に触れるのはノアたちだった。
「坊主の方は熱か」
ノアが尋ねると、バルトは少年の顔へ掛けた布を少し直してから、街医者の見立てでは疫病ではないと答えた。教会の治癒を受けられなかったのかと聞くと、家に十分な金がなかったらしい。
ノアはそれ以上尋ねなかった。
王都では、身分が高ければ死なないというわけではない。ただ、死ぬまでに与えられる猶予が違うだけだった。金のある者なら薬を買い、貴族なら高位神官の治癒術を受けられる。貧しい市民は運が良ければ慈善院へ入り、農奴や不可触民であれば、熱が下がることを願いながら眠り、そのまま目を覚まさなければ翌朝にはノアたちの荷車に載せられる。
少年の身体を抱き上げると、その軽さにノアは僅かに眉を寄せた。
背後からバルトが、七歳だったそうだと付け加えたが、ノアは聞いていないとだけ返して荷台へ横たえた。聞いたところで、もうどうすることもできない。
二人は荷車を押して歩き始めた。
大通りは使わず、商家の裏手を通り、酒場の物置脇を抜け、石壁と石壁の間に無理やり残されたような細い路地を辿っていく。それが不可触民に許された王都だった。
中央広場へ入ることはできない。
公衆井戸を使うこともできない。
教会へは裏口からしか入れない。
市場では決められた時間にしか物を買えず、貴族と道で行き合えば、相手が通り過ぎるまで壁際に伏していなければならなかった。
同じ王都に住んでいながら、ノアたちの世界は細い裏路地だけで繋がっていた。
十歳のころ、一度だけバルトから、この王都をどう思うと尋ねられたことがある。そのときノアは、大きな城壁と無数の家並みしか思い浮かばず、広いと答えた。するとバルトは笑いながら、自分たちには狭い町だと言った。
その言葉の意味を理解するまで、それほど時間はかからなかった。
「ノア」
パン屋の裏口から声がした。
振り向くと、十二歳になるミナが顔だけを覗かせていた。自分で切った黒髪は左右の長さが揃っておらず、頬にはまだ幼さが残っている。
五年前に両親を亡くした少女であり、その後は黒街の何軒かが食事を分け合いながら育ててきた。ノアにとっては妹のような存在だった。
「出てくるな。まだ街の人間が起きてる」
ノアが小さく手を振ると、ミナは誰もいないと反論しながらも路地へは出ず、代わりに小さな布包みを投げて寄越した。
中には、昨日の売れ残りらしい硬いパンが二つ入っている。
盗んでいないだろうなとノアが念を押すと、ミナは昨日パン屋の床掃除を手伝った礼だと不満そうに答えた。
ノアは一つを荷車の端へ置き、残りを彼女へ投げ返した。
「食え。二つもいらない」
「いつも二つ食べるじゃん」
「今日は死体が軽いから腹も減らない」
「そんなの関係ないでしょ」
呆れたように言いながらも、ミナはパンを受け取った。
しばらくして、彼女は手の中のパンへ目を落としたまま、昨日教会の神官が黒街に来ていたことを話し始めた。病人を診るためだったらしい。
そこで不可触民は、昔大きな罪を犯した者たちの子孫であり、神から穢れを与えられているのだと聞かされたという。
ノアは荷車へ掛けていた手を止めた。
「そういうことになってるな」
「でも、私、何もしてないよ」
ミナが顔を上げた。
ノアはすぐには答えなかった。
目の前の少女はまだ十二年しか生きていない。何百年前に誰かが何をしたのかなど知りようもなく、その罪が彼女にどう繋がるのか、ノアにも分からなかった。
「前の人が悪いことしたんだろ」
「じゃあノアは?」
「知らない」
「バルト爺ちゃんは?」
ノアが、顔だけなら悪人に見えると答えると、少し先で荷車を押していたバルトが聞こえているぞと低く笑った。
それでもミナは笑わなかった。
「私たちが穢れてるなら、なんで神様はそうしたの?」
その問いに、ノアは困った。
自分に聞くなと返しながら、教会へ行って神官に聞けばいいとも思ったが、不可触民が礼拝堂へ入れるのは裏口からだけであり、祭壇へ近づくことも許されていない。
そのことを伝えると、ミナは少し考えてから、裏口から入ったら神様にも裏からしか会えないのかと尋ねた。
ノアも、バルトも、すぐには答えられなかった。
ミナは自分が変なことを言ったのかと思ったらしく、不安そうな顔をしている。
「神様に会ったら聞いてみる」
ノアがようやくそう言うと、ミナは会えるのかと聞き返した。
「たぶん無理だ」
そこでようやく、少女は少し笑った。
その日の昼過ぎ、黒街へ白い法衣の男が現れた。
裾が泥に触れないよう片手で持ち上げ、口元を白布で覆っている。後ろには従者を二人連れていた。
神官の姿を認めると、住民たちは静かに道を空けた。子供は家の中へ押し込まれ、仕事中の者も手を止めて壁際へ下がる。ノアも荷車を脇へ寄せ、決まり通り片膝をついた。
神官は周囲を見回した後、今年十八歳になる者は前へ出るよう告げた。
誰もすぐには動かなかったため、もう一度同じ言葉が繰り返された。
ノアは立ち上がった。
「俺です」
神官の眉が僅かに動いた。
不可触民から直接声をかけられることを好ましく思わなかったのだろう。
名前を問われ、ノア・イルヴァンと答えると、従者が名簿を確認した。
それから神官は巻物を開き、北方において魔王復活の兆候が確認されたため、本年、教会は聖典に従って勇者選定の儀を行うと告げた。
黒街の空気が僅かに変わった。
北で魔物が増えたという噂は、ここにも届いていた。古い封印塔が一つ崩れ、夜空に赤い星が現れたとも言われている。百年前の魔王復活と同じ兆候だと、酒場では何度も話題になっていた。
神官は続けて、王国法ならびに聖典第九章により、十八歳のすべての民は選定を受ける義務があると読み上げた。
その言い回しを聞き、ノアは思わず小さく笑った。
神官の顔が険しくなる。
「何がおかしい」
一度は謝ったものの、答えよと重ねて言われたため、ノアは少し迷った末、法律はこういう時だけ自分たちを民として数えるのだと思ったと正直に答えた。
黒街が静まり返った。
バルトが小さく息を吐く。
神官の顔は赤くなったが、それ以上の叱責はしなかった。
聖典には確かに、神の剣を選ぶ場において血統と身分を問うべからずと記されている。不可触民も、形式上は対象になる。
もっとも、歴代勇者は王族、大貴族、高位聖職者の家からしか出ていない。
誰も、本当に不可触民が選ばれるなどとは考えていなかった。
神官は翌朝、日の出までに大聖堂へ出頭するよう命じ、最後に身体をよく洗ってくるよう付け加えた。
黒街には身体を洗う習慣くらいある。
住民の何人かが俯いたまま笑いを堪え、神官は気づかないふりをして去っていった。
夕方。
共同井戸の脇で、ノアは桶の水を頭からかぶっていた。
夏とはいえ地下水は冷たく、肩が僅かに震えた。
隣でしゃがんでいたミナが、本当に勇者になるのかと聞いた。
ノアは自分が選ばれるはずはないと答えたが、ミナは神様が全員から選ぶのでしょうと首を傾げる。
ノアにしてみれば、あれは形だけの儀式にしか思えなかった。
勇者になるのは王子や貴族。
それが当たり前なのだろう。
「もし選ばれたら?」
ミナがもう一度尋ねた。
ノアは桶を井戸の縁へ置き、少しだけ考えた。
魔王と戦う。
人々を守る。
世界を救う。
どれも自分から遠い言葉だった。
「困るな」
「どうして?」
「勇者って、みんなを助けるんだろ」
「そうだよ」
「だったら嫌だ」
ミナが目を丸くした。
ノアは王都の城壁を見上げた。
巨大な石壁の向こうには十数万人が暮らしている。
自分たちはその外側にいた。
「俺たちを助けなかった奴まで、なんで俺が助けなきゃならない」
その時は、半分ほど冗談だった。
翌日には、その言葉を自分自身へ問い返すことになる。




