第87話 行け
「マスター」
背後から、シルヴァさんの声がした。
直後、壁が俺にぶつかった。
違う。俺が壁にぶつかった。
何が起きたのか分からなかった。
背後から何かに殴られて、体が浮いて、コア部屋の壁に叩きつけられた。
視界が回る。
息が詰まる。
床に転がって、咳き込んだ。
顔を上げると、ラセツも反対側の壁際で倒れていた。
扉があった場所は崩れて穴が開いている。
扉に手をかけたまま、壁ごと押し飛ばされたらしい。
ラセツの目が驚愕で見開かれている。
こいつがこんな顔をするのは、初めて見た。
部屋の中央に、根が生えていた。
床を突き破って生えた太い根。
シルヴァさんの根だ。
十六階層の森から、階層を貫いて、コア部屋まで伸びてきている。
「マスター」
シルヴァさんの声が響いた。
いつもの穏やかな声ではなかった。
「ラセツ」
穏やかでは、まるでなかった。
「何をしているんですか」
根が二本に分かれて、俺とラセツに向かって伸びた。
腰と胸に巻きつく。
持ち上げられる。
抵抗する暇もなかった。
ラセツが歯を食いしばって根を引きちぎろうとする。
千切れる。
だが千切れた端から新しい根が巻きつく。
「姉御、離せ」
「いやです」
「離せっつってんだろ!」
「嫌だと言いました」
根がさらに締まった。
「マスター。出ていけとおっしゃいましたね」
「……」
「二度と戻ってくるなとも」
「……」
「ラセツ。くだらない時間だったと言ったわね」
「……」
「あなたたち」
シルヴァさんの声が、少しだけ震えた。
「売り言葉に買い言葉だったことはわかります。それでも、あなたたちは言ってはならないことを言いました」
シルヴァさんが俺を見る。
「二度と戻ってくるなは、帰る場所を奪う言葉です」
何も言えなかった。
ラセツも黙った。
「朝まで、そこにいてください」
「朝まで!?」
「朝まで、です。頭を冷やしなさい」
根が、俺とラセツを並べるように天井近くまで吊り上げた。
視線の高さが同じになる。
ラセツと目が合った。
シルヴァさんの気配が遠ざかる。
もう聞いていない。
コア部屋に、俺とラセツだけが残された。
天井近くで、並んで吊るされたまま。
長い沈黙だった。
一時間か、二時間か。
根が肋骨に食い込んで、肩が痛い。
ラセツの方を見ると、同じように不快そうな顔をしている。
最初に口を開いたのは、俺だった。
「……最後のは、言い過ぎた」
「どれだ」
「二度と戻ってくるな」
ラセツが、天井を見た。
「あれは、確かにイラッとした」
「ああ」
「……俺もだ」
「どれだ」
「クソくだらねぇって奴だ。ここでの生活まで、まとめて否定する気はなかった」
「分かってる」
「ただ」
ラセツが、こちらを見た。
「お前の盤面に置かれてる感じは、本当にくだらなかった。そこは撤回しねぇ」
「……それは否定しない」
また沈黙。
根が軋む音だけが聞こえる。
「俺が悪かったとは言わない」
「ああ」
「でも、最後のは、俺が悪い」
「俺も全部悪かったとは言わねぇ。だが、出ていき際のあれは、俺が悪い」
ラセツが、息を吐いた。
「なあ、ユート」
「ん」
「俺は出ていく。それは変わらない」
「分かってる」
「お前に追い出されたから出ていくんじゃねぇ。俺が出たいから出る。そこは間違えるな」
「ああ」
「お前の手綱が気に食わなかったんだ」
「ああ」
「なら外してくれ」
俺は、しばらく考えた。
根に吊るされたまま、考えた。
「……条件がある」
「また条件かよ」
「お前に死なれるのは困る。自分で稼いだDPは自由に使え。だから死ぬな」
「あのな……死ぬなってのも、鎖だぞ。俺は生きたいように生きて、死にたいように死ぬ」
「そうだ」
俺は、正直に言った。
「でも、今までよりは長い鎖だろ。完全に放すのは、俺にはまだ無理だ」
ラセツが、しばらく俺を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
今度は目も笑っていた。
「正直でいいじゃねぇか」
「正直しか取り柄がない」
「嘘つけ。お前は嘘も上手い」
「褒めてるのか」
「褒めてねぇ」
朝になった。
根が緩んで、二人とも床に降ろされた。
体のあちこちが痛い。
ラセツも首を回して、肩をほぐしている。
背中を叩きつけられた跡が、まだ鈍く残っている。
ラセツが金棒を拾い上げて、肩に担いだ。
扉の前まで歩いて、一度だけ振り返った。
「帰るかどうかは」
「お前が決めろ」
「ああ」
「行け。気が向いたら帰ってこい」
ラセツが、一歩、踏み出しかけた。
「帰ってくるまでに、少しはマシな主になっておく」
ラセツが立ち止まった。
振り返らなかった。
「期待しないで待ってるぜ、ユート」
扉が開いて、ラセツが出ていった。
その後ろを、一体のゴブリンが音もなくついていく。
誰にも言われていない。
勝手についていく。
扉が閉まった。
コア部屋に、俺だけが残った。
「マスター」
ぽんこの声。
振り返ると、ぽんこが立っていた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
「ですよね」
「でも、正しいことをしたと思う」
「正しかったかどうかは、ぽんこにはわかりません」
「……そうか」
「でも、マスターがちゃんと送り出したのは、見てました」
ぽんこは、笑わなかった。
静かに、小さく頷いただけだった。




