第58話 アウル村の夜
【side:アウル村】
アウル村の夜は、いつも静かだ。
十歳のミナにとって、夜の村は退屈だが安心できる場所だった。
祖父が背を丸めて教会の石段に座り、ミナはその隣でパンの端をかじっていた。
遠くからなにか、音が聞こえた気がしてミナは顔を上げた。
村の南端で何かが燃えている。
家が壊れる音だ。
木が裂け、壁が倒れ、中から悲鳴が噴き出してくる。
祖父が立ち上がった。
杖を握り、ミナの手を掴む。
「来い」
ミナは立ち上がり、走りはじめようとして、足が止まった。
祖父の背後に、影が立っていた。
緑色の肌。
低い体勢。
手に何かを持っている。
ゴブリン。
ダンジョンのモンスターだと理解する前に、その棍棒が祖父の背中に振り下ろされていた。
鈍い音が夜の空気を叩き、祖父が前のめりに倒れる。
祖父が叫んだ。
杖を振り上げた。
振り下ろす前に、横からもう一体が祖父の腕を掴んだ。
ミナは動けなかった。
祖父がこちらを見た。
掴まれた腕のまま、顔だけをミナに向けて、口が動いた。
「逃げなさい」
聞こえたのか、読み取ったのか、分からない。
足が動いた。
背を向けて走った。
闇の中に飛び込んだ。
背後で何かが崩れる音がした。
振り返らなかった。
リオンが異変に気づいたのは、アウル村の南門から煙が上がった時だった。
村の外れで野営していた。
今夜はダンジョンからの帰りで、明日の朝に村へ立ち寄るつもりだった。
カークが火の番をしていて、エルノは寝袋に潜り込んでいる。
「カークさん、あれ——」
「見えてる。起こせ」
エルノを叩き起こし、三人で駆けつけた時には、村の南側は半壊していた。
家が崩れ、住人が逃げ惑い、その間をゴブリンの群れが走り回っている。
数十体。
ダンジョンから溢れたにしては統率が取れていて、散発的な暴徒というより明確な意図を持って破壊を進めている。
「リオン、正面。押し返すな、足止めでいい」
カークの指示は的確だった。
剣を抜きながらリオンは広場に飛び込む。
最初のゴブリンが棍棒を振りかぶるのを盾で受け止め、踏み込んで蹴り飛ばした。
二体目が横から来る。
剣で払う。三体目。
多い。
エルノが後方から魔法を飛ばしている。
小さな火球がゴブリンの足元で弾け、動きを止める。
威力は低いが的確で、リオンが斬るための隙を作ってくれていた。
カークは広場の入口に立ち、逃げてくる村人を背後へ通しながら、近づくゴブリンだけを短剣で処理している。
退路と迎撃の両方を一人で見ている。
善戦はしていた。
だが数が違いすぎる。
倒しても倒しても、暗闇の奥から新しいゴブリンが湧いてくる。
家の陰から、路地の裏から、屋根の上から。
一体ずつは弱いが、途切れない。
三人で支えられる限界を、じわじわと超えていく。
十体、二十体。
普段のダンジョン攻略では倒したことのない数のゴブリンを倒し、リオンの腕が重くなってきた時、村の北側から悲鳴が聞こえた。
振り返る。
広場を挟んだ反対側、リオンの実家がある通りだ。
母がそこにいる。
「カークさん、北側——」
「聞こえてる。だが動くな。ここを離れたら南が抜かれる」
分かっている。
分かっているが、もう一度悲鳴が聞こえた。
母の声だった。
リオンが走り出す前に、カークが叫んだ。
「行け、リオン!エルノ、広場は俺が持つ、援護しろ!」
カークは、リオンが動くことを止められないと判断して、代わりに崩れる戦線を自分で引き受けた。
リオンは走った。
路地を駆け抜け、角を曲がり、北側の通りに出る。
母が地面に座り込んでいた。
その前に、ゴブリンが三体。
間に合うか。
間に合わない。
一体が棍棒を振り上げ——
その腕を、横から飛び込んできた何かが叩き折った。
赤い肌。
裸の上半身。
肩に担いだ金棒が、ゴブリンの腕ごと通り抜けて石畳に突き刺さる。
残りの二体が反応する前に、影が走った。
気づいた時には、二体とも地面に転がっていた。
何が斬ったのかも分からなかった。
音がなかった。
リオンは足を止めて、目の前の光景を見ていた。
赤い肌の男が金棒を引き抜き、隣に立つ——いや、いつの間にかそこにいた黒い影のような細身の少年が、音もなく次の路地へ消えていく。
そして、二人の後ろから、人間の男が歩いてきた。
探索者でも兵士でもない。
鎧を着ていない。
表情は疲れているが、目だけが冷えていた。
「生きてるな」
リオンに向けた言葉ではなかった。
恐怖で気絶している母を見て、確認しただけだ。
「あ——あんた、誰——」
リオンの声が震えている。
男は答えなかった。
村の方角を見て、短く言う。
「まだいる。片付けろ」
赤い男が金棒を担ぎ直し、闇の中へ走っていった。
足音が建物を揺らす。
続けて、衝撃と破砕音。
ゴブリンが吹き飛ばされる音が連続で聞こえてくる。
一方的だった。
さっきまで三人がかりで押し返せなかったゴブリンの群れを、あの二人が蹴散らしている。
赤い男は通りを一直線に進みながらゴブリンを薙ぎ払い、黒い少年は影のように路地へ路地へと消えていく。
消えた先で、ゴブリンが倒れる音だけが残る。
数分で、戦闘音が途絶えた。
残ったのは、壊れた家と、座り込んだ村人と、燃え残りの煙だけだった。




