没話3
「……おい、お前ら。いいか、今日は絶対に『音』を出すなよ。もしマフラーからコンマ1デシベルでも余計な振動を漏らしてみろ。俺は迷わずお前らの車に鶏糞を詰め込んで、強制的にエコカーに改造してやるからな」
埼玉中央総合大学、早朝のE塔裏駐車場。加賀練斗は、まるで爆弾処理班のような慎重な足取りでセリカのドアを閉め、サークルメンバーたちに鋭い眼光を向けた。
その手には、自作の「騒音計」が握られている。昨日、葛城准教授という名の「精密誘導兵器」に遭遇して以来、S・H・Bの面々は深刻なPTSD(ポスト・ツインテール・ストレス・ディスオーダー)に陥っていた。
「わ、わかってるよ加賀くん……。僕だって命は惜しい。今日は愛車のノートのアイドリングすら禁止して、人力でここまで押してきたんだ。見てくれよ、この腕の筋肉。ケモノを抱きしめるためじゃなく、日産の鉄塊を押すために使わされるなんて……!!」
鈴木準が、ガクガクと震える腕をさすりながら呟く。その横では、細田葵人がフィットの影で息を殺し、マイケル・タナーは星条旗のハンカチを口に咥えて「むぐぐ……」と唸っていた。
「……静かだ。……静かすぎる。……まるで、VTECが絶滅した後の世界みたいだ」
細田が、震える声で空を見上げる。
「SHUT UP!! ホソダ!! むぐむぐ……(訳:喋るな! 肺の中の空気が漏れるだけで葛城先生のレーダーに引っかかるぞ!!)」
マイケルが必死にジェスチャーで制止するが、その静寂は長くは続かなかった。
「……あ。……あ、……っ、ハ、ハックシュンッ!!!」
雅紀が、不意に飛んできた冬の埃に反応して、盛大なクシャミをブチかました。
その音は、静まり返ったE塔の壁に反響し、こだまとなってキャンパス中に響き渡った。
「「「「あ」」」」
全員の時が止まった。
加賀がゆっくりと首を回し、雅紀を「今すぐこの場で解体してやろうか」という眼差しで見つめる。
「……雅紀。お前、今、何をした?」
「い、いや、……不可抗力なんだ!! 鼻の粘膜が急にアクティブ・ヨー・コントロールを起こして……!!」
「言い訳は墓場で聞く!! 逃げろ!! 全員、今すぐハイオクの匂いを消して地下に潜れぇぇぇ!!!」
加賀の号令が飛ぶよりも速く、E塔の三階、日本史学部の研究室の窓が「スッ……」と音もなく開いた。
そこから、ブルーグレーの長い髪をなびかせた葛城零華が、まるで獲物を探すハヤブサのような鋭い視線で地上を見下ろしていた。
「……あら。……朝から、元気なクシャミが聞こえましたわね。……せっかくの静寂が、無粋な肺活量で汚されてしまいましたわ」
葛城の萌え袖が、ゆっくりと持ち上がる。その奥には、昨日よりも一回り太い、プロ仕様の「油性マジック(極太・黒)」が握られていた。
「ま、まずい!! 今日はペンじゃない!! マジックだ!! 質量が増してるぞ!!!」
細田が叫ぶ。
「消えなさい。……耳障りな、炭素の塊たち」
葛城の腕が、しなやかに、かつ重戦車の主砲のような速度で振り抜かれた。
放たれた極太マジックは、空気を文字通り「引き裂く」ような爆音を立てて地上へと殺到した。
「——ドォォォォォォォンッ!!!」
マジックは雅紀のRX-8の、リアスポイラーのコンマ一ミリ上を通過。そのままアスファルトに突き刺さったが、その衝撃波だけでRX-8のセキュリティアラームが「ピィー! ピィー!」と鳴り響き始めた。
「ぎゃああああああああああああ!!! 鳴るな!! 黙れエイト!! 先生に挨拶してる場合じゃないんだよぉぉぉ!!!」
雅紀が必死にバッテリー端子を引き抜こうとするが、葛城の攻撃は止まらない。
「あら、……まだ鳴いていますのね。……よっぽど、私のサインが欲しいのかしら?」
葛城の手が、今度は両方の袖の中へと同時に伸びた。
出てきたのは、合計六本のホワイトボードペン。それも、各色取り揃えられた「マルチカラー・ストライク」の構えである。
「カモン!! ブラザー!! オレが盾になるYO!! USAの誇りに賭けて、先生のペンを全部キャッチしてみせるデーーーース!!」
マイケルが何を勘違いしたのか、レガシィのスペアタイヤを持ち出して葛城の前に立ちはだかった。
「マイケル!! やめろ!! それは死亡フラグだ!!」
加賀の制止も虚しく、葛城の「全色同時投擲」が放たれた。
「——シュシュシュシュシュシュッ!!!」
六本のペンは、精密に計算された軌道を描き、空中で互いに干渉することなくマイケルへと襲いかかる。
一本目はスペアタイヤの中央を貫通し、二本目はマイケルの帽子のツバをかすめ、残りの四本はマイケルの足元に「五芒星」の形を描いて突き刺さった。
「……Oh. ……ミステリーサークル……?」
マイケルが、股の間に突き刺さった赤いペンを呆然と見つめる。
「ふふ、……次はお主の『排気管』に、直接蓋をして差し上げますわ」
葛城の瞳に、獲物を追い詰めるサディスティックな光が宿ったその時、駐車場の入り口から「ドロドロドロ……」という、この世で最も空気を読まない音が近づいてきた。
「零華くぅぅぅぅん!!! おはよう!!! 今日も君のソニックグレーのような髪は美しいね!!! さあ、私のコルトに乗って、一緒に朝の学食で納豆定食を食べようじゃないかぁぁぁ!!!」
大宮涼真先生である。彼は自分の赤いコルトの窓から身を乗り出し、満面の笑顔で葛城に手を振っていた。
「……大宮、先生」
葛城零華のオーラが、さらに一段階冷え込み、周囲の気温が物理的に氷点下へと叩き落とされた。
「……あなたは、学習という言葉を辞書から抹消してしまったのかしら? ……その赤い鉄クズの音を聴くたびに、私の脳細胞が数万個単位で死滅しているのがわからないの?」
「はっはっは! 相変わらず手厳しいね!! だが、愛のエンジンの鼓動は止められないのさ!! さあ、零華君、降りておいで!!」
「……わかりましたわ。……今すぐ、あなたのその『愛』とやらを、物理的に停止させて差し上げます」
葛城の手が、研究室の机から「予備のペンケース(箱ごと)」を掴み取った。
「「「「「大宮先生ぇぇぇぇ!!! 逃げてぇぇぇぇぇ!!!!! それは定食の誘いじゃなくて死刑宣告だぁぁぁぁぁ!!!!!」」」」」
S・H・Bの面々が絶叫する中、葛城零華の「無差別・絨毯爆撃」が開始された。
窓から投げ込まれる大量のホワイトボードペン。それはもはや、文房具の雨ではなく、空からのクラスター爆弾であった。
「——ドシュシュシュシュシュシュドシュッ!!!」
「ぎゃああああああああ!!! 零華君!! 私のコルトに、ペンが!! ペンが刺さっているよ!!! これじゃラリーカーじゃなくてハリネズミだよぉぉぉ!!!」
大宮先生は、車体に無数のペンが突き刺さったコルトを必死に操り、タイヤを鳴らしながらキャンパスの奥へと逃走していった。
静寂。
戦場と化したE塔裏駐車場。
アスファルトには数十本のペンが墓標のように突き刺さり、マイケルはスペアタイヤに穴を開けられたまま、魂が口から抜けていた。
加賀は、自分のセリカを確認した。
幸い、セリカには一本も刺さっていない。……が、代わりに、ワイパーの隙間に一枚のメモが挟まっていた。
「……なんだこれ」
加賀がメモを手に取り、読み上げる。
「『次に音を立てたら、あなたたちの部室の鍵穴に、アロンアルファを流し込みます。……葛城零華』」
「「「「「「最悪だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」」」」」」
その時、駐車場の隅でずっと事の顛末を眺めていた男が、肩を揺らして笑い出した。
「……ククッ、……はははは!! いやぁ、相変わらずだな、葛城の姐さんは。……お前ら、よく生きてたな」
初代OB、高田海斗である。彼はエボⅩの屋根に腰掛け、優雅に缶コーヒーを飲んでいた。
「高田先輩!! 笑ってる場合じゃないですよ!! 先生、マジで俺たちを廃車にする気ですよ!!」
雅紀が詰め寄るが、高田は動じない。
「まぁ、葛城先生に目をつけられるのは、S・H・Bの伝統みたいなもんだ。……俺の頃はな、高橋っていう部員が、葛城先生の教壇の下で『直管マフラー』を磨いてたのがバレて、一ヶ月間、ホワイトボードのインクを素手で掃除させられたぞ」
「伝統が重すぎるんだよぉぉぉ!!!」
高田はエボⅩから降りると、加賀の肩を叩いた。
「……加賀。……葛城先生に立ち向かう方法は一つしかない。……圧倒的な『速さ』で、先生の視神経を置き去りにすることだ。……見えるから投げられる。……見えなければ、神業のエイムも意味をなさない」
加賀の目が、少しだけ光を取り戻した。
「……視神経を置き去りに……。……つまり、ペンが投げられるよりも速く、葛城先生の視界から消えろ、と?」
「そうだ。……それが、この大学でサークルを維持するための唯一の生存戦略だ。……まぁ、そのためには、お前のセリカ、もう少し軽量化したほうがいいんじゃないか? ……まずはその無駄にデカいGTウィングを外すところから——」
「それは無理です。……ウィングは俺の自尊心なんです。……自尊心を捨ててまで生き残っても、それは走り屋じゃない」
「……ふん。……なら、死ぬ気でハンドルを切れ。……その自尊心が、いつかペンに貫かれる日を楽しみにしているぞ」
高田はそう言い残すと、ライトニングブルーマイカのボディを夕陽に輝かせながら、悠然と去っていった。
朱音が、メモ帳の新しいページに「葛城准教授:戦闘記録」と題して、淡々と書き込む。
『記録:新章・第94話。葛城准教授、マジック投擲を解禁。大宮先生のコルトがハリネズミ化。……特記事項:加賀、自尊心を優先して死を選ぶと宣言。……走り屋とは、合理性を捨てた種族であることを再確認——記録完了』
朱音は足元に落ちていた赤いペンを拾い上げ、ボソッと呟いた。
「……これ、呉さんに持っていったら、新しいドリルの刃として使えるかしら」
「使わせるなよ!!! それ、俺たちのトラウマそのものなんだぞ!!!」




