没話2
「……おい、細田。お前、さっきから何をそんなに震えているんだ? お前のその挙動、まるでプラグが一本死んで失火してる時のエンジンみたいだぞ」
四限終わりの埼玉中央総合大学、サークル棟の廊下。加賀練斗は、隣を歩く細田葵人の異常な様子に眉をひそめていた。
細田は、普段の「VTECこそが世界の理」という自信満々な態度をどこへやら、自身の日本史学部のレポートを抱えたまま、角を曲がるたびに「ひっ、……いない。……まだいないな」と、まるで暗殺者に怯える亡命政府の要人のような怯え方を見せていた。
「加賀さん……聞いてください。昨日、高田先輩が言ってた警告、あれは冗談でも都市伝説でもないんです。……我が日本史学部の深淵に、一人の『女神』、いや……『歩く精密誘導ミサイル』が降臨したんです……!!」
「女神? 准教授って言ってたろ。大宮先生みたいな、また変な走り屋仲間が増えるだけじゃないのか?」
加賀が冷めた声を出すと、細田は激しく首を振った。
「全然違います!! 大宮先生は『車バカを甘やかすバカ』ですけど、その准教授……葛城零華先生は、この世で最も『走り屋の排気音』を憎んでいる、静かなる絶滅執行官なんです!!!」
「ヘーーイ!! ガイズ!! 何をそんなにビビってるデスカ!! オレたちS・H・Bの辞書に『恐怖』の文字はナイ!! 英語なら『FEAR』デスが、それはハイオク1リットルで洗い流せるデーーース!! USA!!」
後ろから呑気に星条旗柄のキャップを被ったマイケル・タナーが現れ、細田の背中を豪快に叩いた。その瞬間、細田は「ぎゃあああ!! 出た!! ホワイトボードペンだ!!!」と意味不明な叫び声を上げ、廊下の中央で土下座の姿勢をとった。
「落ち着け細田!! 誰もペンなんか持ってねぇよ!! ……ったく、初代OBの警告が効きすぎだろ。……ん?」
加賀が廊下の向こうから歩いてくる人影に気づき、足を止めた。
そこには、まるでこのカオスな大学の空気だけを濾過して清浄にしたような、圧倒的に「おっとり」としたオーラを纏った女性が立っていた。
ブルーグレーの長い髪が、冬の午後の光を受けて、まるで新車の塗装のような——それこそ、シビックタイプRのソニックグレー・パールのような深みを持って輝いている。
服装は、准教授という肩書きには似つかわしくない、金とターコイズブルーの差し色が入った真っ白なローブ。袖口は、いわゆる「萌え袖」の極致のような状態で、彼女の華奢な指先を半分ほど隠している。
「……あ」
加賀の隣で、雅紀が息を呑んだ。
「……すげぇ美人。……でも、なんか雰囲気が浮世離れしてて、逆に怖い……」
女性は、加賀たちの前でゆっくりと立ち止まった。
その垂れ目気味の穏やかな瞳が、ゆっくりと細田を捉える。
「……あら、細田くん。レポートの提出期限、あと三分ですけれど。……こんなところで、騒がしいお友達と油の匂いを撒き散らして、何をしていらっしゃるのかしら?」
その声は、春のそよ風のように穏やかだった。だが、その言葉の裏には、コンクリートをも凍りつかせるような、圧倒的な「拒絶」の響きが含まれていた。
「か、葛城先生……!! い、今すぐ出します!! ですから、その袖の中に隠している『凶器』をしまってください!! お願いします!!!」
細田の懇願に、葛城零華は首を傾げた。
「凶器? ……失礼ね。私はただ、次の講義で使うための文房具を、大切に持っているだけですわ」
「文房具……? なんだ、そんなにビビる必要ないじゃないデスカ!!」
マイケルが一段階デカい声で笑い、レガシィのキーを指先で回しながら葛城に近づいた。
「ハーイ!! 先生!! オレはマイケル!! 理学部のJDMサムライデス!! 先生の髪の色、ホンダの純正色みたいでクールデスネ!! 今度オレのレガシィの助手席に乗って、ブローオフバルブの生演奏を聴かせてあげマ——」
その瞬間。
葛城零華の穏やかな眼差しから、一瞬にして光が消えた。
彼女は、萌え袖の奥から、一本の「黒いホワイトボードペン」を抜き出した。
それは、マジシャンがトランプを出すよりも速く。
走り屋が1速から2速にシフトアップするよりも鋭く。
「……やかましいわね。……消えなさい、排ガスの塊」
葛城の腕が、しなやかに、かつ剛速で振るわれた。
投げられたのは、ただのペン。重さ数十グラムの、プラスチック製の文房具。
しかし、それが空気を引き裂く音は、まるでライフル弾のそれであった。
「——ドシュゥゥゥッ!!!」
「「「「ぎゃああああああああああああああああ!!!」」」」
ホワイトボードペンは、マイケルの耳元をコンマ数ミリの距離で通過し、背後のコンクリートの壁に——なんと、キャップの先から三センチほどめり込んだ。
沈黙。
コンクリートに突き刺さったペンが、小刻みに震えている。
マイケルは、帽子が風圧で吹き飛んだまま、口をパクパクさせて固まっていた。
「……刺さった。……ホワイトボードのペンが、壁に刺さった……」
雅紀が、引きつった笑いを浮かべながら壁の惨状を確認する。
加賀は、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
(……なんだあのエイム。……ダーツが趣味とかいうレベルじゃねぇ。……肩の関節どうなってんだ!? どんなトルクで投げてやがるんだ、あの准教授……!!)
葛城零華は、何事もなかったかのように再び萌え袖を整えると、おっとりとした口調に戻った。
「あら、ごめんなさい。……手が滑ってしまいましたわ。……最近の文房具は、意外と貫通力が高いのね。……驚かせてしまったかしら?」
「驚かせるどころか殺す気だっただろ今のぉぉぉぉ!!!」
細田が絶叫するが、葛城はすでに興味を失ったのか、レポートを受け取ると背を向けた。
「……細田くん。レポート、受け取りましたわ。……あと、お友達に伝えておいて。……私の視界に入る場所で『ブローオフ』とかいう下品な音を立てたら、次はペンのキャップを外して投げる、と」
「キャップ外したらインクが服に付くだけじゃねぇか!! いや、今の速度だとインクじゃなくて脳漿が飛び散るんだよぉぉぉぉ!!!」
葛城が悠然と去っていこうとしたその時、廊下の反対側から、もう一つの「バカな足音」が響いてきた。
「零華くぅぅぅぅん!!! 待ってくれぇぇぇ!!! 私のコルトに、新しいラリーアートのステッカーを貼ったんだ!! ぜひ見て、君の日本史的知見から感想を述べてほしいんだぁぁぁ!!!」
現れたのは、S・H・Bの顧問(自称)、大宮涼真先生だった。
「……大宮先生」
葛城零華が、振り返る。その表情は、先ほどまでの「無」よりもさらに冷酷な、絶対零度のそれへと変貌していた。
「……大宮先生。……何度言えばわかるのかしら。……私は、あなたのその『動く鉄クズ』への執着に、1ミリも共感できませんの。……むしろ、そのステッカーを貼る暇があるなら、大学の予算で購入したホワイトボードの予備ペンを、全部私の部屋に運んでおきなさい」
「ひっ、……零華君、目が怖いよ!! ホワイトボードペンって、君、またどこかの壁を穴だらけにしたのかい!?」
「……しつこいわね」
葛城の手が、再び袖の中へと伸びる。
大宮先生は、本能的な恐怖を察知したのか、即座に「お疲れ様でしたぁぁぁ!!!」と叫びながら、時速30キロ(自走)の速さで逃走していった。
静寂が戻った廊下。
残されたS・H・Bの面々と、壁に突き刺さった一本のペン。
加賀は、震える手でそのペンを抜こうとしたが、ビクともしなかった。
「……なぁ、準。……俺、さっき決めたことがある」
「なんだ、加賀。……俺も今、ケモ耳よりも大事な『命』の尊さを再確認したところだ」
「……これからの新章、高田先輩とのバトルも大事だが……。……それ以上に、あの葛城准教授がいるエリアには、絶対にセリカを近づけない。……もし駐車場に現れたら、俺はバックギアを叩き込んでフル加速で大学から脱出する」
「……それが正解デスYO。……オレ、今日初めて『死』という概念を英語なしで理解したYO……」
マイケルが腰を抜かしたまま呟く。
そこに、朱音がどこからともなく現れ、壁に刺さったペンを写真に収めた。
『記録:新章・第93話。葛城零華准教授、初接触。……武器:サクラクレパス製ホワイトボードペン(中字・黒)。……攻撃力:コンクリート貫通クラス。……特記事項:大宮先生との仲は最悪。……走り屋サークル、学内に“天然の対空砲”が設置されたことを確認——記録完了』
朱音は無表情でペンを抜き取ると、それを細田に手渡した。
「はい、これ。……亜里沙の狐の呪いよりも、こっちの方が物理的に効くわよ」
「いらないよぉぉぉぉ!!! こんな不吉なもん持ってるだけで、俺の運勢がレブリミット超えて死んじゃうよぉぉぉ!!!」
埼玉中央総合大学。
かつて平和(?)だったキャンパスは、今や「初代OB」と「ペンを投げる准教授」という二大巨頭の挟み撃ちにより、さらなる混沌の渦へと飲み込まれていく。
加賀は、自分のスマホを取り出すと、呉自動車のグループLINEにメッセージを打った。
「呉さん。……ホワイトボードのペンが刺さったバンパーの修理、受け付けてますか?」
呉からの返信は、一言だけだった。
「……お前ら、次は軍隊とでも喧嘩したんか?」




